第十七話 夕暮れの街と小さな先生
『本日の診療は終了しました』
エナが返したばかりの木札が、入り口の脇で夕風に吹かれ、かたりと小さく揺れていた。
フォルツの仮設診療所。一日の診療を終えた室内には、乾かした薬草のすっとした香りと、ようやく肩の力が抜けたような安らいだ空気が満ちている。
セリナとエナは手分けして後片付けに取りかかる。セリナは使い終えた乳鉢や薬匙を湯で丁寧にすすぎ、エナは寝台の敷布を整えて、治療台を固く絞った布で隅々まで拭き上げていく。
(ふふ、エナさんも、だいぶ問診や治癒魔法の使い方に慣れてきましたね……)
湯の中で薬匙を洗いながら、セリナは今日一日のエナの姿を思い返していた。
腰を痛めたおじいさんには、まず「いつから、どんなふうに痛むのか」を尋ねていた。肩の固くなった店主には、治したあとの荷物の担ぎ方まで添えていた。最後にやってきた荷運びのおじさんの捻挫も、魔力の加減を一度も誤らなかった。
患者さんの言葉に耳を傾け、不安をほどきながら手当てをする。その姿はもう、立派な治療師の卵そのものだった。
教わったことをただなぞるだけでなく、相手に合わせて、ちゃんと自分の言葉にしている。そのことが嬉しくて、セリナの胸の奥は温かな誇らしさで、じんわりと満たされていった。
「師匠、台のほうは終わりました! 次は何をしましょうか?」
「ありがとうございます、エナさん。では、薬草の瓶の蓋がきちんと閉まっているか、見ていただけますか? 湿気が入ると、すぐに傷んでしまいますから」
「はい!」
棚の前に立ったエナが、瓶をひとつずつ手に取っては蓋を確かめていく。
その足元では、ツキが床に落ちた乾いた葉の切れ端を見つけ、前脚でちょいちょいと部屋の隅へ寄せていた。片付けを手伝っているつもりなのか、ただ遊んでいるだけなのか。どちらにしても、ずいぶんと真剣な顔つきだ。
「ツキちゃんもお手伝いしてくれてるんですね」
エナがくすりと笑うと、ツキは「にゃ」と短く鳴き、すまし顔で尻尾をひと振りしてみせた。
やがて片付けがひと通り済むと、二人の視線は自然と受付の台へ向かった。
そこには今日一日で街の人々から届けられた差し入れが、まだこんもりと積まれている。朝採れの葉物に艶々とした根菜、熟して甘い香りを漂わせる果物、焼き立てだったパンの包み。お昼ご飯に使わせてもらった分を差し引いても、減った気がしない。
二人で両腕に抱えたところで、とても運びきれる量ではなかった。
「それでは、こちらは私が預かりますね」
セリナは腰のマジックポーチの口を開き、柔らかな果物が潰れないよう、ひとつずつ丁寧に収めていった。籠も包みも、吸い込まれるようにすっと消えていく。その様子を、エナは何度見ても飽きないといった顔で見つめていた。
「よし、これで大丈夫ですね。行きましょうか」
「はい!」
窓の戸締まりを確かめてから、セリナは診療所の扉に静かに鍵をかけた。
◆◆◆
外へ出ると、西の空が柔らかな茜色に染まり始めていた。
広場の楡の木が石畳に長い影を落とし、どこかの家の窓からは、夕餉の支度をする音と煮込みの匂いが漂ってくる。店じまいを始めた通りでは、一日を終えた人々の賑やかな声が行き交っていた。
セリナとエナ、そしてツキが並んで歩き出すと、さっそくあちこちから声が掛かった。
「おや、エナちゃん先生! 今日も一日お疲れさん!」
果物屋の店主が、店先の籠を片付ける手を止めて大きく手を振る。
「エナちゃん、うちの爺さんの腰を診てくれてありがとうねぇ! 帰ってきてから、ずっと『エナちゃん先生に叱られた』って嬉しそうに言ってるんだよ」
「し、叱ってないですよ!? 今日はお孫さんの抱っこを我慢してくださいって、お願いしただけで……!」
慌てて両手を振るエナに、通りの人たちがどっと笑った。
肉屋の軒先では昼間に肩を診てもらった店主が、これ見よがしに荷を反対の肩へ担ぎ直してみせる。
「ほら見てくれ、エナちゃん! 言われた通り、左右交互に担いでるぞ!」
「わぁ、ちゃんと守ってくれてるんですね! ありがとうございます!」
「はっはっは! 娘に叱られるより効くからな!」
