第二十二話 初めての屋敷とシュワシュワな驚き
足元には磨かれた木の床の感触が戻っていた。
ふわりと頬を撫でる温かな空気。甘じょっぱい醤の香りと、炒った麦の香ばしい匂いが、そっと鼻をくすぐる。
エナはおそるおそる、ぎゅっとつむっていた両目をゆっくりと開けた。
「えっ……? えっ……? ここって……どこ……?」
つい先ほどまで自分は間違いなくフォルツの『上弦の宿』の、落ち着いた一室にいたはずだった。それなのに今、目の前に広がっているのは、柔らかな灯りに照らされた見知らぬ玄関ホールだ。
壁も床も、木肌が優しく磨き上げられている。高い窓からは夕暮れの茜色の光が斜めに差し込み、床の上に長い陽だまりを描いていた。どこまでも静かで、それでいて、まるで誰かに抱きしめられているような温かな空気が満ちている。
驚きのあまり声も出せず、エナが首だけを動かしてきょろきょろと周囲を見回していると、足元からふわりと黒い影が跳ねた。
「にゃにゃ♪」
ツキがエナの腕の中へと優しく飛び乗り、ぽかんとするエナの頬へ、ふさふさの尻尾をすりすりと擦り寄せた。その温もりと、甘えるような愛らしい鳴き声が、『大丈夫、ここは安心な場所だよ』と語りかけてくれているかのようだった。
「ツキ、ちゃん……?」
腕の中の小さな重みに、エナがようやく小さく息をついたところで、前に立っていた静がゆっくりと振り返った。
「エナ、ようこそ。俺の屋敷へ」
静がいつもの穏やかな笑顔でそう言うと、隣に立っていたセリナも、エナの背中にそっと優しく手を添えた。
「いらっしゃい、エナさん。今日はお疲れ様でしたね」
「し、静さん……師匠……。あの、ここは……」
エナがまだ状況を飲み込めずにいると、屋敷の奥の廊下から、小さな足音がいくつも連なって駆け寄ってくる音が聞こえた。
「きゅきゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」
廊下の角から転がるように飛び出してきたのは、あかね、ルゥ、ハル、マルの四匹だった。
仮設診療所の待合で、緊張した子どもたちを笑わせてくれていた子たち。孤児院の中庭で、エナや小さな子たちと一緒に駆け回ってくれた子たち。そして、師匠からペンダントを受け取ったあの日、みんなで揃って一緒に喜んでくれた子たちだ。
すっかり顔なじみのお姉ちゃんが、初めて自分たちのお屋敷へ遊びに来てくれたのが嬉しいのだろう。四匹はちぎれんばかりに尻尾を振り、背中の小さなもふもふの翼をぱたぱたさせながら、エナの足元にわらわらとじゃれついてきた。
あかねがお姉ちゃんぶって一番前に陣取り、その隣でルゥが長い耳を揺らして「くぅ」と挨拶する。ハルはエナの周りをくるりと一周して、ふわりと涼しい風を送ってくれた。マルは足元で、いつものように床を「ぽむぽむ」と叩いてみせる。
「わぁっ! あかねちゃんにルゥちゃん、ハルちゃん、マルちゃんまで!」
診療所で見慣れた、いつもの仕草ばかりだった。驚いていたエナの顔には、たまらずぱぁっと嬉しそうな笑みが広がる。
「みんな、ここに住んでたんだね……!」
しゃがみ込もうとしたエナの向こうから、今度はアリアたち四人が顔を出した。
「いらっしゃい、エナちゃん」
「ふふ、よく来たわね」
「待ってたわよ。お仕事お疲れ様」
「エナちゃん、いらっしゃーい! フィアの取っておきのおやつ、あとであげるね♪」
アリアが優しく微笑み、ミレイアが上品に手を振る。リーナが手帳を小脇に抱えて労い、フィアがぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ。それぞれの性格が滲み出た温かな出迎えに、エナはハッとして背筋を伸ばした。
