第十六話 黒き恵みと匠の技
アリアたちに案内されて木立を抜けた途端、静は眼前に広がる光景に思わず「うわぁ……」と感嘆の声を漏らした。
見上げるほどの木々に囲まれた中で、その一角だけがぽっかりと開けている。そこを埋め尽くすように、黒褐色の麦穂が畝に沿って整然と列を成していた。
風が吹き抜けるたびに、黒褐色の穂波がさわさわと揺れ、柔らかな木漏れ日を受けて磨いた黒檀のような深い光沢を放っている。岩場で嗅いだのと同じ、炒った豆にも似た香ばしい香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。
(ほんとに畑みたいだ……)
静は畝の縁まで歩み寄ると、重たげに頭を垂れた一本の穂を、そっと指先ですくい上げた。
「すごいね……俺の知っている黒い大麦も、粒は黒っぽかったけど、穂がここまで真っ黒になることはなかったんだよなぁ。黒麦って呼ばれてたライ麦なんかは、どちらかというと青みがかったグレーっぽい色だし……この麦穂って、本当に真っ黒なんだね」
予想以上に深い黒色をした麦穂を間近で観察し、静は感心したように首を傾げた。
その言葉に、ミレイアが淡いサファイア色の瞳を細めて微笑む。
「静のいたところでは、ライ麦のことを黒麦って呼ぶのね。ライ麦なら、こっちにもあるわよ」
「ええ。静はあまり口にしたことがないかもしれないけれど、平民や駆け出しの新人冒険者なんかは、安くて腹持ちが良いから日常的によく食べているわね」
手帳を胸に抱えたリーナが補足すると、隣のフィアが猫耳をぺたんと伏せて顔をしかめた。
「あ〜、アレかぁ……!フィア、あれはボソボソしててあんまり好きじゃないなぁ。やっぱり静の焼いてくれたふかふかのパンが一番美味しいよ♪」
「そうねぇ。私たちも新人の頃は贅沢なんて言えなかったから、よく固いライ麦パンをスープでふやかして食べていたわね」
アリアも昔を懐かしむように、少し遠い目をしながら苦笑いを浮かべた。
「ふふ、懐かしいわね。スープに浸しても、なかなか柔らかくならない日もあったもの」
ミレイアがくすりと笑うと、フィアが「あったあった! 顎が疲れちゃうやつ!」と大げさに頬を押さえてみせる。駆け出しの頃の思い出話に、四人の間に小さな笑いが広がった。
リーナは手帳をぱらりとめくり、最初にこの群生地を見つけた時に書き留めた頁へ目を落とした。
「この穂の色の深さ……やっぱり、古書にあった『黒色大麦』そのものなのかもしれないわね」
「そっか……じゃあ、俺の知っている黒い大麦とも、こっちのライ麦とも違う品種なのかもしれないね。余計にどんな味がするのか楽しみになってきたよ」
未知の穀物を前にして、静は子供のように目を輝かせた。
足元ではリーナの腕から降ろされたマルがさっそく畝の土を前足でぽむぽむと叩き「ぷぅ」と満足げに鼻を鳴らしている。あかねはアリアの足元で、垂れ下がった穂先に小さな前足を伸ばしては、揺れる穂にじゃれついていた。
「あかね、それは食べ物なんだから、遊んじゃだめよ」
アリアが苦笑しながら抱き上げると、あかねは「きゅぅ」と甘えた声を上げて、アリアの腕に頬をすり寄せた。
「静〜、これって美味しいパンとかにできそう!?」
フィアが期待に満ちた目で身を乗り出すと、静はうーんと顎に手を当てた。
「どんな性質なのか分からないからなぁ……。あ、アリア、さっき刈り取ってくれた麦穂、見せてもらってもいいかな?」
「ええ、いいわよ」
アリアがマジックポーチから取り出した数本の黒い麦穂を受け取ると、静はそれをいったん自身の空間の収納へと納め、そっとステータス画面を開いた。
