第二十四話 賑やかな鍋と思いがけない迎えの約束(前編)
静の一言でひとしきり笑い声が広がったあと、皆はそれぞれの席へと腰を下ろした。
エナはセリナの隣の椅子にちょこんと座った。背もたれにはほんの少しだけ触れる程度で、膝の上で両手をきゅっと揃えている。その足元には当然のような顔をしたツキが陣取り、ルナとサンがその両脇へぴたりと寄り添った。
「さてと。その前に、これも出しておこうかな」
静は何もない空間へ手をかざすと、小ぶりの器をいくつも取り出し、テーブルの空いているところへ手際よく並べていった。
香ばしい焦げ目のついた焼きおにぎりに、照りの美しい鶏肉。とろりとしたあんをまとった肉野菜炒めに、ほんのりと赤紫に色づいたリゾット。淡い紫色のご飯に黒い粒が点々と散った、小さなおにぎり。
器の上からは、たった今仕上げたばかりのような湯気が、ふわりと立ちのぼった。
「昨日、試しに作ってみた料理なんだ。フレイアさんとフォルティナさん、それにエナは初めてだから、少しずつ味見してもらおうと思って」
「まあ……こんなにたくさん」
フォルティナが目を瞬かせる隣で、アリアが器を覗き込み、くすりと笑った。
「お昼のお弁当でも食べたのに、こうして並んでいると、また食べたくなるわね」
「昨日のも全部ある〜! 焼きおにぎりも、照り焼きも!」
フィアが両手を挙げて喜ぶと、肩の上のハルも「ひゅん♪」と翼をぱたぱたさせた。
「さて、それじゃあ……お待ちかねの、すき焼きを始めようか」
静がテーブルの中央の浅い鉄鍋へと向き直ると、全員の視線が一斉にそこへ集まった。
◆◆◆
「すき焼きはね、まずお肉からなんだ」
静は熱した鉄鍋に脂身をひとかけら滑らせ、鍋肌に薄く脂を馴染ませた。そこへ薄切りの肉を一枚ずつ、ふわりと広げるように置いていく。
じゅわっ、と小気味よい音が弾けた。
肉の縁がみるみるうちに色を変えていくのを見計らって、静はセリナが味を整えてくれた割り下を鍋肌からそっと回し入れる。
途端に甘じょっぱく香ばしい湯気が立ちのぼった。新しい『醤』の深いコクと、焦げた砂糖の甘い香りが混ざり合い、ダイニングいっぱいに広がっていく。
「……っ」
誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
「お肉に火が通ったら、空いたところに野菜やキノコ、お豆腐を入れて、割り下で煮ていくんだ。煮えたものから好きに取って……この溶いた卵にくぐらせて食べるんだよ」
静はそう言って、各自の前に置かれた小鉢を指し示した。小鉢の中では、艶やかな黄身がとろりと溶かれている。
「卵を……生のまま、ですか?」
フォルティナが小鉢を見下ろし、目を瞬かせた。その隣でエナも同じように小鉢を覗き込み、それから不安そうに師匠の横顔を見上げる。
「うちの卵は新鮮だから、大丈夫ですよ。熱いお肉が卵で少し冷めて、味もまろやかになるんです」
静が穏やかに説明すると、セリナが「では、私が先にいただきますね」と微笑んだ。
ほどよく煮えた肉を一枚取り、卵にくぐらせて、そっと口へ運ぶ。
「……ふふっ。やっぱり、とても美味しいです」
ほころんだ師匠の表情を見て、エナも意を決したように、セリナと同じ手つきで小鉢を持ち直した。
その間にも鍋の中では肉がくつくつと音を立てていた。
鍋のすぐそばでは、フィアがこれ以上ないほど前のめりになっている。
猫耳はぴんと鍋の方を向き、椅子の後ろでは尻尾がゆらゆらと大きく揺れている。肩の上のハルまで、まったく同じ角度で身を乗り出し、鍋の中をじっと覗き込んでいた。
静の説明が続く間にも、フィアの箸の先が、少しずつ鍋の縁へと近づいていく。
ぺしっ
「まだ赤いでしょ」
アリアに手の甲を軽く叩かれ、フィアは「うぅ……」と箸を引っ込めた。
「フィア、あともう少しだよ」
「いい匂いすぎて待てないよ〜……」
情けない声を上げるフィアと、その肩で同じようにしょんぼりと翼を畳むハルの姿に、テーブルのあちこちから笑い声がこぼれた。
「はい、いいよ。どんどん取って」
静の言葉と同時に、フィアの箸が鍋へと飛び込んでいった。
