第二十一話 初夏の献立と麦茶の香り
「さてと……まずは何から始めようかなぁ」
誰もいないダイニングで、静は腕を組んで考え込んだ。
今日の夕食には、アリアたち四人とセリナ、そしてフレイアとフォルティナ、さらに初めて屋敷を訪れるエナが加わる。静を合わせると九人、それに幼体たちが七匹。いつもの食卓よりずっと賑やかになるのは間違いない。これだけの大人数が揃うなら、それぞれが自分のペースで、好きなものを好きなだけ食べられる献立がいいだろう。
「卓の真ん中で、みんなでつつける料理がいいな。……よし、メインはすき焼き風の鍋にしよう」
甘辛い割り下で、肉や野菜、豆腐をくつくつと煮ながら、皆が好きな具を取って食べる。大皿に具材を山のように盛っておけば、見た目にも豪華で楽しいはずだ。新しい『醤』のコクなら、割り下もきっと美味しく仕上がるだろう。
「あとは……冷やし固める時間が必要なアイスと、煮出して冷ます飲み物から手をつけて、その間にいろいろと仕込んでいこうか」
独り言で段取りを整理していくうちに、ふと窓の外の陽射しが目に入った。庭の木々の緑はすっかり濃くなり、差し込む光にも、初夏らしい明るさが満ちている。
「せっかくだし、たけのこご飯も良いなぁ」
大樹の大枝の奥にある、あの竹林なら、まだみずみずしいたけのこが顔を出しているはずだ。
思い立った静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。
光が溶けるように消えると、目の前には見覚えのある竹林が広がっていた。ひんやりとした朝の空気に、青々とした竹の葉の匂いが混ざっている。風が吹き抜けるたびに頭上の葉がさらさらと擦れ合い、細い光の筋が足元で揺れた。
「たけのこは掘りたてが一番だからね」
静は土の盛り上がりを探して歩き出した。いつもなら、足元でツキやマルが「にゃっ」「ぷぅ!」と先導して見つけてくれるのだが、今日はみんな出払っていて、いつもの賑やかさが無い。前にみんなで来た時はリーナが土魔法で掘るのを手伝ってくれたけれど、今日は自分の手で掘るしかない。
一人で竹林を歩くのは、なんだか少しだけ寂しい気がした。
「……みんなと来ると、あんなに賑やかなのになぁ」
小さく苦笑しながら、静は地面からわずかに覗く穂先をいくつか見つけ、根元の土を丁寧に掘り返していく。ずしりと重たいたけのこを掘り出すたびに、土の中からひんやりとした湿った匂いが立ちのぼった。
ついでに近くの林でキノコも少し摘んで、すき焼きの具材に加えることにする。ふっくらとした傘の森香茸からは、それだけで出汁のような良い香りがした。
「よし、これだけあれば十分かな」
短時間で用事を済ませた静が再び右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれ、その姿は屋敷へと戻っていった。
◆◆◆
屋敷に戻った静は、すぐにたけのこの下茹でにとりかかった。
たけのこの皮を数枚剥き、先端を斜めに切り落として、縦に浅く切れ目を入れる。鍋にたっぷりの水と米のとぎ汁、それに唐辛子を一本入れて火にかけた。
前にみんなで竹林へ行った時は、アク抜きにも魔法の力を借りた。けれど今日は自分ひとりだ。日本で覚えた、昔ながらのやり方でじっくりいこう。
ぐつぐつと煮立つ鍋の様子を見ながら、静は隣のコンロにフライパンをのせた。
昨日アリアたちが精製してくれた『古代麦』を一掴み入れ、弱火でじっくりと乾煎りしていく。木べらで混ぜるたびに、ぱち、ぱちと小さな音が弾け、炒った豆のような香ばしい匂いが、昨日おやつを作った時よりもさらに濃く、台所いっぱいに広がっていった。
「うん、いい匂いだ」
こんがりと色づいた古代麦をたっぷりのお湯で煮出すと、お湯の色がみるみるうちに、琥珀色より少し深い、赤みがかった茶色へと変わっていく。古代麦そのものの色が、ゆっくりとお湯に溶け出しているのだろう。古代米を炊いた時と同じように、見慣れた穀物とは少し違う色合いが現れていた。
火から下ろして粗熱を取り、小さなコップに注いで味見をしてみる。
「……すごく美味しい麦茶だな」