「どうかな……?あ、出た出た。『食用可』で『高栄養価』って出ているね。あとは……『成長には清らかな魔力水が必要』って書いてあるよ」
「『清らかな魔力水』ですって……? もしかして、さっきの祠と水路が直接関係しているんじゃないかしら?」
リーナが素早く手帳を開きながら呟くと、ミレイアも頷いた。
「それは十分にありそうね。少なくとも、この黒い麦穂も、あんなに精巧な水路も、私が育ったエルフの森ですら見たことがないもの」
ミレイアの腕の中で、ルゥが水路のある岩場の方角へ垂れた長い耳をぴくりと向け、「くぅ」と小さく鳴いた。まるで『あそこの水だよ』と教えているかのようだ。
「ミレイアがそう言うくらいなら、一般の市場には出回っていなさそうね」
アリアが感心したように腕を組むと、フィアがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、すごく珍しくて、とっても美味しい作物なのかもしれないね♪」
フィアが嬉しそうに跳ね回ると、肩の上のハルも「ひゅん♪」と一緒になって小さく宙返りをした。
リーナは手帳から顔を上げ、静を少し羨ましそうに見つめる。
「それにしても、空間に取り込むだけで詳細な鑑定結果が見られるなんて……静はずるいわねぇ」
「まあまあ、そう言わないでよ。詳しい仕組みは俺にも分からないんだけど、便利だから良いんじゃないかな」
静が和やかに笑うと、皆の間に温かな空気が広がった。
リーナは苦笑しながら手帳にペンを走らせかけ、ふと、その手を止めた。
(……ギルドの鑑定の宝珠ですら、大樹の恵みには何も答えられなかったのに)
けれど、それを口にしたところで、静はきっと「へぇ、そうなんだ」と笑うだけだろう。リーナは小さく首を振ると、手帳には『黒色大麦(仮)・食用可・清らかな魔力水を好む』とだけ、几帳面な字で書き留めた。
◆◆◆
「それじゃあ、試作をするにしても、まずはある程度の量を収穫しないとね。……これって、どうやって刈ろうか?」
黒麦の群生地を前にして、静が腕を組んで首を傾げた。
「手で一本ずつむしるの?」
フィアが無邪気に言うと、アリアが苦笑しながら返した。
「それでは日が暮れちゃうわ。効率が悪すぎるわね」
「あ、でも全部刈っちゃうのはもったいないかな。せっかくここまで綺麗に育っているんだし、今日は手前の何列かだけにしておこうか。また実ってくれたら嬉しいしね」
静がのんびりとそう言うと、アリアたちは顔を見合わせて、ふっと表情を和らげた。
「静らしいわね。ええ、それがいいと思うわ」
すると、リーナが手帳をぱたんと閉じ、黒麦の畑を見渡しながら得意げに口元を上げた。
「それなら静、ちょうどいい魔法があるわよ。風魔法を使って刈り取りましょう」
「え? 風で刈れるの?」
静が驚く間もなく、リーナがすっと片手をかざし、精緻な魔力を紡ぎ出した。
次の瞬間——『シュシュシュッ!』と、目に見えぬ細やかな風の刃が手前の数列を走り抜け、黒麦の根元を一斉に、寸分の狂いもなく切り揃えていく。奥の列の穂先は、かすかな風にさわりと揺れただけだった。
刈り取られた黒麦は、リーナの操る穏やかな風の流れに乗って空中へふわりと舞い上がり、一箇所へと綺麗に集められていく。
「わぁ……! すごい、綺麗に刈れていくね!」
フィアが声を弾ませると、ハルも「ひゅん♪」と背中の小さなもふもふの翼をパタパタさせ、風に乗って舞う麦穂を追うように、楽しそうに宙を駆け回った。ときどき風の流れからこぼれた穂を鼻先でつつき、ちゃんと束の方へ押し戻しているのが、なんとも健気だ。
「ハル、お手伝いしてくれてるの? えらいえらい!」
フィアに褒められたハルは、得意げにふさふさの尻尾を揺らしてみせた。
