第二十三話 初めましての挨拶と広がる香り
台所の窓の外はいつの間にか茜色から深い藍色へと移り変わり始めていた。
リビングをアリアたちに任せた静は、セリナと並んで、夕食の最後の仕上げに取りかかっていた。
炊き込みご飯用の鍋には、薄切りにしたたけのこと、醤と出汁を合わせた煮汁がたっぷりと張られている。みんなが揃う頃にちょうど炊き上がるよう火にかけると、やがて蓋の隙間から、ことことと控えめな音が聞こえ始めた。
「静様、割り下のお味はこのくらいでよろしいでしょうか?」
小皿を差し出すセリナから受け取り、静はひと口含んで頷いた。
「うん、ばっちり。新しい醤のコクがちゃんと出てるね」
「よかったです」
セリナはほっとしたように微笑むと、すぐにまた手を動かし始めた。すき焼き用の大皿に、薄切りの肉や野菜、キノコ、豆腐を彩りよく並べ直していく。その手つきはいつも以上にきびきびとしていた。
(本当はもっと早く戻って、お手伝いをするつもりでしたから……)
その分を取り戻そうとしているのが、横で見ている静にもよく分かった。
調理台の端にはリビングから持ってきた連絡板が置かれている。
その表面がふわりと淡く光った。続けてもう一度光る。
「あっ、連絡がきたみたいだね」
静が手を拭いてから板を覗き込むと、二人分の文字が並んで浮かび上がっていた。
【フレイア:お待たせ、静さん。今いつもの部屋に着いたわ。お迎えをお願いね】
【フォルティナ:静さん、お疲れ様です。今日はお招きいただいてありがとうございます。よろしくお願いしますね】
「ふふっ。お二人とも、ほとんど同時ですね」
横から覗き込んだセリナが、楽しそうに目を細めた。
静はリビングの入口まで行くと、顔を出して声をかけた。
「みんな、フレイアさんたちが宿に着いたみたいだから、迎えに行ってくるね」
「はーい、いってらっしゃい」
アリアがソファから軽く手を上げて応える。
静はエプロンの紐をほどきながら、ふと思い出したように苦笑いを浮かべた。
「さっきは、エプロンのまま行っちゃったからね」
「ふふっ」
エナを迎えに宿へ現れた時、静は外しかけたエプロン姿のままだった。それを思い出したセリナが、口元に手を添えてくすりと笑う。
外したエプロンを椅子の背に掛けると、静は改めてセリナに向き直った。
「セリナ、ちょっと行ってくるから、準備の続きをお願いね」
「はい、静様。いってらっしゃいませ」
静が右手をかざそうとした、その時
リビングのソファでエナの膝の上に丸くなっていたツキが、ぴくりと耳を立てた。
「にゃ」
短く鳴くと、ツキはするりとエナの膝から抜け出し、床を軽やかに駆けてきた。そして静の足元でひとつ弾みをつけると、ひょいとその肩へ飛び乗る。
「あっ……ツキちゃん?」
膝の上の温もりが急に消えて、エナがきょとんと顔を上げた。
静は肩の上の小さな重みに目を向け、首を傾げる。
「ん? ツキもお迎えに行く?」
「にゃ」
当然でしょう、とでも言いたげな、きっぱりとした返事だった。
「ふふっ。ルナちゃんとサンちゃんを、迎えに行ってあげたいのですね」
台所から顔を出したセリナが微笑むと、ツキは肯定するように、尻尾をゆらりとひと振りした。
「そっか。じゃあ、一緒に行こうか」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。
光の粒がすっと溶けて消えたあとには、静とツキの姿が消えていた。
◆◆◆
「わっ……」
ソファの上で、エナは思わず小さな声を漏らした。
「静さんも、ツキちゃんも……消えちゃった……」
宿の部屋では目をぎゅっとつむっていたから分からなかった。こうして外から見ると、人がふっと光に溶けてしまうのは、なんとも不思議な光景だった。
ぽかんと口を開けたまま、静がさっきまで立っていた場所を見つめているエナに、アリアとミレイアは顔を見合わせて小さく微笑んだ。