香ばしくて、すっきりとしていて、どこかほっとする味。日本の夏の台所で、よく冷蔵庫に入っていたあの麦茶を、さらに美味しくしたような味がする。
「冷やしておけば、探索から帰ってきたアリアたちも喜ぶかな。フレイアさんたちにお土産で持たせる分も、少し取り分けておこう」
静は麦茶をガラスのピッチャーに移し、屋敷の冷却箱へ入れた。
続いて、デザートの仕込み。
ボウルで卵黄と砂糖をよくすり混ぜ、温めた牛乳を少しずつ加えていく。小鍋に移して弱火にかけ、木べらにとろりと絡むまでゆっくりと火を通したら、粗熱を取って冷却箱の一番よく冷える段へ。固まりかけたところで何度かかき混ぜてやれば、なめらかなアイスに仕上がるはずだ。
さらに小鍋で砂糖を焦がし、新しい『醤』をほんの少しだけ加えて、キャラメルソースを作った。
「おっ、前に醤キャラメルの焼き菓子を作った時とは、少し香りが違うな。こっちの方がコクが深いかも」
パフェのトッピング用に、古代麦を軽く炒ってから蜂蜜ボールの蜂蜜を絡め、カリカリの粒も用意しておく。アイスに醤キャラメルをかけて、このカリカリを散らせば――想像しただけで、頬が緩んだ。
◆◆◆
お昼時。
静がよく冷えた麦茶と、前日の焼きおにぎりの残りで簡単な昼食をとっていると、テーブルの上に置いていた連絡板が淡く光った。
【セリナ:静様、ローゼさんからお許しをいただけました。エナさん、とても喜んでいます。霊桃の芽のお水は、孤児院の子供たちが引き受けてくれました】
(よかった。ローゼさんも子供たちも、本当に優しいな)
静は頬を緩め、すぐに指先で表面をなぞった。なぞった線が淡く光りながら定着し、ひとつずつ文字になっていく。
【静:よかった! みんなで待ってるね】
最後に板の表面を軽く押さえて、送信を確定する。文字がすっと落ち着いたのを見届けてから、静は麦茶をぐいっと飲み干した。
「エナの分、何か子供が喜びそうなものも作ってあげたいな。……そうだ! デザートのパフェに美味しい果物も乗せて、思いっきり華やかに盛り付けよう」
果樹園の旬の果物を、彩りよく何種類か。きっとエナは目を丸くするだろう。
午後の仕込みが、さらに楽しくなってきた。
下茹でが終わったたけのこを薄切りにして、醤と出汁で炊き込みご飯の準備をする。炊くのはみんなが合流してからでいい。
空間に保存しておいた大樹魚の切り身を取り出し、コクの強い醤を使って煮付けにする。落とし蓋をして、甘辛い煮汁を何度もお玉で回しかけるうちに、切り身の表面がつやつやとした照りをまとっていった。
茹でて冷やした古代麦は、夏野菜と一緒に醤のドレッシングで和え、ぷちぷちとした食感のサラダに。
すき焼き用の割り下を作り、大皿には薄切りの肉や野菜、キノコ、豆腐を、彩りよく並べていく。
「あとは麦とろご飯用の草芋だけど……すりおろすと色が変わっちゃうから、皮だけ剥いておいて、食べる直前にすりおろそうかな」
料理好きらしい判断で下準備を終えると、静はふと手を止めた。
「エナが泊まるなら、客間の用意もしておかないとね」
静はキッチンを離れ、客室へと足を向けた。
窓を開け放つと、初夏の柔らかな風がすうっと部屋を通り抜けていく。洗い立ての寝具を整え、枕元に小さな水差しを置いた。
(……夜になったら、ツキがこっそり潜り込んでいそうだなぁ)
そんな光景が目に浮かんで、静は小さく笑った。
◆◆◆
その頃、大樹北側の『古代麦』の群生地。
アリアたちは前日よりも少し多めに古代麦を刈り取り、リーナとミレイアの魔法で見事に精製を終えていた。
「すごいわね……昨日刈り取った手前の列、もう新しい穂がうっすらと覗いているわ」
リーナが手帳に書き込みながら、刈り跡を見て小さく息を漏らした。どうやらこの群生地の生命力は、常識では測れないらしい。足元のマルが刈り跡の土をぽむぽむと叩き、「ぷぅ」と満足げに鼻を鳴らす。
「本当に、不思議な場所ね。……さて、周辺の探索もひと通り終わったし、そろそろ静に迎えをお願いしましょうか」
アリアはマジックポーチから連絡板を取り出し、指先で表面をなぞった。なぞった線が淡く光りながら定着し、ひとつずつ文字になっていく。
【アリア:収穫と探索、終わったわ。迎えをお願い】
最後に板の表面を軽く押さえて、送信を確定する。
