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観測者に見守られる屋敷で生きることにした ~静は世界を支配しない~  作者: 灯乃しんわ
第二十章 繋がる足跡と小さな訪問者たち

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第十八話 古代麦の名付けと夕暮れの台所

――少し時間を遡る。


大樹の北側での探索を終えた静たちは、収穫した古代麦を手に、屋敷へと戻ることにした。


柔らかな光の粒子がすっと空気の中に溶けて消えると、一行は見慣れた屋敷のリビングへと降り立っていた。


窓から差し込む日差しは朝よりもいくらか角度を落とし、床の上に長い陽だまりを描いている。大樹の北側の木漏れ日とはまた違う、住み慣れた屋敷の匂いと静けさが、ふわりと皆を包み込んだ。


セリナとツキはまだフォルツの仮設診療所で、夕方までの手伝いをしている。屋敷へ戻ってきたのは静とアリアたち四人、そしてあかねたち幼体組だけだ。


足が床についたか、つかないかのうちに、フィアがぴょんと跳ねて静の前へ回り込んだ。


「静、静! さっきの真っ黒な麦、早く使って何か新しい美味しいものを作ろうよ♪ あっ、それと醤の甘いのも! 帰ってからのお楽しみって言ってたよね!?」


フィアの肩のまわりでは、ハルも背中のもふもふの翼をパタパタさせ、「ひゅん、ひゅん♪」と同意するように飛び回っている。


「ちょっとフィア、落ち着きなさいな。戻ったばかりなんだから、まずは探索で使った道具を片付けてからよ」


アリアが苦笑しながらたしなめると、足元のあかねも「きゅきゅ」と鳴いて、アリアの言う通りだとばかりに頷いた。


「醤のお菓子はちゃんとあるよ。でも、セリナとツキが帰ってきてから、みんなで一緒にね」


静がそう言うと、フィアは「む〜」と猫耳を伏せつつも「……約束だよ?」と念を押して大人しく引き下がった。


静は空間の収納から、先ほど精製してもらったばかりの黒い粒をひと掬いと、アリアが最初に刈り取ってきてくれた穂を一本取り出し、まじまじと見つめた。


手のひらの上で、つややかな粒が陽の光を受けて鈍く光る。穂の方は相変わらず、磨いた黒檀のような深い黒だ。


「黒麦か……確かに色は真っ黒だけど、向こうで黒麦って呼ばれていたライ麦とは全然違う性質みたいだし、何か違う呼び方にしたいよね」


「そうね。黒麦って言うと、どうしてもあの固いライ麦パンが思い浮かんでしまうし……皆で呼び分けるなら、何が良いかしら?」


ミレイアがサファイア色の瞳を瞬かせると、腕の中のルゥも「くぅ?」と首を傾げた。


リーナも手帳を開き、ペンを指先でくるりと回しながら顎に手を当てる。開かれた頁には、群生地で書き留めた『黒色大麦(仮)・食用可・清らかな魔力水を好む』という一行が、几帳面な字で並んでいた。


「ん〜、古書にあった『黒色大麦』っていう名前も少し堅苦しいし、ライ麦との違いが分かりにくいわよね。それに古書のものと本当に同じかどうかも、まだ確かめようがないもの」


「あっ、そうだ! こういうのはどうかな?」


静がぽんと手を打つと、全員の視線が集まった。


「俺が向こうに居た時、黒っぽい色をしたお米があったんだけどね。昔からある品種だから『古代米』って呼ばれていたんだ。白いご飯に少し混ぜて炊くと、ほんのり紫色になって、もちっとして美味しいんだよ。だから、この黒い麦もそれにちなんで『古代麦』って呼ぶのはどうかな?」


「古代麦……」


アリアがその響きを口の中で転がすように呟いた。


「実際に古代からあった麦なのかは分からないけれど、見たことのない珍しい品種だし、あの古い水路のそばに実っていたのだもの。イメージとしてはぴったりで、良いんじゃないかしら?」


ミレイアが微笑んで賛同すると、リーナはペン先を頁の上へ走らせた。『黒色大麦(仮)』の文字にすっと一本線を引き、その横に『古代麦』と書き添える。


「ええ。市場のどこにも売っていないのなら、私たちが『古代麦』って勝手に名付けて呼んでも、誰にも文句は言われないと思うわ」


足元のマルもリーナの言葉に合わせて「ぷぅ!」と誇らしげに鼻を鳴らし、前足で床をぽむぽむと叩いた。


「ふふ、マルも賛成みたいね。分かりやすくて良い名前だわ」


アリアがくすりと笑ってマルを見下ろすと、フィアがぱっと顔を輝かせた。


「うん、いいねいいね! 『古代』って、なんだかすっごく美味しそうな響きだし♪ じゃあ名前も決まったし、あとは静がそれで美味しいものを作るだけだね!」


「古代と美味しさは、たぶん関係ないと思うわよ……」


リーナが呆れたようにぼやく。相変わらず食べることばかりに気が向いているフィアの無邪気さに、全員がどっと笑い声を上げた。ハルとあかねも、つられたように「ひゅん♪」「きゅ♪」と弾んだ声を重ねる。