「ふふっ。見送る側から見るのは、初めてだものね」
ミレイアが優しく声をかけると、エナはこくこくと頷いた。
(さっき『転移』だって説明されたばかりでも、実際に目の前で見るとね……私たちも、最初はそうだったわ)
リーナは手帳の端を指先でとんとんと叩きながら、内心でひっそりと共感していた。
エナはしばらく固まっていたが、やがて小さく息をつき、自分に言い聞かせるように頷いた。
(……うん。静さんだもんね)
宿の部屋に光と一緒に現れて、気づけば空白地帯の奥のお屋敷にいて、口の中でぱちぱち弾ける飲み物まで出てくるのだ。今さら人がひとり消えたくらいで――と、エナの順応はさらに一歩進んでいた。
そんなエナの隣へ、フィアがぴょこんと身を乗り出した。
「エナちゃん! もうちょっとで、静の美味しいごはんがたーっくさん食べられるよ♪」
「は、はい! すごく良い匂いがしてて、さっきからお腹が鳴りそうで……」
「でしょでしょ! ……あっ、そうだ!」
フィアはぽんと手を打つと、腰のマジックポーチをごそごそと探り始めた。やがて取り出したのは、可愛らしい布の小袋だった。
「はい、これ! さっき言ってた、フィアの取っておきのおやつ!」
小袋の口を開くと、中から淡い桃色や黄色の、花の形をした小さな飴玉がころころと顔を覗かせた。ほんのりと甘い花蜜の香りが漂ってくる。
「わぁ……! お花の形をしてる……!」
「セレニアの市場で見つけたんだよ。お花の蜜で作った飴なんだって。すっごく美味しいから、大事に大事に取っておいたんだ♪」
フィアが得意げに胸を張ると、肩の上のハルも「ひゅん♪」と誇らしげに鳴いた。
「そ、そんな大事なもの、いただいていいんですか……?」
「いいの、いいの! エナちゃんが初めて遊びに来てくれた記念だもん!」
フィアが小袋ごとエナの手のひらに乗せると、横からアリアが苦笑交じりに口を挟んだ。
「フィア、もうすぐ夕飯なんだから。エナちゃん、今は一粒だけにしておきなさいね」
「は、はい!」
エナは桃色の飴をひとつだけ大切そうにつまみ、そっと口に含んだ。舌の上で、花の蜜の優しい甘さがゆっくりとほどけていく。
「……美味しいです。お花の香りがします」
「でしょ〜♪ 残りはお土産に持って帰っていいからね! 孤児院のみんなと分けてあげて!」
「フィアさん……ありがとうございます!」
エナが小袋を胸に抱えて嬉しそうに頭を下げると、フィアは「えへへ」と照れくさそうに猫耳をぴこぴこと揺らした。
足元では甘い香りにつられたマルが「ぷぅ……」と小袋を見上げている。リーナがその丸い頭を指先でつついた。
「マル、あなたの分じゃないわよ」
「ぷぅ」
不満げに鳴くマルの様子に、リビングはまた温かな笑い声に包まれた。
笑いが収まったところで、エナはそわそわと台所の方を振り返った。
「あの……私、師匠のお手伝いをしてきた方が……」
腰を浮かせかけたエナに、アリアが笑いながら手を振った。
「いいのよ。今日のエナちゃんはお客さんなんだから、座ってなさい」
「で、でも……」
言いかけて、エナはふと口をつぐんだ。
――次は、もっと美味しいお茶を淹れてお待ちしています。
診療所でフレイアと交わしたあの約束。今日は静のお屋敷にお呼ばれしている身だから、自分でお茶を淹れることはできそうにない。
(どうしよう……フレイアさん、覚えてるかな……)
膝の上の小袋を握りしめたまま、エナはひとり、こっそりとそわそわしていた。
◆◆◆
同じ頃、フォルツの『上弦の宿』。
いつもの一室で、フレイアとフォルティナは窓辺の椅子に腰掛けていた。
二人とも仕事を終えたあとに清浄の魔法で一日の埃を払い、私服に着替えてから宿へと来ていた。