ほどなくして、木漏れ日の中にふわりと柔らかな光の粒子が舞い、静が姿を現した。
「お疲れ様。みんな、怪我はない?」
「ええ。これといった魔物もいなかったし、お弁当も美味しかったわ」
「静の作ってくれた蜂蜜バー、すっごく美味しかったよ! フィア、また食べたいな♪」
フィアが跳ねるように言うと、幼体たちも「きゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」と満足げに鳴いた。
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれ、一行は屋敷へと戻った。玄関に入った途端、フィアの猫耳がぴくりと動き、鼻がひくひくと動く。
「んんっ? なんか、すっごく香ばしくて、甘じょっぱい匂いがする!」
「あはは、夕飯の仕込みをしてたんだ。みんな、手洗いうがいをしておいで。冷たい飲み物を用意してあるよ」
アリアたちがリビングへ入ると、テーブルにはガラスのコップに注がれた、赤みがかった茶色の飲み物が並んでいた。コップの表面には、うっすらと細かな水滴が浮いている。足元には、幼体たち用の浅い小皿もちゃんと並べられていた。
「これ、古代麦を炒って煮出した『麦茶』っていうんだ。冷やしてあるから、飲んでみて」
「香ばしくて、すごく飲みやすいわね。渇いた喉にすーっと入っていくわ」
「冷たい飲み物がすぐに出てくるなんて、本当に贅沢ね」
アリアとミレイアが感心して息をつく。リーナはひと口含んでから、コップを光にかざしてまじまじと色を確かめた。
「昨日のリゾットの煮汁と同じ色ね……。焙煎するだけで、こんなに香りが立つなんて」
足元では、あかねたちが小皿に顔を突っ込むようにして、ぺちゃぺちゃと夢中で麦茶を舐めている。マルは最後の一滴まで舐め取ろうと、小皿ごとくるりと回してしまい、ルゥに不思議そうに覗き込まれていた。
「静、私たちも夕飯の準備を手伝うわ。何を作ればいい?」
アリアが袖をまくると、静は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、アリアは肉を切るのをお願い。ミレイアは野菜を洗ってくれる? リーナはサラダの盛り付けをお願いしたいな」
「フィアは!? フィアは何すればいい?」
「フィアは、味見係……と言いたいところだけど、つまみ食いでお腹いっぱいになっちゃうから、ハルたちと遊んでて」
「え〜っ!」
フィアが抗議の声を上げ、肩の上のハルまで「ひゅん……」としょんぼり鳴く。その様子に、台所中から賑やかな笑い声が上がった。
◆◆◆
夕方が近づく頃、フォルツの街。
午後の診療をいつもより少し早めに切り上げたセリナとエナは、ツキを連れて孤児院の門の前に立っていた。
見送りに出てきたシスター・ローゼが、エナの襟元を整えてやりながら、柔らかく微笑む。
「静さんのお屋敷では、お行儀よくするのですよ。セリナさんにご迷惑をかけないようにね」
「はい、ローゼ先生!」
背筋をぴんと伸ばして答えるエナの後ろから、子供たちがわらわらと顔を出した。
「エナお姉ちゃん、霊桃の芽のお水、ちゃんとあげとくからね!」
「ありがとう! 葉っぱにかけないで、根元にそーっとね!」
「わかってるってばー!」
エナが念を押すと、子供たちは得意げに胸を張った。ローゼがその様子にくすりと笑い、エナの頭を優しく撫でてやる。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「はい! 行ってきます!」
嬉しそうに笑ってから、エナはふと、街道のある方角をほんの一瞬だけ見つめた。それからすぐにセリナの方へ向き直り、「お待たせいたしました、師匠!」と元気よく声を弾ませた。
◆◆◆
セリナに連れられてエナがやってきたのは、フォルツの街でも上等な宿として知られる『上弦の宿』だった。
顔なじみの宿の者に会釈をして、セリナは迷いのない足取りで階段を上がっていく。通された一室は、落ち着いた調度品が並ぶ、静かで品の良い部屋だった。
(あれ? 静さんのお屋敷って聞いていたけど……時間まで宿で休憩でもするのかな?)