「じゃあ、俺たちの中ではこれを『古代麦』って呼ぶことにしようか」


静がにっこりと笑って命名会議を締めくくると、アリアたちは「それじゃあ、私たちは先に装備の手入れを済ませてくるわね」と、それぞれの武器や探索道具の片付けに向かっていった。幼体たちも、それぞれのパートナーの後をとことこと追いかけていく。


◆◆◆


一人キッチンへ向かった静は調理台の上に布を敷き、ツヤツヤの古代麦をさらさらと広げた。


ふと窓の外に目をやると、庭の花壇の脇で、小さな祠が木陰にひっそりと佇んでいる。結晶の谷で採ってきた潤晶と炎晶は、まだ空間の収納の中で、小さなお客さんの次の来訪を待っていた。


「コロン、次はいつ遊びに来るかなぁ」


小さく呟いてから、静は調理台へ視線を戻し、腕を組んで考え込んだ。


「ん〜、この古代麦って、どんな料理に合うかなぁ……粉にしてパンを焼くのも良いけれど、今日は粉を挽いている時間はないし。フィアには悪いけど、パンはまた今度だな」


指先で粒をひとつつまみ、前歯で軽く噛んでみる。硬く締まった粒の奥から、炒った豆のような香ばしさがほんのりと広がった。


「……うん、粒のままでも美味しそうだ。とりあえず、粒の食感を活かしてリゾットでも作ってみようか」


静はさっそく古代麦を少量取り分け、水で軽く研いでからざるにあげた。鍋に良質な油をひと回しして火にかけ、水気を切った麦の粒を香ばしく炒めていく。木べらで混ぜるたびにぱち、ぱちと小さな音が弾け、油をまとった黒い粒のつやが増していった。


全体に油が回ったところで、あらかじめ取っておいた鶏と野菜の濃厚なスープを、お玉で少しずつ注ぐ。じゅわっと立ち上った湯気の中へ香草をひと枝浮かべ、あとは焦がさないよう時々混ぜながら、じっくりと煮込んでいく。


鍋の中で古代麦がスープを吸い込み、ふっくらと膨らんでいく。粒から色が溶け出したのか、煮汁がほんのりと赤紫を帯びてきたのを見て、静は「へぇ」と目を細めた。


(古代米を炊いた時みたいだ)


頃合いを見て味見をしてみると、普通の米よりもぷちぷちとした弾力のある食感が楽しく、噛むほどに深い旨味と香ばしさが口の中に広がった。


「うん、これは美味しい! 食感のアクセントがすごく良いな。スープの味もちゃんと吸ってくれてる」


仕上げに削ったチーズを少しだけ落とし、鍋を火から下ろす。


次に静は、いつもの炊飯用の鍋を取り出した。


「やっぱり、おにぎりも試してみたいよね。白米と古代麦を半々にして、炊き込んでみよう」


粒の硬い古代麦は、お米よりも水を吸うのに時間がかかりそうだ。静は先に古代麦だけを水に浸しておき、その間に白米を研いでいく。水を含んだ古代麦がひと回りふっくらしたところで白米と合わせて鍋に入れ、水加減をいつもより少しだけ多めに調整して火にかけた。


白米の甘みと、古代麦の香ばしさ。合わされば、きっと美味しいはず。


炊き上がりを待つ間に、静はもう一品、おやつの試作に取り掛かることにした。


フライパンに古代麦と、大樹や森で拾い集めた数種類の木の実を砕いて入れ、焦がさないように揺すりながら乾煎りしていく。やがて木の実の脂がじんわりと浮き、古代麦がぱちぱちと小さく跳ね始めると、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。


そこへ、以前大樹で手に入れた『蜂蜜ボール』をいくつか割り入れる。透明な殻の中からとろりとした琥珀色の蜂蜜があふれ出し、弱火の上でゆっくりと煮溶けていった。


甘く濃厚な香りの中、ローストした古代麦と木の実を手早く蜂蜜に絡め、平らなバットに敷き詰めて、木べらの背でぎゅっと押し固める。あとは冷やし固めて切り分ければ、持ち運びにも便利な、栄養たっぷりの麦のおやつの完成だ。


「探索の合間にもつまめるし……明日も北の方へ行くなら、ちょうどいいかもしれないな」


そうこうするうちに、炊飯用の鍋からお米の甘い匂いと、古代麦の炒った豆のような香ばしい湯気が立ち上り始めた。火を止めて少し蒸らしてから蓋を開けると、白いご飯の中に黒い粒が点々と散り、全体がほんのりと淡い紫色に色づいている。


「おお……やっぱり、古代米を炊いた時にそっくりだ」


しゃもじで底から返し、熱々のご飯を手のひらに取って、小さめのおにぎりをひとつ握る。塩だけのシンプルなものを一口かじると、もっちりとしたお米の間で、古代麦の粒がぷちりと弾けた。


