第十二話 恵みの水路と温かな食卓
黒褐色の麦穂がびっしりと生い茂る一角で、アリアたちは三手に分かれて周辺の調査を進めていた。
風が吹き抜けるたびに、重たげな黒い穂先がさわさわと揃って揺れる。陽の光を吸い込むような深い色合いの穂波は、見慣れた金色の麦畑とはまるで違う、不思議な静けさをまとっていた。
麦穂畑の周囲を丁寧に観察していたミレイアの傍らで、膝のあたりにいたルゥが、垂れた長い耳をぴくりと揺らした。そして次の瞬間、何かの気配を察したように、少し離れた草むらの奥に向かってぽてぽてと勢いよく走り出した。
「ルゥ? 急に走ると転んで危ないわよ」
ミレイアが慌てて後を追いかけると、少し先にある草むらの陰で、ルゥがちょこんと座ってミレイアを待っていた。白い足先を揃え、背中の小さなもふもふの翼をぱたりと畳んだその姿は、どこか得意げにも見える。
ルゥの足元を覗き込むと、そこには周囲を青々とした苔に覆われた、古い石組みの水路が伸びていた。澄んだ水がさらさらと静かに流れており、その先は黒い麦穂が生い茂る畑の内部へとまっすぐ繋がっているようだった。水面から立ちのぼるひんやりとした空気が、歩いて火照った頬に心地よい。
水路の縁から身を乗り出したルゥの額で、潤晶が水面の光を映してきらりと瞬いた。
「お手柄ね、ルゥ。この麦穂畑へと水を引いている水路を見つけてくれたのね」
ミレイアが優しく頭を撫でてやると、ルゥは垂れた長い耳を心地よさそうに揺らし、「くぅ!」と嬉しそうに鳴いた。
ミレイアがさらに水路の上流部へと視線を送ると、草木に隠れた先にある岩場から水が湧き出ているのが見えた。そしてその岩場の傍らには、以前レナードとともに空白地帯を巡回した際に見つけたものとよく似た、古い幾何学模様が刻まれた『水利の目印石』がひっそりと佇んでいた。
苔むした石の表面に刻まれた線は、長い年月に削られて角が丸くなっている。それでも、誰かがこの水の流れを大切に守ろうとした跡のように、ミレイアには感じられた。
「うん、これはみんなを呼んで詳しく調査した方が良さそうね」
ミレイアはルゥを優しく抱き上げると、一度集合場所へと引き返すことにした。
◆◆◆
元の場所へ戻ると、ちょうど周辺を調べていたアリアとリーナも合流したところだった。アリアの肩にはあかねがちょこんと乗っており、リーナの腕の中ではマルが丸くなって、ふくふくと頬を膨らませている。
「ミレイア、何かあったかしら? こっちの方には特に変わったものはなかったわよ。あえて言うなら、豊作かしら?」
アリアが軽やかに笑うと、肩の上のあかねも「きゅ!」と相槌を打つように鳴いた。隣のリーナが手帳を閉じながら首をひねる。
「不思議なのは、手入れがされている様子もないのに、この黒い麦穂が生えている場所と生えていない場所がはっきりと分かれていることね……。境目がまるで線を引いたみたいに綺麗なのよ。理由が分からないけれど、なんだか調査のし甲斐があるわね」
見たこともない植物の謎に触れ、少しワクワクした様子で語るリーナの腕の中で、マルが「ぷぅ」と小さく鳴いた。リーナは「あなたも気になるの?」とその頭を指先でつつき、ミレイアが柔らかく微笑みかけた。
「ふふ、調査なら向こうでいい発見があったわよ。あそこに古い水路と、以前レナードと調べた時に見つけた『水利の目印石』のようなものがあったの」
「本当!? それはぜひ調べないとね!」
リーナがパッと目を輝かせ、閉じたばかりの手帳を再び開きかける。アリアがそれを苦笑まじりに眺めてから、周りを見回した。