宙に集められた黒麦の束を見上げ、今度はミレイアがルゥをそっと足元へ下ろし、一歩前へ出る。
「じゃあ、次は私ね。水魔法と魔力操作で、余分な水分を抜き取るわ」
ミレイアが両手をかざすと、宙に浮く黒麦の束が、淡く透き通った水色の光に包まれた。足元のルゥが、その光を見上げて「くぅ」と小さく鳴く。額の潤晶が、水色の光を映してきらりと瞬いた。
音もなく、摘みたての湿り気が細かな水の粒となって束の外へと引き出され、木漏れ日の中できらきらと散っていく。光が収まる頃には黒麦の束は、天日で幾日も干したかのような理想的な乾燥具合へと変わっていた。
それを見たアリアが「すごいわね……まるで高価な魔道具みたいじゃない」と、感心したように息を漏らした。
カラリと乾いた黒麦の束を見上げ、リーナが微笑む。
「あとは穂から粒を外して、殻や余計なゴミを飛ばせば終わりね。ミレイア、いけるかしら?」
「ええ、任せて」
リーナが再び穏やかな風を起こし、宙の黒麦をゆっくりと回転させる。そこへミレイアが繊細な魔力操作を重ねると、穂から黒い粒がぱらぱらとほどけるように外れ、もみ殻や細かな藁屑だけが、リーナの風に乗って綺麗に外側へと弾き飛ばされていった。
二人の魔法は、まるでひとつの完成された術式のように滑らかに重なり合い、一切の無駄がない。
弾き飛ばされたもみ殻が、ひらひらと雪のように辺りへ舞い落ちてくる。それを見たマルが「ぷぷぅー!」と目を輝かせて飛びつき、あかねも「きゅきゅ!」とアリアの腕から飛び降りて後を追い、二匹で舞い落ちる殻を夢中で追いかけ始めた。
やがて、頭のてっぺんにもみ殻をちょこんと乗せたマルが、得意げに胸を張ってリーナを見上げる。
「……マル。あなた、遊んでいたでしょう」
リーナが呆れたように言いながら、指先でそっと殻を払ってやると、マルは「ぷぅ」と短く鳴いて、満足そうに目を細めた。
「すごい……! 二人とも、息がピッタリだね!」
静が感嘆の声を上げると、ミレイアは「ふふ、昔から慣れているのよ」と上品に微笑み、リーナも「この程度の作業ならお手の物よ」と誇らしげに胸を張った。
「野営の時なんかも、いつもこの二人に助けられているのよ。濡れた服を乾かしてもらったりね」
アリアが肩をすくめて付け加えると、フィアも「そうそう! 雨の日の焚き火の薪とかもね♪」と嬉しそうに頷いた。
やがて風が静かに収まると、余分なものが全て取り除かれ、見事に精製されたツヤツヤの黒麦が、柔らかな風に乗って静の目の前へと優しく降りてきた。
静が両手で受け止めると、黒い粒がさらさらと手のひらからこぼれそうになる。木漏れ日を浴び続けていたせいか、ほんのりと陽だまりの温もりが残っていた。
静はその黒麦を見つめ、嬉しそうに目を細めた。
「これなら、屋敷に戻ってすぐに試作ができるよ。みんな、本当にありがとう!」
「パン!? パンを作るの!?」
フィアが目を輝かせて詰め寄ると、アリアが「ふふ、お屋敷へ帰ってからのお楽しみね」と楽しそうに言う。
あかねやルゥ、ハル、マルたちも「きゅきゅ♪」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」と、つられたように楽しげな歓声を上げている。
「それじゃあ、お屋敷に戻ろうか」
静は手のひらの黒麦を空間の収納へ丁寧に納めると、右手を軽くかざした。
空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれ、木漏れ日が揺れる黒麦の群生地から、一行は住み慣れた温かな屋敷へと帰還する。
光が消えたあとの群生地では、刈り残された黒い穂波が、何事もなかったかのように、さわさわと静かに揺れていた。




