第四話 小さな光を拾った日
支配エリアの外縁を歩くのは、これで何度目だろうか。
静はオートマッピングを半ば無意識に開きながら、屋敷から少し離れた森の端を進んでいた。
地形はすでに頭に入っている。どの木がどこにあり、どの道がどこへ続いているのか、もう迷うことはない。それでも歩くたびにわずかな発見がある。
地面の起伏、風の流れ、木々の密度。昨日は気づかなかった小さな変化が今日は目に入る。
この世界に来てから、まだそれほど時間は経っていない。
だが少しずつ、この土地に馴染んでいる実感があった。
そして――
「……?」
視界の端で、ひとつだけ光点が揺れた。
オートマッピング上に表示される、中立を示す黄色の点。
それだけなら珍しくはない。森の中には様々な生き物が生息している。
地図上にもいくつもの光点が散らばっているのが常だ。
だがその光は弱々しく、今にも消えそうに明滅していた。
周囲には他の光点がない。敵対も、友好も、支配エリアコアも存在しない。
――単独
妙に気になった。理由は分からない。ただ視線が離れなかった。
他の光点は流れるように移動しているのに、この光だけは動かない。
まるでその場から動けないかのように。
静は一度だけ立ち止まり、地図を閉じる。
支配エリアの境界を意識しながら、光点の方向へと足を向けた。
ここから先は自分の管理下ではない場所だ。
何が起きるかわからない。それでも足は自然と前へ進んでいく。
結界の外に出ると、ほんの数歩で空気が変わる。
支配エリア内の穏やかさが薄れ、代わりに張りつめた気配が肌を撫でた。
風の音も、木々のざわめきも、微妙に違う。
まるで世界そのものが別の法則で動いているかのようだ。
――ここは危険域だ
それでも足は止まらなかった。
オートマッピングを再び開くと、光点はすぐ近くにある。
あと少し。
静は慎重に、だが確実にその場所へと近づいていく。
やがて木々の影が濃くなる場所でそれを見つけた。
「……子猫?」
倒れているのは、小さな黒い生き物だった。毛並みは艶を失い、体は細く、呼吸も浅い。目は閉じられており、意識があるのかどうかも定かではない。
近くの地面には、引きずられたような痕跡と乾きかけた血。
何かから逃げてきたのだろう。
静がそっと手を伸ばした、その瞬間――
胸の奥を何かが掠めた。
怖い。
理由のない不安が、感情になる前に流れ込んでくる。
自分のものではない感情が、心の奥に直接響く。
暗い
視界が閉ざされるような、内側の闇。
光が届かない場所で、一人きりで震えているような感覚。
冷たい
地表の冷気と体温が奪われていく感覚。
もう長い時間ここで動けずにいたのだろう。
動けない
逃げたくても体が言うことをきかない。
力が入らず、立ち上がることもできない。
「……?」
静は眉をひそめた。今のは自分の感覚ではない。
それなのに確かに『感じた』まるで誰かの心が、自分の中に流れ込んできたかのように。
視線を落とすと、黒い子猫が微かに身じろぎをした。耳が小さく動き、呼吸がわずかに速くなる。まだ意識はないが、何かを感じ取っているようだった。
考えるより先に体が動く。
静はしゃがみ込み、そっと両手で包み上げた。
予想以上に軽い。まるで骨と皮だけしかないかのような、儚い重さ。
その途端――
胸の奥の感覚が、ふっと変わった。
あたたかい。
自分の体温が伝わったのか、それとも伝わってきたのか、判別がつかない。
ただ温かさだけが、静かに広がっていく。
腕の中で小さな体がかすかに丸くなる。包まれる。
外界の気配が遠のき、守られた内側だけが残る。
恐怖が薄れ、安心が少しずつ戻ってくる。それは子猫の感覚なのか、それとも自分自身の感覚なのか、もうわからなかった。
静はそのまま歩き出し、支配エリアへと足を踏み入れた。
結界を越えた瞬間、胸に残っていた張りつめた感覚が、音もなくほどける。
空気が柔らかくなり、肌を撫でる風も優しくなる。
支配エリアの内側はやはり違う。
ここは安全だ。ここなら何も恐れる必要はない。
こわくない。
理由は分からない。理屈も説明もない。ただ、確信だけがあった。
この場所なら、この小さな命を守れる。
「……大丈夫だ」
それは独り言だったのか。腕の中の小さな命へ向けた言葉だったのか。
静自身にもまだ分からない。
だが一つだけはっきりしていることがあった。
この出会いは――偶然ではない。
オートマッピングに表示された光点。弱々しく明滅していたあの光。
それは誰かが自分に見せたものなのかもしれない。
遠くから、静かに、道を示すように。
オートマッピングの光点は、いつの間にか消えていた。
代わりに静の腕の中で、小さな鼓動だけが確かに生きていた。
規則正しく、だがまだ弱々しい鼓動。それでも確かに生きている。
屋敷へ戻る道すがら、静はそっと子猫を見つめる。
黒い毛並み、小さな耳、閉じられたままの目。
まだ幼い。生まれてそれほど経っていないのかもしれない。
「……名前、つけないとな」
そう呟いて静は歩みを速めた。
まずは手当てだ。怪我の状態を確認し、温かい場所で休ませてやらなければ。
世界は――また少しだけ、変わり始めていた。
静かに、確実に。




