第二十話 明日の予定と広がる期待
夜の帳が下りたフォルツの街。その中心に建つ領主館の一室では、まだ魔道具のランプの灯りが消えずにいた。
分厚い書類の束が積まれた執務室に残っていたのは、フォルツの領主であるフォルティナと、冒険者ギルドマスターのフレイアの二人だけだった。フォルティナの足元ではルナが丸くなってうとうとと船を漕ぎ、フレイアの肩の上ではサンが羽毛をふくらませて、時折小さく首を傾げている。
執務机の端では、静が結晶で作ってくれた小さな湯沸かし器が、こぽこぽと控えめな音を立てていた。淹れたてのハーブティーの香りが、紙とインクの匂いにふんわりと混ざり合う。
明後日の朝、フレイアは王都へ一時帰還する。その前にフォルツ側で抱えている案件の引き継ぎと、留守中のスケジュールを確かめておく必要があった。
「――これで、ギルドの方の申し送りはひと通りね」
フレイアは最後の書類に目を通し終えると、ふう、と小さく息をついて顔を上げた。長いエルフの耳が、ランプの灯りの中で小さく揺れる。
「ティナ。明後日の朝には王都へ発つけれど、それまでに何かやっておくことはあるかしら?」
「そうですね……これと言って特には無いですね。支部長のバイトンさんもいらっしゃいますし、数日のことなら大丈夫ですよ」
フォルティナはカップを両手で包み込んだまま、ふわりと微笑んだ。
「それより、向こうではお仕事がたくさん溜まっているのでしょう? 無理はしないでね、フレイ」
「……レオンの『至急』を三回も並べて見せられたあとだと、無理をしないで済む気がしないのよねぇ」
フレイアが遠い目をして苦笑すると、肩の上のサンが「ぴぃ……」と同情するように鳴いた。その様子に、フォルティナは思わずくすりと笑みをこぼす。
その時だった。
書類の脇に置かれていたフレイアの連絡板が、淡い光を放ち始めた。
「あら?」
いち早く気づいたフレイアが連絡板を手に取り、表面に浮かび上がった文字へと視線を落とす。
【静:フレイアさん、フォルティナさん、こんばんは。明日の夜、良ければこちらで夕飯を食べませんか? バルドランさんの新しい『醤』を使った料理を用意しておきます。送迎もしますので、翌日のお仕事にも響かせませんよ】
文面を読み終えた瞬間、フレイアの顔がぱぁっと輝いた。
「やったわ! 静さんからの夕食のお誘いよ。しかもティナと二人宛て。あなたの方にも来てるはずよ」
「えっ? 夕食のお誘いですか?」
フォルティナも驚いて、自分の連絡板を取り出した。表面を指先でそっと撫でると、淡い光が走り、フレイアのものと同じ文面がゆっくりと浮かび上がる。その瞳に、隠しきれない喜びの色が灯った。
「新しい『醤』のお料理……すごく楽しみですね。でも、どうして急にお誘いが来たんでしょう?」
「たぶん、昼間セリナさんに話したのが、静さんに伝わったのね」
「昼間ですか?」
「ええ。ギルドからの帰りに診療所の前を通ったら、表の札にセリナさんの名前があってね。ちょっとだけ顔を出したのよ。その時に静さんが新しい醤で試作をしてるって聞いたものだから……王都に行く前に、ぜひ食べてみたいって言ってみたの」
フレイアが悪戯っぽくウインクをすると、フォルティナは「なるほど」と感心したように口元に手を当てた。
「それを聞いた静さんが、出発の前にって気を遣ってくださったんですね……」
文面の最後の一行に、フォルティナの視線がそっと留まる。
(翌日のお仕事にも響かせませんよ、だなんて……私たちの忙しさまで、ちゃんと考えてくださって)
ほんのりと頬を緩めてから、フォルティナはフレイアへと顔を上げた。
「フレイ、もちろんお受けするんでしょ?」
「当然よ! 静さんの新作料理なんて、聞いた以上は逃せないもの。ティナの分もまとめて返事しておくわよ?」
「ええ、お願いします。私も楽しみだもの」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。すでに頭の中は、明日の夕食のことでいっぱいになりつつある。