診療所の前を通りかかっては声をかけてくれる、師匠のお仲間の冒険者さんたち。その人たちが、まるで自分の家のように、ここでくつろいでいる。
「ほ、本日はお招きいただき、ありがとうございます! 今日はよろしくお願いします!」
緊張のあまり、エナは勢いよく深々と頭を下げた。
その勢いのせいで腕の中にいたツキが、たまらず床へとふわりと飛び降りる。
「にゃ」
ツキはエナを見上げ、『急に動くと危ないわよ』とでも言うように、軽くたしなめるような短い声で鳴いた。
「あっ……ごめんね、ツキちゃん。びっくりさせちゃったね」
エナが慌ててしゃがみ込み、ツキの頭をなでなでと撫でてやると、ツキはすぐに機嫌を直して「にゃん」と喉を鳴らした。その和やかな光景に、出迎えた全員からくすくすと温かな笑い声が漏れた。
「ふふっ。それではエナさん、上がる前にひとつだけ」
セリナが自分の足元を指し示しながら、穏やかに言った。
「このお屋敷では、玄関で靴を脱いで、こちらの室内履きに履き替えるんですよ」
「えっ……靴を、脱ぐんですか?」
きょとんとして自分の足元を見下ろしたエナは、そこでようやく気がついた。艶やかに磨き上げられた木の床の上に、診療所からずっと歩いてきた自分の靴が、しっかりと乗っている。
「ひゃっ……!? ご、ごめんなさい! 私、靴のままで……っ!」
真っ青になって片足立ちになりかけたエナに、静が慌てて手を振った。
「あはは、大丈夫、大丈夫。転移で直接上がっちゃったからね。俺の方こそ、先に言っておけば良かったよ」
「そうそう、フィアたちも最初はびっくりしたもん! でもね、脱いだら足がすっごく楽になるんだよ♪」
フィアが得意げに胸を張る横で、セリナも自分の靴を脱いで揃えてみせる。エナはそれを真似して、一足ずつ丁寧に靴を脱ぎ、ふかふかの室内履きにそっと足を入れた。
「わぁ……やわらかい……」
思わずこぼれた素直な感想に、アリアたちは顔を見合わせ、懐かしそうに目を細めた。
◆◆◆
「みんな、とりあえず奥のリビングで寛いでいて。冷たい飲み物を用意するよ」
静の案内に従い、エナはセリナたちと一緒にリビングの大きなソファへと腰を下ろした。
ふかりと身体が沈み込むほど柔らかな座り心地に、エナは思わず「わっ」と小さく声を上げる。孤児院の固い木の長椅子とはまるで違う。背筋をぴんと伸ばして座ろうとしても、どうしてもソファの方が身体を包み込んでくるのだ。
最初はガチガチに緊張していたエナだったが、膝の上にちょこんと乗ってくるツキや、周りをぐるぐると回るあかねたちのおかげで、少しずつ肩の力が抜けていった。マルは足元でエナの室内履きの匂いを不思議そうに嗅ぎ、ルゥは膝のすぐ横にぴたりと身体を寄せてくる。ハルはソファの背もたれの上を軽やかに行ったり来たりしていた。診療所では『癒やし担当』の子たちが、今日は自分を囲んでくれている。それがなんだか、くすぐったくて嬉しかった。
「やっぱり、みんなエナちゃんのことが大好きなのね」
ミレイアに微笑まれ、エナは照れくさそうに笑った。やがてアリアたちとも、診療所での出来事や街の様子について、楽しく言葉を交わせるようになってきた。
そこでふと、落ち着きを取り戻したエナの頭に、ひとつの大きな疑問がよみがえった。
「あれ? そういえば……ここって、どこなんですか? さっき静さんが急に宿の部屋に現れて、光ったと思ったら、次の瞬間にはこのお屋敷にいたんですけど……?」
不思議そうに首を傾げるエナに、アリアたちは顔を見合わせた。
(あれ、そういえば静は……エナちゃんにどこまで話しているのかしら?)