「フィアとハルが戻ってきたら、みんなで一緒に調べてみましょうか」
「そうね。でも……きっとフィアが戻ってきたら、真っ先に『お腹が空いた〜! お昼ご飯にしようよ〜!』って言いそうだわ」
ミレイアが楽しそうに言うと、アリアも「あははっ! 絶対に言いそうね! まぁ、静に貰ったお弁当を食べてから、ゆっくり調べることにしましょうか」と面白そうに笑い合った。
するとまさにそのタイミングで、草むらががさがさと揺れ、猫耳を揺らしたフィアが姿を現した。背中の小さな翼をパタパタと動かしたハルも、フィアの周りを軽やかに飛んでいる。
「あっちの方には何にもなかったよ〜! ハルと一緒にたくさん走ったら、すっごくお腹が空いちゃった! ねぇねぇ、お昼ご飯にしようよ♪」
フィアが期待に満ちた目で声を弾ませ、ハルも「ひゅん!」と同意するように一鳴きする。アリア、ミレイア、リーナの三人は顔を見合わせて「ほらね」と楽しそうに笑い出した。
「やっぱり言ったわね」としたり顔のアリアに、リーナは「期待を裏切らないわね」と呆れつつも苦笑いし、ミレイアが優しく手招きをした。
「え? え? なになに? フィア、なんか変なこと言った?」
「ふふ、大丈夫よ。静が持たせてくれた温かいお弁当があるわよ」
「やったー! 静のお弁当、すっごく楽しみ♪」
きょとんとしていたフィアは、お弁当の一言ですべてを忘れたようにぴょんと跳ねた。
◆◆◆
一行は少し開けた、木漏れ日の差し込む広場へ移動し、昼食を取ることにした。
柔らかな下草の上に敷布を広げ、それぞれが輪になって腰を下ろす。頭上では葉擦れの音がさやさやと鳴り、どこか遠くで小鳥のさえずりが聞こえていた。
アリアがマジックポーチから竹皮で包まれた静特製のお弁当を取り出し、みんなへと手渡していく。紐をほどいて包みを開くと、竹皮のほのかな青い香りと一緒に、ご飯の甘い匂いがふわりと立ちのぼった。中には具材豊かなおにぎりがぎっしりと詰まっている。
さらにその脇には、幼体たち専用の小さな包みも添えられていた。中には、あかねたちの小さな口でも食べやすい一口サイズのおにぎりセットが綺麗に並べられており、静の細やかな気配りが伺えた。
「あっ! これ肉巻きおにぎりだよ! フィア、これから食べよっと!」
フィアが大きく口を開けてぱくりとかぶりつき、「ん〜〜っ! 美味しいっ!」と頬を落とさんばかりに悶絶する。甘辛いタレが染みたお肉と、ほろりとほどけるご飯の組み合わせに、猫耳までぴこぴこと嬉しそうに揺れていた。
「あら、私のは唐揚げが中に入っているわ。すごくジューシーで美味しいわね」
アリアが嬉しそうに目を細めると、リーナも自分の包みからひとつ口に運んで目を丸くした。
「あら……私のおにぎりには、出汁巻き卵が入っているわね。ご飯とおかずが一緒になっていてすごく食べやすいわ」
「こういうところ、静らしいわよね。外で手が汚れないように、ちゃんと考えてくれているのよ」
アリアがしみじみと言うと、ミレイアも頷きながら自分のおにぎりを上品に口へ運んだ。
「私のは大樹魚の塩焼きかしら? 旨味がご飯に染み込んでいて本当に美味しいわね」
「えっ、ミレイアのお魚なの? いいなぁ〜。ねぇねぇ、フィアのお肉とひと口交換しない?」
「ふふ、いいわよ。はい、どうぞ」
四人は互いのおにぎりを分け合いながら、静の料理の美味しさに舌鼓を打った。
足元では、あかね、ルゥ、ハル、マルたちも、自分たち用に作られた一口大のおにぎりセットを「きゅきゅ♪」「くぅ!」「ひゅん♪」「ぷぷぅー!」と大喜びで夢中になって頬張っていた。