主人たちの弾んだ声に、ルナがうっすらと目を開けて「くぉん?」と首をもたげた。フォルティナが「明日の夜、静さんのお屋敷にお呼ばれしたのよ」と頭を撫でてやると、ルナは嬉しそうに「くぅん」と鳴いて尻尾を揺らす。サンも「ぴぴっ!」と羽をぱたぱたさせ、フレイアの肩の上で小さく跳ねた。
「ふふ。あなたたちも、ツキちゃんたちに会えるのが嬉しいのね」
フレイアは連絡板の表面に指先を滑らせた。なぞった線が淡く光りながら定着し、ひとつずつ文字になっていく。心なしか、その筆致はいつもより弾んでいた。
【フレイア:静さん、お誘いありがとう! ティナと二人で喜んで伺うわ。明日、仕事が終わったら上弦の宿から連絡するから、お迎えをよろしくね】
最後に板の表面を軽く押さえて、送信を確定する。文字がすっと落ち着いたのを確かめてから、二人は再び山積みの書類へと向き直った。
けれど、その表情は先ほどまでとは見違えるほど明るい。
「……さ、明日の夕方までに片付けなきゃいけないものが、また増えた気がするわね」
「ふふ。頑張りましょうね、フレイ」
ランプの灯りの下で、羽ペンの走る音が、どこか軽やかに響き始めた。
◆◆◆
同じ頃。静の屋敷。
食後の『二色大判焼き』を味わいながら賑やかに談笑していたダイニングで、テーブルの端に置かれた連絡板が淡く光った。
「ん? フレイアさんから返事が来たみたいだね」
静が板を手に取り、浮かび上がった文面に目を通す。
「明日の夕食、フォルティナさんと二人で来てくれるって。仕事が終わったら、上弦の宿から連絡をくれるってさ」
「それは良かったです。きっとフレイアさん、すごく喜んでくださっていますね」
セリナが安堵したように微笑み、それから少しだけ姿勢を正した。
「では明日は、予定通りエナさんにもお声がけしてみますね。お許しがいただけたら、診療所は少し早めに切り上げて、お料理のお手伝いをいたします」
「うん、ありがとう。エナも来られると良いね」
「はい」
静が嬉しそうに頷くと、セリナも柔らかく目を細めた。
そんな二人の穏やかなやり取りを聞いていたミレイアが、膝の上のルゥの長い耳を優しくすきながら、ふと思いついたように口を開いた。
「人数も増えることだし、明日の探索に行く前に、『古代麦』をもう少し収穫しておきましょうか?」
「あっ、そうだね。今日収穫したのは、お試し分くらいだったし……ミレイアとリーナに、またお願いしようかな。あ、でも全部は刈らずに、また実ってくれる分は残しておいてね」
静が頼むと、リーナも手帳をぱたんと閉じて得意げに微笑んだ。
「任せてちょうだい。その代わり、美味しい物をよろしくね」
「ふふっ、今日と同じ手順なら、すぐに済むわ」
ミレイアが穏やかに頷くと、膝の上のルゥも「くぅ」と合いの手を入れた。
「フィアも、フィアも手伝うから! その分、沢山食べさせてよね♪」
身を乗り出して尻尾をゆらゆらと揺らすフィアに、アリアが苦笑いして肩をすくめた。
「手伝う前から、もう食べる話になってるじゃない。……それに明日は、早めに切り上げて戻ってくるんだから、欲張りすぎないようにね」
「は〜い♪」
「任せておいて。今日好評だった品と、ほかにも何か考えてみるよ」
静が楽しそうに請け負うと、ダイニングのあちこちから歓声が上がった。
アリアの足元にいたあかねが「きゅきゅ♪」と嬉しそうに鳴き、ミレイアの膝のルゥも「くぅ!」と声を上げる。フィアの頭の上を飛んでいたハルも「ひゅん♪」と宙返りし、リーナの足元のマルは「ぷぷぅー!」と前足で床をぽむぽむと叩いた。
そしてツキも、明日は妹分のエナがやってくるかもしれないと分かっているのか、お姉ちゃんらしくすまし顔を作りながらも「にゃ♪」とご機嫌な声で鳴き、尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
◆◆◆
翌朝。朝食をしっかりと済ませた一行は、さっそくそれぞれの行動を開始した。
玄関先に集まったアリアたちへ、静は何もない空間から竹皮の包みをいくつか取り出して手渡した。