フレイアは動きやすそうな、すっきりとした装い。一方のフォルティナは、柔らかな色合いの外出着に、髪にはいつもの黒水晶の髪飾りを留めていた。普段の凛とした執務姿よりも、どこか華やかで、少しだけあどけなく見える。
フレイアはそんな親友の姿を眺め、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ずいぶん気合いが入ってるじゃない、ティナ」
「せ、せっかくお招きいただいたのですから……」
フォルティナは頬をほんのりと染め、腕の中のルナをぎゅっと抱き直した。ルナが「くぉん?」と不思議そうに主人の顔を見上げる。
「ふふ、別に悪いなんて言ってないわよ。よく似合ってるわ」
「……もう、フレイったら」
フォルティナが小さく頬を膨らませると、フレイアは楽しそうに肩を揺らした。それから窓の外、王都へと続く街道の方角へ、ちらりと視線を向ける。
「明日の朝には王都へ出発だもの。今夜は思いっきり楽しませてもらうわ」
「ええ。向こうでは、きっと忙しくなりそうよね」
「レオンの『至急』三連発を思い出すと、今から胃が痛いわ……だからこそ、今夜は静さんのお料理で英気を養わないとね」
フレイアがわざとらしく胸を押さえてみせると、肩の上のサンも「ぴぃ……」と同情するように鳴いた。
ルナとサンは、さっきから二匹そろってそわそわと落ち着かない。ツキたちに会えるのが待ちきれないのだろう。
「静さんのことだから、きっとすぐに来るわよ」
「ええ、私もそんな気がします。静さんのお料理、楽しみですね」
二人が顔を見合わせて微笑んだ丁度その時。
部屋の一角にふわりと柔らかな光の粒子が舞い始める。
光の粒がすっと溶けて消えると、静が肩にツキを乗せて立っていた。
「フレイアさん、フォルティナさん、お待たせ」
「にゃにゃ」
「静さん、こんばんは。今日はよろしくね」
「こんばんは、静さん。お迎え、ありがとうございます」
二人が立ち上がって挨拶を返すと同時に、ツキが静の肩からひらりと飛び降りた。
それを見たルナがフォルティナの腕の中から身を乗り出して「くぉん!」と鳴き、サンも「ぴぴっ!」とフレイアの肩から飛び立つ。フォルティナがそっとルナを床へ下ろしてやると、二匹は一目散にツキのもとへ駆け寄った。
ツキは「にゃ」と短く鳴くと、まずルナの鼻先へ、次にサンの小さな嘴の先へと、順番に鼻先をちょんと寄せて挨拶した。
その途端、サンが「ぴぃ……♪」と甘えた声を漏らし、ツキのふかふかの胸元へ潜り込んでしまう。負けじとルナも、ツキの脇腹にぐいぐいと鼻先を押しつけた。
「あらあら……すっかりお姉ちゃんに甘えちゃって」
フレイアが苦笑すると、ツキは困ったように、けれどまんざらでもなさそうに、尻尾をゆったりと揺らしていた。
その微笑ましい光景を眺めてから、静がにこりと笑って言った。
「今日は、ちょっと賑やかですよ」
「賑やか?」
フレイアとフォルティナが、そろって首を傾げる。
アリアたち四人に、セリナ、そして幼体たち。屋敷が賑やかなのはいつものことだ。わざわざ前置きするような言い方に、フレイアの長い耳がぴくりと動いた。
けれど静はそれ以上は何も言わず、楽しそうに微笑むばかりだった。
「じゃあ、さっそく行きましょうか」
「「はい」」
ツキの胸元からサンを引き剥がし、ルナを抱き直したところで、静が右手を軽くかざす。空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれ、温かな光が一同を優しく包み込んだ。
◆◆◆
光が収まると、そこは屋敷の玄関ホールだった。
柔らかな灯りに照らされた磨かれた木の床。奥の方からは、楽しそうな話し声と、甘じょっぱい醤の香りが漂ってくる。
フレイアとフォルティナは慣れた手つきで靴を脱ぎ、用意された室内履きへと足を入れた。フォルティナは脱いだ靴を、つま先を揃えてきちんと並べ直す。この屋敷で過ごすうちに、すっかり身についた所作だった。