エナはきょろきょろと部屋の中を見回してから、こっそりと首を傾げた。足元のツキはといえば、勝手知ったる様子で窓辺の日だまりに座り込み、のんびりと毛づくろいを始めている。
セリナは腰のマジックポーチから一枚の板を取り出すと、指先でその表面をそっとなぞり始めた。
けれどエナの目には、師匠がつるりとした何も書かれていない板を、ただ指先で撫でているようにしか見えない。最後にセリナが板の表面を軽く押さえると、ほんの一瞬だけ、板がふわりと淡く光ったような気がした。
「師匠、それは……?」
「ふふっ。静様へのお手紙のようなものです。もうすぐ、お迎えに来てくださいますよ」
「お迎え……ですか?」
馬車でも来るのだろうか。エナがますます首を傾げた、その時。
部屋の真ん中に、ふわりと柔らかな光の粒子が舞い始めた。
「えっ……? ひゃっ!?」
思わずセリナの背中に隠れたエナの目の前で、光の粒はみるみる人の形を描き――すっと溶けるように消えたあとには、エプロンを外しかけた格好の青年が、穏やかに微笑んで立っていた。
「お待たせ、セリナ。……エナも、いらっしゃい」
(い、いらっしゃい……!? ここ、宿屋さんですよね……!? 静さん、今、どこから……!?)
頭の中が真っ白になったエナは、気づけばセリナの背中から飛び出し、勢いよく頭を下げていた。
「し、静さん! 本日はお招きいただき、ありがとうございます!」
上ずった声が、静かな部屋に響き渡る。
一拍の間を置いて、静は思わずくすりと笑った。
「そんなに硬くならなくていいよ。ごめんね、驚かせちゃったかな」
「静様、ありがとうございます。……本当はもう少し早く戻って、お料理のお手伝いをするつもりだったのですが」
申し訳なさそうに眉を下げるセリナに、静は「大丈夫、大丈夫」と手を振った。
「アリアたちが手伝ってくれたから、もうほとんど出来てるよ。フレイアさんたちはお仕事が終わったら連絡をくれるって言ってたから、先に戻ってようか」
窓辺のツキが「にゃ」と短く鳴いて立ち上がり、とことことエナの足元へ寄り添った。『大丈夫だよ』とでも言うように、小さな頭をすり、とエナの足首に押し当てる。
「さぁ、行こうか」
「え……行くって、どこへ……?」
戸惑うエナの手を、セリナがそっと優しく握った。
「大丈夫ですよ、エナさん。少し眩しいので、目を閉じていても構いませんからね」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。温かな光が、三人と一匹を優しく包み込んだ。
エナは思わずぎゅっと目をつぶり、師匠の手を握り返した。ほんの一瞬、身体がふわりと浮くような心地がして――。
足元に、磨かれた木の床の感触が戻った。
ふわりと鼻をくすぐるのは、甘じょっぱい醤の香りと、炒った麦の香ばしい匂い。奥の方からは、楽しそうな笑い声と、聞き慣れた小さな鳴き声がいくつも重なって聞こえてくる。
エナはおそるおそる目を開け――そして、目の前に広がる見慣れない、けれどどこまでも温かく美しい空間に、まんまると目を丸くして立ち尽くした。