さらにその先では荷運びのおじさんが、荷車の脇で手持ち無沙汰に腕を組んでいた。エナと目が合うなり、空っぽの荷台をばんばんと叩いてみせる。
「今日はもう一個も運んでねぇぞ、嬢ちゃん先生!」
「はい! 明日も、無理はしないでくださいね!」
「いつも街のために頑張ってくれて、本当に助かってるよ」
「エナちゃん、また明日ねぇ」
通りを少し歩くだけで、次から次へと温かな声が降ってくる。エナは照れくさそうに首をすくめながらも、一人ひとりに「ありがとうございます!」「おじいちゃんにも、無理しないでって伝えてくださいね!」と元気に言葉を返していった。
そんなエナの横顔を見守りながら、セリナは愛おしそうに口元を緩めた。
「ふふっ。エナさんの頑張りを、皆さんがちゃんと見ていてくださっていますね」
足元のツキも、大事な妹分が街の人々に可愛がられているのが鼻が高いのか、「にゃにゃ♪」と弾んだ声で鳴いた。尻尾をぴんと立て、ちょっぴり胸を張って歩いている。
「えへへっ……まだまだ上手くできないことも多いですけど、少しでも皆さんのお役に立てたらいいなって思って、頑張ってます!」
頬をぽっと赤く染めて笑うエナの言葉には、嘘偽りのない誠実さが滲んでいた。
(こうして名前を呼んでいただけるのも、エナさんが毎日、一人ひとりと向き合ってきたからこそですね)
セリナは胸の内でそっと呟き、茜色に照らされた小さな背中を、眩しそうに見つめた。
◆◆◆
やがて通りの先から、聞き慣れた子供たちの賑やかな歓声が聞こえてきた。
孤児院の門をくぐると、庭で遊んでいた子供たちが「エナお姉ちゃん、おかえり!」「セリナお姉ちゃんとツキちゃんもいる!」と、わっと駆け寄ってくる。あっという間に小さな手に囲まれたツキは、少しだけ困ったように耳を倒した。それでも逃げ出すことはなく、されるがままに背中を撫でられている。
騒ぎを聞きつけて奥から出てきたシスター・ローゼに、セリナは穏やかに事情を伝えた。
「ローゼさん、こんばんは。今日も街の皆さんからたくさんの差し入れをいただいたので、よろしければ皆さんで召し上がってください」
「まあ、セリナさん、エナさん……こんなにたくさんの温かなお心遣いを、本当にありがとうございます。子供たちも喜びます」
ローゼは驚きつつも、感謝に目を潤ませて深々と頭を下げた。
案内された台所で、セリナはマジックポーチから食材を次々と取り出していく。手伝うエナは、どこに何をしまえばいいのかを分かっている。
「師匠、根菜はこっちの下の段です! 果物は風通しのいい上の籠で、パンはこの布をかけておけば大丈夫です!」
てきぱきと指を差しながら棚を整えていくエナの姿に、ローゼが目を細める。
「すっかり頼もしくなって……。今では小さい子たちも、エナの真似をして片付けをするんですよ」
「ふふ。きっと、エナさんがいつもそうしているからですね」
自分が暮らすこの場所へ、街の人たちの優しさを自分の手で運んでこられたことが嬉しいのだろう。棚の前に立つエナの横顔は、心底誇らしげに輝いていた。
無事に食材を納め終えると、エナが「あっ」と小さく声を上げた。
「師匠、少しだけ待っていてもらえますか? 霊桃の芽にお水をあげてこないと」
「ええ、もちろんですよ」
エナは井戸で小さな桶に水を汲むと、庭の片隅へぱたぱたと駆けていった。セリナとツキも、その後をゆっくりと追いかける。
日当たりの良い一角に、柔らかな土がこんもりと盛られていた。その真ん中から、指先ほどの若葉が二枚、夕暮れの光を受けて顔を覗かせている。
エナは柄杓ですくった水を、葉にかからないよう根元へそっと注いでいった。
「今日も元気ですね。……早く大きくなってね」
小さな声でそう話しかけてから、エナはふと顔を上げた。孤児院の塀の向こう、街の外へと続く街道のある方角へ、ほんの一瞬だけ視線が向く。
すぐに桶を持ち直したエナは、何事もなかったように「お待たせしました!」とセリナへ笑いかけた。
セリナは何も聞かなかった。ただ、土の上で揺れる二枚の若葉を見下ろして、優しく微笑む。
「きっと、すぐに大きくなりますね」
「はい!」
足元のツキも、若葉の匂いをくんくんと確かめてから「にゃ」と小さく鳴いた。
◆◆◆