◆◆◆
最初のひと口に、それぞれの反応がはっきりと表れた。
フォルティナは上品に口元を押さえたまま、言葉よりも先に、目を大きく見開いた。
「お肉が……とろけるようです。甘いのに、しつこくなくて……」
「割り下の甘さの奥に、ちゃんと醤のコクがあるのね。それを卵がまろやかに包んで……ほんと、よく考えられてるわ」
フレイアは冷静に分析してみせながらも、その箸は一度も止まらない。二枚目の肉へ伸びる手つきの素早さに、ミレイアが「姉さん、早いわね」とくすりと笑った。
そしてエナは熱い肉にはふはふと息を吹きかけながら頬張り、そのまま目をまんまるにして師匠を見上げた。
言葉にならないらしい。ただ、こくこくと何度も頷いている。
「ふふ。美味しいですか、エナさん?」
「……っ、はい! すっごく、美味しいです……!」
ようやく飲み込んだエナが声を弾ませると、静は嬉しそうに目を細めた。
鍋の中では割り下を吸った森香茸がふっくらと膨らみ、それだけで出汁のような良い香りを放っている。その香りにテーブルの下からルナがくんくんと鼻をひくつかせた。
フォルティナがたけのこご飯をひと口含み、ふと箸を止めた。
「このたけのこ……もしかして、あの竹林の……?」
「うん。今朝、ちょっと掘りに行ってきたんだ」
「まあ……皆で掘った時のことを思い出しますね。リーナさんの魔法で、ぽこぽこと出てきて」
懐かしそうに目を細めるフォルティナの隣で、フレイアは大樹魚の煮付けに箸を入れている。
「こっちは大樹の源泉の魚ね。あの時の塩焼きも美味しかったけれど、煮付けると全然違う感じになるのね」
甘辛い煮汁が身の奥まで染みた白身は、箸を入れるだけでほろりとほどけていく。フレイアは満足そうに頷きながら、もうひと切れへと手を伸ばした。
「あ、そうだ。忘れないうちに」
静はおろし金と、皮を剥いておいた草芋を手に取った。
「これはね、食べる直前にすりおろすんだ。先にすりおろしておくと、色が変わっちゃうから」
静がおろし金の上で草芋を滑らせると、真っ白な芋がとろりとした白いものへと変わっていく。それを古代麦を混ぜて炊いた淡い紫色のご飯の上へとたっぷりかけ、醤を少しだけ垂らした。
「麦とろご飯っていうんだ。混ぜて、さらさらって食べてみて」
器を受け取ったエナは、箸で持ち上げた瞬間、驚いたように声を上げた。
「わっ……! ね、ねばねばしてます……!」
糸を引く草芋に目を丸くしながら、おそるおそる口に運ぶ。次の瞬間、エナの表情がふわりとほどけた。
「……つるってしてて、優しい味です」
「草芋はあの草原で皆で掘ったものですよね。こんな食べ方もあるなんて……」
フォルティナも感心したように器を見つめ、さらさらと口へ運んでいく。
昨日の試作品にも、次々と箸が伸びていった。
いつの間にか、アリアの取り皿には照り焼き肉がこんもりと積まれている。それに気づいたリーナが「アリア、それ何枚目?」と呆れたように言うと、アリアは「数えてないわ」と涼しい顔で答えた。
フォルティナは古代麦のリゾットをひと匙すくい、ぷちぷちと弾ける食感に目を瞬かせた。
「不思議な食感ですね……噛むたびに、香ばしさが広がって」
フレイアは醤バター焼きおにぎりを頬張ったまま、しみじみと呟いた。
「これ、道中に持っていけたら最高ね……」
その小さな独り言に静がちらりと顔を上げたことに、フレイアはまだ気づいていなかった。
テーブルの下では、七匹の幼体たちが床の小皿を囲んで大はしゃぎしていた。
「きゅきゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」「くぉん!」「ぴぴっ!」
ツキはルナとサンの小皿に、自分の分の切れ端をそっと前足で寄せてやっている。マルは頬をまんまるに膨らませ、ハルはフィアの椅子の脚に寄り添って、時折フィアがくれるお肉に尻尾をふさふさと振っていた。
「にゃ」
ツキがひと声鳴くと、マルはしぶしぶといった様子で、口の中のものを飲み込んでから次の料理を食べ始める。
◆◆◆