静の案内でリビングへ入ると、ソファでくつろいでいたアリアたちが、ぱっと顔を上げた。
「いらっしゃい、二人とも。お仕事お疲れ様」
「姉さん、フォルティナさん、いらっしゃい」
「王都行きの前なのに、よく時間が作れたわね」
「フレイアさん、フォルティナさん、いらっしゃーい♪」
アリアが労い、ミレイアが柔らかく手を振る。リーナは手帳を閉じて肩をすくめ、フィアがぴょんと跳ねて歓迎する。
「ふふ、ありがとう。今日は思いっきりご馳走になりに来たわ」
「皆さん、お邪魔いたしますね」
二人が笑顔で応えている間にも、足元では幼体たちが大騒ぎを始めていた。
「きゅきゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」
あかね、ルゥ、ハル、マルの四匹が駆け寄って来る。
「くぉん!」「ぴぴっ!」
ルナがフォルティナの腕の中で尻尾を振り、サンもフレイアの肩の上で小さく羽ばたいて応える。そこへツキが「にゃ」と加わると、あっという間に楽しげにし始めた。
静は賑やかなツキ達を眺めて、嬉しそうに目を細めた。
その時、フレイアの視線がソファの端にちょこんと座る小さな人影を捉えた。
「あら? エナちゃんもお呼ばれしたのね。こんばんは」
フレイアは柔らかな笑みを浮かべながら、内心でそっと呟いた。
(……セリナさんのお弟子さんだもの。静さん、この子にも話したのね)
静の言っていた『賑やか』とはこういうことか。宿での思わせぶりな笑みの意味がようやく腑に落ちた。
名前を呼ばれたエナは、ハッとしてソファから立ち上がった。胸元のペンダントが、その勢いで小さく跳ねる。
「フレイアさん、こんばんは! 今日、初めてお呼ばれしました。よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げたあと、エナは少しだけもじもじと両手を握り合わせた。
「あの……お茶の約束、今日は淹れられなくて……」
申し訳なさそうに眉を下げるエナに、フレイアは一瞬きょとんとし、それからふわりと目元を和らげた。
「ふふ、覚えていてくれたのね。……それは、また診療所での楽しみに取っておくわ。王都から帰ってきたら、一番に寄らせてもらうから」
「……はい! その時はもっと美味しいお茶を淹れてお待ちしています!」
ぱっと顔を輝かせたエナは、そこでようやくフレイアの隣に立つ女性に気がついた。
柔らかな色合いの外出着に身を包み、髪には黒い水晶の髪飾り。腕の中には、ふわふわの毛並みの小さな生き物を大切そうに抱えている。ランプの灯りを受けた穏やかな佇まいは、それだけで部屋の空気をふんわりと和ませているようだった。
(わっ……すごく綺麗な人……)
エナは思わず見惚れてしまった。
師匠のセリナは清らかで、包み込むような優しい美しさ。フレイアは凛とした背筋の、かっこいい美しさ。この人はそのどちらとも違う。柔らかくて、上品で、春の陽だまりのような美人さんだった。
ぼんやりと見つめているうちに、エナの視線は自然と女性の腕の中へ吸い寄せられていく。
小さな耳。つぶらな瞳。腕の中で丸くなった、ふわふわの身体。
「わっ……可愛い……」
思わずこぼれたその呟きに、女性はふふっと楽しそうに微笑んだ。腕の中の小さな生き物を、エナの目線の高さまでそっと下ろしてくれる。
「この子はルナといいます。……ルナ、ご挨拶は?」
「くぉん」
ルナはつぶらな瞳でエナを見上げ、行儀よく一声鳴いた。
「は、はじめまして、ルナちゃん。エナです」
エナがおそるおそる手を差し出すと、ルナはその指先をくんくんと不思議そうに嗅ぎ、やがて甘えるように「くぅん」と鼻先をすり寄せた。
「わぁ……! ふわふわです……!」