孤児院の庭先で一息ついたところで、セリナは改めてエナに問いかけた。
「では、エナさん。私はそろそろお屋敷へ戻りますが、明日の予定はどうしましょうか? もしお疲れでしたら、お休みにしていただいても大丈夫ですよ?」
するとエナは、まったく迷うことなく元気よく首を振った。
「大丈夫です、師匠! 明日もいつものように、午前中は診療所のお手伝いに行きますね!」
「そうですか。……ふふ、それでは私もご一緒しますから、無理だけはしないようにしましょうね」
「はい! よろしくお願いします!」
エナは嬉しそうに頷いてから、少しだけ上目遣いになった。
「あの……それなら明日の木札、最初から師匠のお名前も一緒に書いておいていいですか?」
「ええ。お願いしますね、エナさん」
「はいっ!」
ぱっと花が咲くように笑ったエナは、ローゼや子供たちに囲まれて、孤児院の中へと戻っていった。
「明日も頑張りましょうね」
その背中に声をかけ、扉の向こうへ消えていくのを見届けてから、セリナはツキと共に『上弦の宿』へと足を向けた。
◆◆◆
顔なじみの宿の者に会釈をして、いつもの一室へ入る。
窓から差し込む茜色の光が、静かな部屋を柔らかく染めていた。セリナはマジックポーチから連絡板を取り出し、指先で表面をなぞっていく。なぞった線が淡く光りながら定着し、ひとつずつ文字になっていった。
【セリナ:静様、本日の診療が終わりました。今、上弦の宿におります。お手すきでしたら、お迎えをお願いいたします】
最後に板の表面を軽く押さえて、送信を確定する。
文字がすっと落ち着いたかと思うと、ほとんど間を置かずに、板がふわりと淡く光った。
【静:お疲れ様! 今から迎えに行くね】
「ふふ。相変わらず、お返事が早いですね」
セリナが微笑んだ、その瞬間。部屋の中にふわりと柔らかな光の粒子が舞い、いつもの優しげな笑みを浮かべた静が姿を現した。
「セリナ、ツキ、お疲れ様」
「お迎えありがとうございます、静様」
足元へとことこと歩み寄ってきたツキの頭を、静はしゃがみ込んでそっと撫でる。
「今日はどうだった? エナ、元気にしてた?」
「はい。午前中はエナさんが中心になって患者さんを診てくれて、とても落ち着いて治療ができていましたよ。帰り道でも、街の皆さんがたくさん声をかけてくださって」
「そっか。エナ、頑張ってるんだね」
静が嬉しそうに目を細めると、セリナは「あ、そうでした」と小さく手を合わせた。
「静様、今日は午後にフレイアさんが診療所へ立ち寄ってくださったんです。近いうちに、お仕事で一度王都へ戻られるそうで……」
「王都に? それは大変だね」
「はい。それで、静様が新しい醤で試作をされるとお話ししたら……王都へ発つ前に、ぜひ味見をさせてほしい、とおっしゃっていました」
「あはは、フレイアさんらしいね。うん、それなら出発する前に、何か届けられるようにしておこうか」
静は楽しそうに笑うと、立ち上がって言葉を続けた。
「今日の夕飯はね、バルドランさんから貰った新しい『醤』を使った料理を、たくさん作ったんだ。甘いのも作ってあるから、みんなで一緒に食べようか」
「まあ……! 新しい『醤』のお料理ですか。ふふ、とても楽しみですね」
「それにね、アリアたちが北の方で、ちょっと面白いものを見つけてきてくれたんだよ」
「面白いもの、ですか?」
「うん。それは帰ってからのお楽しみかな」
いたずらっぽく笑う静に、セリナは「まあ」と目を瞬かせ、それからくすくすと笑みをこぼした。
その足元では、ツキも新しい料理と聞いて、ぱちっと目を輝かせていた。お姉ちゃんらしく表面上はすまし顔で「にゃ……」と短く鳴いてみせたものの、尻尾までは誤魔化しきれない。ゆらゆらと嬉しそうに大きく揺れている。
静はその愛らしい仕草にクスッと笑いを漏らした。
「それじゃあ、帰ろうか」
「はい、静様」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。
光の粒がすっと溶けて消えたあと、茜色の差し込む上弦の宿の一室には、静かな夕暮れの気配だけが残された。
二人と一匹は温かな夕餉の香りが待つ、住み慣れたお屋敷へと帰っていく。