アリアたちがどう答えようかと迷っているところへ、トレイに飲み物を乗せた静がキッチンから戻ってきた。
今日作ったばかりの麦茶もよく冷えていたが、せっかくエナが初めて来てくれたのだからと、静は《再購入》の機能を使って、子供が喜びそうな甘くて冷たい『オレンジの炭酸飲料』を用意していた。氷を入れたグラスにたっぷりと注ぐと、細かな泡がしゅわしゅわと立ち上り、夕暮れの光を受けてきらきらと弾けている。
「はい、お待たせ。エナも、とりあえずこれを飲んでみて」
「ありがとうございます……わぁ、すごく綺麗な色!」
エナは両手でグラスを受け取ると、グラスの中で次々と生まれては消えていく小さな泡を、不思議そうに見つめた。それから、こくりと一口飲んで――その瞬間、目をまんまるに見開いた。
「うわっ……シュワシュワしてる! 舌の上で、ぱちぱちって弾けて……甘くて、すっごく美味しいです!」
口の中で弾ける初めての不思議な感覚と、果実の甘さに、エナの顔がぱぁっと輝いた。もう一口、今度はゆっくりと味わうように飲んでは、「ふふっ、くすぐったい」と小さく肩をすくめる。
その横から、自分のグラスをすでに飲み干したフィアが、静の持ってきたピッチャーから追加を注ぎながら、得意げに胸を張った。
「ん〜! やっぱり静のところのジュースって、すっごく美味しいね! フィア、おかわりしよっと♪」
「ちょっとフィア、あなたはこの間も飲ませてもらったでしょう。今日はエナちゃんにたくさんあげなさいよ」
アリアが呆れたように苦笑いすると、足元のハルまで「ひゅん……」と申し訳なさそうに鳴き、リビングはまた和やかな笑いに包まれた。
皆がのんびりとオレンジジュースを楽しんでいる中、リーナが手帳を机に置き、静の方を向いた。
「静。エナちゃんがさっき、ここはどこかって気にしていたわよ? もしかして、何も話してないの?」
「えっ? あっ、そういえば……何も言ってなかったかも?」
リーナの指摘に、静は今更ながらに自分が説明をすっ飛ばして連れてきてしまったことに気づき、少し焦ったようにセリナを見た。
「セ、セリナから、道中で話してたりとかは……?」
「いえ。さすがに静様の秘密を、私の口から勝手にお話しするわけにはまいりませんので……エナさんには、まだ何もお伝えしておりません」
セリナが少し困ったように答えた。
そのやり取りを聞いていたエナの背中に、つぅっと冷たい汗が流れた。
(えっ? ひ、秘密……? 静さんって、遠くの国から療養に来ている商人の若旦那さんだって聞いてたけど……もしかして本当は、他国の大貴族様とか、王族の方だったり!? 私、さっきから普通に『静さん』って呼んじゃってるし、靴のまま上がっちゃったし……ふ、不敬罪とかになってない……!?)
ひそかに青ざめ、見当違いな方向に想像を膨らませて固まっているエナの様子に気づき、セリナが優しく微笑みかけた。
「あっ、エナさん。多分、エナさんが今考えているような恐ろしいことではないので、安心してくださいね」
「は、はいぃ……!」
引きつった笑顔を浮かべるエナに、静は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「エナ、ごめんね。何も言わずに連れてきちゃったけど……実はここ、『空白地帯』の奥にある屋敷なんだよ。ちょっと特殊な結界があるから、魔物も入ってこられないし、安全だから安心してね」
「……あの、空白地帯、ですか!?」
冒険者でも滅多に寄り付かない、強力な魔物が跋扈すると噂の未開の地。エナの脳裏に、孤児院の庭で子供たちに囲まれながら、霊桃を見つけた時の話を聞かせてくれた、あの生真面目な横顔がよぎった。
(レナードさんが、何日もかけてお仕事で調べに行った……あの空白地帯の、奥……!?)