ルナの頭を撫でて嬉しそうに頬を緩めるエナを、女性は優しく見つめていた。それから改めて、エナへと柔らかく微笑みかける。
「あなたがエナさんですね。フレイやセリナさんから、色々とお話を伺っています。フォルティナと申します。よろしくお願いしますね」
その名前を聞いた瞬間、ルナを撫でていたエナの手が、ほんの一瞬だけぴたりと止まった。
けれどエナは慌てて背筋を伸ばし、ぺこりと深くお辞儀をした。
「は、初めまして! セリナ師匠の弟子をさせていただいています、エナと申します! よろしくお願いします!」
顔を上げながら、エナの頭の中はぐるぐると回っていた。
(やっぱり、『フォルティナ』さん……。で、でも、領主様がこんなところにいらっしゃるはずないし……)
フォルツの領主様。お祭りや式典の日に、遠くからちらりとお姿を見たことがあるかどうか、という雲の上のお方だ。そんなお方が、こんなふうに室内履きを履いて、目の前で優しく微笑んでいるはずがない。
(……うん。同じお名前の方、だよね)
エナがこっそりと自分を納得させていると、すぐ隣でフレイアが気安い調子で口を開いた。
「ティナ、ルナがエナちゃんのこと、すっかり気に入ったみたいね」
「ふふ。本当ですね、フレイ」
――ティナ。
その愛称に、エナはようやく胸を撫で下ろした。
(そうだよね。領主様を愛称で呼ぶ人なんて、いないよね)
ほっとした顔のエナを見て、フォルティナはほんのわずかに目元を緩めた。
エナが孤児院で暮らす子で、セリナの大切な弟子であることは、フレイアやセリナから聞いて知っている。家名や、自分が領主であることを名乗れば、この子はきっと萎縮してしまうだろう。せっかく初めて遊びに来た夜だ。肩書きなど持ち込まずに、ただの『フォルティナ』として、楽しく過ごしてほしかった。
だからフォルティナは、あえて何も言わなかった。
その場にいた全員が、彼女の気遣いに気づく。誰一人として、それに触れる者はいない。いつも通りの気心の知れた仲間内の気安い空気のまま、和やかにやりとりを続けていく。
(……あれは、半分くらい気づいてる顔ね)
リーナだけは、ほっとしたエナの横顔を眺めながら、内心でこっそりと苦笑していた。
その時、フレイアの肩からふわりと薄黄色の影が飛び立った。
「ぴぴっ!」
サンがエナの頭の上へちょこんと舞い降りる。
「わっ! サンちゃん! この間、診療所に来てくれた……!」
「ぴぃ♪」
エナの髪の上で、サンは得意げに羽をふくらませた。どうやら、すっかりエナのことを覚えていたらしい。
「サン、少しは遠慮しなさいね」
診療所で聞いたのと同じ台詞をフレイアが口にすると、サンはやはり聞こえないふりをして、エナの頭の上で丸くなってしまった。
「ふふっ……!」
エナが堪えきれずに笑い出し、リビング中に温かな笑い声が広がっていく。
◆◆◆
「皆さん、冷たいお飲み物をお持ちしましたよ」
ちょうどそこへ、セリナがトレイを手にリビングへやってきた。トレイの上には、うっすらと水滴をまとったグラスがいくつも並んでいる。中身は、赤みがかった茶色の冷たい飲み物だった。
それを見たエナは、サンを頭に乗せたまま、ぱっと立ち上がった。
「師匠! これくらいは、お手伝いさせてください!」
「まあ……では、フレイアさんとフォルティナさんの分を、お願いしてもいいですか?」
「はい!」
エナはグラスを二つ受け取ると、お盆の水面を揺らさないよう、一歩一歩、慎重に運んでいく。診療所の休憩室で、お茶を運んだ時と同じ足取りだった。
「どうぞ、召し上がってください」
「ありがとう、エナちゃん。……ふふ、今日もちゃんと、こぼさずに運んでくれたわね」
「ありがとうございます、エナさん」
フレイアとフォルティナがグラスを受け取ると、エナは嬉しそうに、ほっと胸を撫で下ろした。