「うん、ご飯に混ぜても、ちゃんと美味しいな」


冷めかけていた麦のおやつも、端をひと切れだけ落として味見してみる。かりっとした歯ざわりのあとに、蜂蜜の優しい甘さと木の実のこくが追いかけてきた。


「よし、これでいくつか試作品ができたぞ」


静が満足そうに額の汗を拭った、その時だった。


キッチンの入り口から、小さな影たちがひょっこりと覗き込んでいることに気がついた。


あかね、ルゥ、ハル、マルの四匹が、入り口の壁際から縦に連なるようにして顔を出し、調理台の上に並んだ料理をじっと見つめている。


「きゅきゅ……」「くぅ……」「ひゅん……」「ぷぅ……」


美味しい匂いにつられてやってきたのだろう。今にも『味見したい!』と駆け寄ってきそうな勢いなのに、静が「まだだよ」と言うのを分かっているのか、入り口の境目から一歩も入ってこずに、お行儀よく並んでいる。


いちばん下にいるマルの鼻先だけが、少しずつ前へ前へと伸びていく。そのたびに、すぐ上のあかねが前足でぽすんと押さえて引き戻していた。


(ツキがいたら、きっと「にゃ」のひと声で並ばせるんだろうなぁ)


お姉ちゃんの留守を、自分たちなりに守ろうとしているらしい。その健気な姿に、静は思わずくすりと笑った。


「ごめんね、みんな。これは試作品だから、セリナやツキも帰ってきて、全員が揃うまでお預けだよ」


静が出来上がった料理を空間の収納へと納めていくと、幼体たちはあからさまに「きゅぅん」「くぅ〜」と残念そうに鳴いた。ハルは翼をしょんぼりと畳み、マルはぺたりと床に伏せてしまう。


「その代わり、晩ご飯はいっぱい作ってあるからね。楽しみにしてて」


その一言で、四匹の耳や尻尾がいっせいにぴんと立ち上がった。


◆◆◆


ちょうどすべての料理を収納し終えた頃、リビングの方から賑やかな足音が聞こえてきた。道具の手入れを終えたアリアたちが、くつろいだ部屋着に着替えて集まってきたのだ。


「お疲れ様。みんな、お茶でも飲んでゆっくりしてて」


静が温かいお茶を淹れて人数分のカップをテーブルに並べると、アリアたちは「ありがとう、静」「ちょうど喉が渇いていたの」と、それぞれにお礼を言った。


カップに口をつけようとしたフィアが、ふと鼻をひくつかせる。


「……ねぇ静。なんかキッチンの方から、すっごく香ばしくて甘い匂いがするんだけど」


「あはは、それは晩ご飯までのお楽しみ」


「え〜っ、またお預け〜!?」


フィアがソファーにばたりと倒れ込むと、アリアとミレイアが顔を見合わせて笑った。リーナは「どんな料理になったのか、ちゃんと記録しておきたいのだけれど」と手帳を膝に置きながら、ちらりとキッチンの方を気にしている。


フィアはそのままソファーにごろりと寝転がり、飛んできたハルのお腹を撫で始めた。ミレイアはルゥを膝に乗せて長い耳をすいてやり、リーナは足元で土を叩く真似をするマルのふくふくの頬を指先でつつき、アリアもあかねの背中の小さな翼を優しく撫でている。


窓の外では、陽がゆっくりと傾き始めていた。差し込む光にはいつの間にか淡い茜色が混じり、リビングの床に長い影を落としている。


静も自分のカップを手に取り、ソファーに腰を下ろして一息つこうとした、その時。


ポケットの中で、連絡板がふわりと淡く光った。


「ん? あっ、セリナから連絡が来たみたいだね」


取り出した板の表面には、セリナの丁寧な文字が浮かび上がっていた。


【セリナ:静様、本日の診療が終わりました。今、上弦の宿におります。お手すきでしたら、お迎えをお願いいたします】


「セリナの診療所のお手伝いが終わったみたいだから、ちょっとお迎えに行ってくるね」


静がカップを置いて立ち上がると、アリアが「ええ、気をつけてね。セリナにもお疲れ様って伝えてちょうだい」と優しく微笑んだ。


「セリナが帰ってきたら、いよいよ晩ご飯だね♪」


ソファーから跳ね起きたフィアに続いて、あかねたちも「きゅ!」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」と一斉に顔を上げる。


静は笑いながら、連絡板の表面へ指先を滑らせた。なぞった線が淡く光りながら定着し、ひとつずつ文字になっていく。


【静:お疲れ様! 今から迎えに行くね】


最後に板の表面を軽く押さえて、送信を確定する。


静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれた。


光の粒がすっと溶けて消えたあと、リビングには湯気の立つカップがひとつと、晩ご飯を待ちわびる賑やかな気配だけが残される。


静の姿は、セリナとツキの待つ『上弦の宿』の一室へと、一瞬にして転移していた。

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