「はい、これ今日のお昼ね。昨日作っておいた醤の焼きおにぎりと、照り焼きと、出汁巻き卵。それと、古代麦のおやつも入れておいたから、探索の合間にでもつまんでね」
「あら、ありがとう。まだ温かいわね」
「やったー! 静のお弁当〜♪」
包みを受け取ったアリアがマジックポーチへ丁寧に仕舞い込むと、フィアがぴょんと跳ねて喜んだ。足元の幼体たちも、自分たちの分の小さな包みがあることを察したのか、そわそわと尻尾を揺らしている。
「それじゃあ、送っていくね」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれ、アリアたち四人と幼体たちを優しく包み込んだ。転移の先は、昨日見つけた大樹北側の『古代麦』の群生地のすぐ近くだ。
光が溶けるように消えると、目の前には朝露をまとった黒い穂波が広がっていた。朝の光を受けた穂先が、磨いた黒檀のようにしっとりと艶めいている。森の木漏れ日が揺れる中へ無事に降り立ったのを確認し、静は皆へ声をかけた。
「皆、『古代麦』の収穫もお願いね。探索が終わったら、連絡板で教えてくれれば迎えに行くよ」
「わかったわ。昼過ぎくらいには連絡するから、よろしくね」
アリアが腰の剣帯を確かめながら頷くと、ミレイアも優雅に微笑んだ。
「ふふっ、たくさん収穫しておくわね」
「探索ついでに、他にも何か無いか見ておくわ」
リーナが手帳を片手に張り切って言うと、フィアがぴょんと跳ねて静に手を振った。
「静〜、美味しい物よろしくね!」
「あはは、わかってるよ。気をつけてね!」
静が手を振り返すと、足元のあかねたちも「きゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぅ!」と、それぞれに元気よく鳴いて探索への意気込みを見せた。
「じゃあ、また後で!」
静の体が再び柔らかな光の粒子に包まれ、屋敷へと戻っていく。それを見送ったアリアたちは、さっそく木立の奥へと歩みを進めていった。
◆◆◆
屋敷へ戻った静は、次に身支度を整えて待っていたセリナとツキの前に立った。
「じゃあ、セリナ。フォルツの宿まで送っていくね」
「よろしくお願いします、静様」
「にゃ」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。三人は見慣れたフォルツの街の『上弦の宿』の一室へと、音もなく降り立った。朝の街の喧騒が、開け放たれた窓から微かに聞こえてくる。
「それじゃあ、エナのことよろしくね」
「はい。この後、孤児院へエナさんを迎えに行って、エナさんとローゼさんにお許しをいただいてきますね」
セリナがしっかりと頷くと、足元のツキも「にゃにゃ!」と、『妹分のことは任せておいて!』と言わんばかりに頼もしく鳴いた。
「うん、ツキもよろしくね。夕方、また連絡を待ってるよ」
「はい。静様も、お料理の準備でご無理はなさらないでくださいね」
「あはは、気をつけるよ」
静が優しく微笑んで手を振ると、セリナとツキも温かな笑顔で宿の部屋を出ていった。
◆◆◆
屋敷へと戻ってきた静は、誰もいなくなった静かなダイニングで、ふぅと小さく息をついた。
窓からは爽やかな朝の光が差し込み、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
今日の夕食の席には、アリアたちに加え、フレイアとフォルティナ。そしてローゼさんのお許しが出れば、初めて屋敷を訪れるエナも加わる。
「俺とセリナと、アリアたち四人……フレイアさんとフォルティナさん、それにエナで、九人か」
指折り数えてから、静はふと足元を見て笑った。
「ルナとサンも来るだろうから……幼体たちは七匹全員集合だね」
大人数での、賑やかな宴会になりそうだ。
窓の外へ目をやると、庭の花壇の脇で、小さな祠が朝日を受けてひっそりと佇んでいる。
「コロンも来てくれたら、もっと賑やかなんだけどなぁ」
小さく呟いてから、静は台所の方へと視線を戻した。
「さてと……。まずは何から始めようかなぁ……」
腕を組み、楽しそうに献立を考える静だった。