ひと口含んだフレイアは、その香ばしさに目を瞬かせた。それからグラスをランプの灯りにかざし、赤みがかった色合いをしげしげと眺める。
「これ……麦? でも、ずいぶん色が赤いわね」
首を傾げるフレイアに、リーナが意味ありげな笑みを浮かべた。
「その話は後でね。色々あるのよ」
「……色々?」
フレイアの長い耳が、ぴくりと動いた。リーナがこういう言い方をする時は、たいてい、静絡みのとんでもない話が控えているのだ。
隣のフォルティナもそれを察したのか、グラスを手にしたまま、少しだけ遠い目をしていた。
「俺は仕上げをしてくるから、みんなはゆっくりしてて。セリナ、よろしくね」
「はい、静様」
静がセリナと連れ立って台所へ戻っていくと、七匹の輪の中から、ツキがすっと抜け出した。何も言われていないのに、当然のような顔をして、セリナの足元へとことこと続いていく。
◆◆◆
台所へ戻った静は、少しずつ全種類を盛り合わせたプレートを手早く仕上げ、セリナへと差し出した。
「はい、セリナ。今日のお供えの分ね。みんなを呼ぶ前に、お願いできるかな」
「はい、静様。お預かりいたします」
セリナはプレートを受け取ると、足元のツキと一緒に、屋敷の奥にある礼拝堂へと向かった。
リビングの賑やかな声が、廊下を進むごとに少しずつ遠ざかっていく。礼拝堂の扉を開けると、そこには清廉で静かな空気が満ちていた。
セリナは祭壇へ丁寧にプレートを供えると、その前に膝をつき、胸の前でそっと手を重ねた。隣ではツキが行儀よく前足を揃えて座り、ちょこんと目を閉じる。
「女神ルーナフィリス様。今日はフレイアさんとフォルティナさんをお招きして、皆さんで夕食をいただきます。それから……エナさんが、初めてこのお屋敷へ遊びに来てくれました。とても驚いていましたが、ツキちゃんや皆さんのおかげで、楽しそうに笑ってくれています」
セリナの声は親しい人に今日一日の出来事を報告するように、柔らかく弾んでいた。
「明日の朝、フレイアさんは王都へ発たれます。どうか、道中をお見守りください。……静様が、新しい醤でたくさんのお料理を作ってくださいました。どうぞ、温かいうちに召し上がってくださいね」
祈りを捧げ終えると、祭壇の上のプレートが、ふわりと柔らかな光の粒子に包み込まれた。光が引くと同時に、料理はすっと綺麗に消えていく。
胸の奥に、微笑みかけられたような温かな気配が、じんわりと広がった。
「にゃん」
その気配を感じ取ったツキが、満足そうに一声鳴いた。
セリナはそっと目を開け、空になった祭壇を見つめて、優しく目元を緩めた。
◆◆◆
その頃リビングでは、エナはすっかり緊張がほどけ、皆の輪の中で楽しくおしゃべりをしていた。
アリアたちが、フレイアやフォルティナと気兼ねなく言葉を交わしている。その様子を見ているうちに、エナの肩からも自然と力が抜けていったのだ。
「エナちゃんのお茶、本当に美味しかったのよ。ちゃんと茶葉が開くのを待ってから注いでくれていてね」
フレイアが診療所での出来事を話すと、ミレイアが「まあ、それは姉さんも嬉しかったでしょうね」と微笑んだ。エナは照れくさそうに頬を染めながら、膝の上のルナを撫でている。
「それで、今日は孤児院の霊桃の芽のお水を、子供たちが代わりにあげてくれることになったんです。葉っぱにかけないで、根元にそーっとって、何回も言っちゃいました」
「ふふ。きっと今頃、みんなで張り切って見守ってくれていますね」
フォルティナは、エナの話にひとつひとつ丁寧に耳を傾けていた。
――街の診療所で、小さな治療師さんが毎日頑張っている。『エナちゃん先生』と、街の皆に可愛がられている。
その評判はフォルティナの耳にも届いていた。けれど今は、それを領主としてではなく、ただ一人の大人として、目の前の少女の口から聞けることが嬉しかった。
「エナさんの頑張りは、きっと街の皆さんの元気になっていますよ」