エナが信じられないというように声を上げると、膝の上のツキが「にゃにゃ♪」と安心させるように鳴いた。それを見たあかねたちも、ツキの真似をしてエナの足元にぴったりと寄り添い、「きゅきゅ」「くぅ」と見上げる。
その様子を見ていたアリアたちは、内心で(それが普通の反応よねぇ。最初に来た時の私たちと一緒だわ)と深く共感しつつも、あえて口には出さずに温かく見守っていた。
「あとね、ここまでは魔法の『転移』を使って移動したんだよね。エナだから信用して話したけど、他の人には内緒にしておいてね」
エナの驚く反応が少し面白いのか、静はちょっと茶目っ気のある笑みを浮かべて、人差し指を口元に当てた。
(……そんなにあっさり言っちゃうのね。まあ、この子なら大丈夫でしょうけど)
リーナは小さく肩をすくめ、手帳の端を指先でとんとんと叩いた。
エナは何も言えず、ただこくこくと、首がもげそうなほど激しく縦に振るしかなかった。胸元のペンダントが、その勢いに合わせて小さく跳ねる。
◆◆◆
まだフレイアとフォルティナが来るまでには時間がありそうだった。
静は空になったフィアたちのグラスにジュースを追加すると、「お茶請けにどうぞ」と、何もない空間からふわりと焼き菓子の入った籠を取り出した。
「ひゃっ!?」
空間収納の魔法を目の当たりにして、エナはまた小さく悲鳴を上げた。
エナは師匠のマジックポーチも十分すごいと思っていた。けれど静はマジックポーチすら持たずに、何もないところから籠ごと取り出してみせたのだ。
(……うん。でも、静さんなら不思議じゃないかもしれない)
宿の部屋に光と一緒に現れて、気づけば空白地帯の奥のお屋敷にいて、口の中でぱちぱち弾ける飲み物まで出てくるのだ。今さら籠のひとつやふたつ、何もないところから出てきたところで――と、エナはだんだんと、この規格外の状況に順応し始めていた。
甘い焼き菓子をつまみながらしばらく歓談していると、テーブルの端に置かれていた静の連絡板が、淡く光を帯びた。
【フレイア:静さん、お疲れ様。やっと私もティナも仕事が終わったわ。今からいつもの宿に移動するので、着いたら連絡します。よろしくね】
「おっ、フレイアさんとフォルティナさんの仕事が終わったみたいだよ。もう少ししたら上弦の宿に着くみたいだから、連絡が来たら迎えに行ってくるね」
静が文面を読み上げると、エナがぱちぱちと目を瞬かせた。
「フレイアさんって……もしかして、この間、診療所に来てくださったギルドマスターの……?」
「はい、そのフレイアさんですよ。今日は一緒にお夕飯をいただくんです」
セリナがにっこりと頷くと、エナは「わぁ……!」と嬉しそうに頬を緩め、それから「あっ」と小さく口元を押さえた。
(どうしよう……『次はもっと美味しいお茶を淹れてお待ちしています』って、約束しちゃったのに……今日は私、お茶を淹れられない……!)
エナがひとりでおろおろとしているうちに、ミレイアがサファイア色の瞳を細めて上品に笑った。
「ふふ、思ったより早く終わったのね。きっと姉さんもフォルティナさんも、静の作ったお料理が早く食べたくて、必死に頑張ったのよ」
「あ〜、わかるわかる! フィアも静の美味しいご飯が食べられるなら、お仕事すっごく頑張っちゃうもん!」
フィアが焼き菓子を頬張りながら元気よく同意し、肩の上のハルも「ひゅん♪」と合いの手を入れる。リビングは再び、和やかな空気に包まれた。
だが、ソファの端に座っていたエナだけが、グラスを持ったまま、ぴたりと固まっていた。
(あれ……? 今、フォルティナさんって言っていたような……? まさかこのフォルツの領主様の……あのフォルティナ様……? いやいや、いくらなんでも、まさか……ね?)
膝の上のツキが、不思議そうに「にゃ?」と首を傾げてエナを見上げる。
エナは引きつった笑顔のまま、グラスの氷がカランと鳴る音を、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。