すき焼きの鍋に二回目の肉が入り、皆のお腹も少し落ち着いてきた頃。
フレイアがサラダの皿へと視線を落とした。夏野菜の間に、黒い粒がぷちぷちと散っている。さっきリビングで飲んだ麦茶の、あの赤みがかった色。そして今の麦とろご飯にも同じ黒い粒。
フレイアは箸を置き、隣のリーナへとにっこり微笑みかけた。
「……それで、リーナ。そろそろ『色々』を聞かせてもらえるかしら?」
「ふふ、そうね。そろそろいい頃合いかしら」
リーナが楽しそうに手帳を開くと、ミレイアも「そうねぇ」と嬉しそうに微笑んだ。
「始まりはね、大樹の北側を探索していた時なのよ。木々の間に黒い麦穂が一面に生えている場所があったの」
「黒い麦穂?」
「ええ。それも自然に生えたにしては不思議なくらい、畝に沿うように真っすぐ並んでいてね」
リーナは手帳の頁をめくり、几帳面な字の並んだ一行を指し示した。そこには『黒色大麦(仮)』という文字に一本線が引かれ、その横に『古代麦』と書き添えられている。
「昔、古い農業の書物で『黒色大麦』っていう名前を見たことがあったの。とっくに失われた品種だと思っていたのだけれど……実物を見たのは初めてよ。それで、静が『古代麦』って名前をつけたの」
「静のいたところにも、黒っぽいお米があって『古代米』って呼ばれていたんですって。それにちなんでね」
ミレイアが補足すると、フレイアは「なるほど……」と、サラダの黒い粒を改めて見つめた。
「刈り取りはね、私の風魔法で。乾かして、粒を外すのはミレイアの魔法でやったのよ」
「ふふ、二人でやれば、あっという間だったわね」
ミレイアが上品に微笑む。それからリーナはふと思い出したように、何気ない調子で付け加えた。
「そういえば今朝、昨日刈った手前の列を見たら、もう新しい穂がうっすら覗いていたのよね」
ぴくり、とフレイアの長い耳が動いた。
(……昨日刈ったところに、もう?)
フレイアは平静な顔のまま、手元の麦茶をひと口含んだ。
「それでね、その麦畑には古い水路から水が引かれていたの。その水路を見つけてくれたのは、ルゥなのよ」
ミレイアが膝の上を見下ろすと、名前を呼ばれたルゥがテーブルの下からひょこりと顔を出し、「くぅ!」と得意げに鳴いた。
「水路を辿っていった先の岩場の奥に、古い祠があってね。そっちを見つけたのは、あかねなの」
今度はアリアが足元へと視線を落とす。
「岩の隙間の奥にあって、あかねが入っていかなかったら、絶対に見落としてたわ」
「きゅ!」
あかねは小さな胸をぐっと張り、背中のもふもふの翼をぱたぱたとさせた。その誇らしげな姿に、フォルティナが「まあ、二人ともお手柄だったのですね」と微笑みかける。ルナとサンも、なぜか一緒になって胸を張っていた。
「祠の中を開けてみたら、いつもの光る球が入ってたよ」
静がたけのこご飯を頬張りながら、のんびりと付け足した。
(……『いつもの』で済ませていい話じゃないのよね)
フレイアは内心でそっと苦笑したが、何も言わずに頷くだけに留めた。
ふと、アリアが手元の箸を止め、思い出したようにぽつりと言った。
「そういえば……レナードと調べた時も、水路のそばで同じ刻み方の目印石を見たわね。あっちの岩の中にあったのは、壊れちゃってたけど」
その言葉にリーナは手帳の端をとん、と指先で叩いた。
(眠っているだけの祠と、壊れてしまった石。同じ水辺の岩陰にあって、何が違ったのかしら)
浮かんだ問いをリーナはそのまま胸の奥へと仕舞い込む。
フレイアも麦茶のグラスを傾けながら、静かに思い出していた。
(……ギルド経由で上がってきた報告にあった、例の件ね)
それを今ここで掘り下げるつもりはなかった。
テーブルの端でエナの箸がほんのわずかに止まっていた。
――レナード
その名前を聞いた瞬間、エナの胸の奥で小さな何かがことりと動いた。
けれどエナは何も聞かなかった。手元の淡い紫色のご飯を、少しだけゆっくりと口に運ぶ。
(レナードさん、今ごろ何をしてるのかな。……もう、王都を出たのかな)
孤児院の庭で霊桃を見つけた時の話を聞かせてくれた、あの生真面目な横顔。