「そ、そうだと嬉しいです……!」
エナが照れくさそうに笑うと、頭の上のサンが「ぴぴっ」と、誇らしげに羽を揺らした。
ちょうどその頃、礼拝堂から戻ってきたツキが、何事もなかったかのように七匹の輪へ戻っていった。ルナとサンが、待ってましたとばかりにその両脇へぴたりと寄り添う。
やがて、台所の方から足音が近づいてきた。リビングの入口に、静がひょこりと顔を出す。
「みんな、準備ができたからどうぞー」
その一声に、待ちわびていた全員が顔を輝かせた。
◆◆◆
皆が連れ立ってダイニングへ入った瞬間、温かな湯気と、甘じょっぱく香ばしい匂いが、ふわりと全身を包み込む。
ランプの柔らかな灯りの下、大きなテーブルの上には、色とりどりの料理がずらりと並んでいた。
テーブルの中央では、浅い鉄鍋の中で甘辛い割り下がくつくつと小さな音を立てている。その周りには、薄切りの肉や青々とした野菜、ふっくらとした傘の森香茸、真っ白な豆腐を山のように盛り付けた大皿。
湯気の立つたけのこご飯からは、醤と出汁の優しい香りが立ちのぼり、大皿の上では、甘辛い煮汁をまとった大樹魚の煮付けが、つやつやと照りを放っている。黒い粒がぷちぷちと散った夏野菜のサラダに、昨日も好評だった醤の唐揚げや、ふっくらと焼き上がった出汁巻き卵。さらにその脇には、皮を剥いた草芋と、すりおろすためのおろし金までもが用意されていた。
食欲をそそる香りが、ダイニングいっぱいに広がっている。
真っ先に声を上げたのは、やはりフィアだった。
「すごい! どれもとっても美味しそうだね♪」
「凄いわ、静さん! あの『醤』で、こんなに沢山作れるのね」
フレイアも目を輝かせ、テーブルの端から端までをぐるりと見渡した。その隣で、フォルティナが嬉しそうに両手を胸の前で合わせる。
「とても素敵ですね。見たことのないお料理が、たくさんあります……。このお鍋は、どうやっていただくのでしょう?」
「これはね、みんなで好きな具を入れて、煮えたものから取って食べるんですよ。溶いた卵につけて食べると、すごく美味しいんです」
静が楽しそうに説明すると、フォルティナは「まあ……」と興味深そうに鍋を覗き込んだ。
フレイアはふと、サラダの皿に散る黒い粒へと視線を留めた。
(この香り……さっきの麦茶と、同じ……)
ちらりと顔を上げると、アリアとリーナが、何やら意味ありげに目を見合わせている。
(……『色々ある』って、これのことね)
フレイアは小さく息をつき、続きを聞くのは席についてからにしようと、ひとまず胸の内に仕舞い込んだ。
そんな中、エナはダイニングの入口で、ぽかーんと立ち尽くしていた。
(凄い……こんなにお料理があるなんて……どれも、すごく美味しそう……)
孤児院では、皆で囲む温かなスープとパンが、何よりのご馳走だった。お祝いの日に、少しだけおかずが増えるのが嬉しかった。こんなにたくさんの種類の料理が一度に並んでいるのを見るのは、生まれて初めてだった。
(孤児院のみんなにも……見せてあげたいなぁ)
手の中の、フィアから貰った飴の小袋を、エナはそっと握りしめた。
そんなエナの横顔を、セリナは少し離れたところから、何も言わずに優しく見守っていた。昨日の夕食の席で、ぽつりとこぼした自分の願いが、こうして叶ったのだ。
足元では、ツキが「にゃ」と短く鳴き、エナの室内履きにそっと頭をすり寄せた。『早く座ろう』とでも言うように。
「さぁ、みんな座って。冷めないうちに食べよう」
静の明るい声が、ダイニングに響く。
「……あ、すき焼きはこれから煮るんだけどね」
付け足された一言に、ダイニングがどっと温かな笑い声に包まれた。
ランプの灯りと、くつくつと鳴る鍋の音。そして、どこまでも広がっていく美味しそうな香り。
賑やかな夜の宴が、今まさに始まろうとしていた。