(明日、フレイアさんが王都へ向かう馬車と……どこかの街道ですれ違ったりするのかな)
ほんの一瞬だけ、エナの視線が窓の方へと向いた。夜の色に染まった窓の向こうに、街道など見えるはずもないのに。
その小さな変化に、気づいた者が二人いた。
フレイアは診療所の休憩室で見た、あの一瞬の視線を思い出していた。王都の方角に、帰りを待っている誰かがいるらしい女の子。何も言わず、ただ目元をそっと和らげる。
セリナも何も聞かなかった。代わりにエナの取り皿へ、ふっくらとした出汁巻き卵をひと切れ、そっと足してやる。
「……師匠?」
「エナさん、これもとても美味しいですよ」
「あっ……はい! ありがとうございます!」
ぱっと顔を上げたエナが、出汁巻き卵を頬張って嬉しそうに笑う。
その向かいでフィアの猫耳がぴくりと動きかけた。何かを言おうと口を開きかけたところへ、ミレイアが柔らかく声をかける。
「エナちゃん、こっちのリゾットも食べてみて。ぷちぷちして面白いのよ」
「わぁ、いただきます!」
ミレイアがさりげなく目配せをすると、フィアは「あっ」という顔をして、そのまま口を閉じた。代わりに鍋へと箸を伸ばし、残っていた最後の肉を、ちゃっかりと自分の小鉢へ運んでいった。
◆◆◆
やがて鍋の底が見え始め、大皿の上の料理もすっかり少なくなった頃。
「はぁ〜……もうお腹いっぱいで食べられないよ〜……」
フィアが椅子の背にぐったりともたれかかり、満ち足りた顔で天井を仰いだ。
「フィア、たけのこご飯も麦とろも、焼きおにぎりも、全部おかわりしてたものね」
「だって全部美味しかったんだもん……」
アリアの呆れ声に、フィアは幸せそうに目を閉じたまま答える。
テーブルの下でも、幼体たちがすっかり満腹になっていた。
一匹、また一匹とリビングのラグの上へ移動していき、ころりと寝転がる。マルはお腹を上にしてひっくり返り、まんまるのお腹を満足そうに上下させている。ハルは小さな翼をだらりと広げてうつ伏せになり、あかねとルゥはくっついて丸くなった。ルナとサンは、ツキのお腹にもたれかかって、早くもうとうとと目を細めている。
ツキだけが、弟妹たちの寝相を見回すように、片目を開けていた。
「ふふっ。皆さん、本当によく食べてくださいましたね」
セリナが嬉しそうに空いたお皿を重ねていると、静が何かを思い出したように、ぽんと手を打った。
「あっ、ごめん、最初に言い忘れてたけど……この後、『醤』や『古代麦』を使ったデザートもあるからね」
その瞬間だった。
椅子にもたれていたフィアが、がばっと身を起こした。
ラグの上の幼体たちも、一斉に顔を上げる。あかねの耳がぴんと立ち、ルゥが長い耳を跳ね上げ、ハルが広げていた翼をぱたりと畳む。ルナとサンも、ツキのお腹から慌てて顔を出した。
マルも慌てて起き上がろうとして――丸い身体のせいで起き上がりきれず、そのままころんと横に転がった。
「ぷ、ぷぅ……!?」
「……まだ、あったんだ……」
フィアが自分のお腹にそっと手を当て、真剣な顔で考え込む。ラグの上の幼体たちも、つられたように自分のお腹を見下ろしていた。
ほんの一瞬の沈黙のあと、フィアは意を決したように、ぐっと拳を握った。
「デ、デザートは別腹だから……もちろん食べるからね!」
その力強い宣言に、ダイニングがどっと温かな笑い声に包まれた。
「きゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」
幼体たちも、フィアに続くように元気よく鳴き声を上げる。まだ転がったままのマルまで、仰向けのまま前足をぱたぱたさせていた。
「……べつばら」
笑い声の中で、エナが小さな声で繰り返した。初めて聞いた言葉らしい。
「ふふっ。良い言葉ですね」
フォルティナも口元を押さえて、楽しそうに笑う。
「それじゃあ、少し食休みしてからにしようか。お腹が落ち着いたら、持ってくるからね」
静の提案に皆は笑いながら頷く。
ランプの柔らかな灯りの下、空になった鍋からは、まだほんのりと甘じょっぱい香りが立ちのぼっていた。