あかねはアリアの膝に前足をかけて、ご飯粒のついた口元を得意げに見せている。ルゥはミレイアの隣で一粒ずつ丁寧に食べ、ハルはフィアの肩口に寄り添って、ときどき分けてもらうお肉の切れ端に尻尾をふさふさと振っていた。
マルは両の頬をまんまるに膨らませたまま、次のおにぎりへと手を伸ばそうとしている。
「ちょっとマル、まだ口の中に入っているでしょう。誰も取らないから、ゆっくり食べなさい」
リーナが呆れたように言いながらも、マルの口元についたご飯粒をそっと指先で拭ってやる。マルは「ぷぅ」と短く鳴いて、ほんの少しだけ食べる速度を落とした。
その様子を見ていたアリアとミレイアが、顔を見合わせて小さく笑う。
木漏れ日が揺れる穏やかな昼下がり。竹皮の包みがひとつ、またひとつと空になっていく中、リーナはときどき、水路のあった方角へちらりと視線を向けていた。その横顔は、午後の調査が待ちきれないと言わんばかりに、ほんのりと楽しげだった。
◆◆◆
同じ頃、フォルツの仮設診療所では、ちょうどお昼時を迎えていた。
診療所の入り口の札を一度『準備中』に返して、セリナとエナ、そしてツキの昼食の時間がやってきた。午前中は途切れることなく患者が訪れていたが、ようやく待合の長椅子にも人影がなくなり、室内にはほっとした静けさが戻っている。
セリナは今朝がた街の人々から頂いた沢山の差し入れの籠へ視線を向け、優しく微笑んだ。籠の中には、朝露の残る葉野菜や根菜、肉屋の主人が「端切れで悪いけどよ」と照れくさそうに置いていった包み、パン屋の女将さんが持たせてくれた紙包みなどが、ぎっしりと詰まっていた。
「せっかく頂いたのですし、お昼ご飯に使わせてもらいましょうか。エナさん、朝採れの野菜と端切れ肉で、炒め物とスープを作りましょう」
「はい、師匠!」
エナは嬉しそうに返事をすると、手際よく新鮮な野菜を水で洗い、端切れ肉を小さく切り分けていく。
「お肉は、火が通りやすいように少し薄めに切ると良いですよ。野菜の芯のところも、細かく刻んでスープに入れてしまいましょうね」
「はい! 捨てちゃうのはもったいないですもんね」
セリナが穏やかに声をかけると、エナは真剣な顔で頷きながら包丁を動かした。小さな手つきはまだぎこちないところもあるが、ひとつひとつの動作が丁寧で、誰かのために料理をすることを心から楽しんでいるのが伝わってくる。
セリナが鍋とフライパンを火にかけると、じゅうっと肉の焼ける音とともに、あっという間に芳醇な香ばしい匂いが診療所に立ち上り始めた。隣の鍋では、野菜の甘みが溶け出したスープがことことと静かに湯気を立てている。
さらにセリナは差し入れの中にあったパンの端切れの包みを手にとると、楽しそうにエナへと話しかけた。
「こちらも使いましょう。静様に教えていただいた、とても美味しい食べ物があるんですよ」
「静さんに教わった食べ物ですか?」
「はい。フレンチトーストというんですよ。少し固くなったパンでも、ふんわり美味しく生まれ変わるんです」
セリナはマジックポーチから、卵と牛乳、そして甘い蜜を取り出した。ボウルで手際よく混ぜ合わせた卵液にパンの端切れをたっぷりと浸していく。
「こうして、パンが卵液をしっかり吸い込むまで待つのがコツなんです。静様は、ここで焦らないことが一番大事だとおっしゃっていました」
そう言って微笑むセリナの頬が、ほんのりと緩んでいた。初めて屋敷の台所でこの料理を教わった日のことを思い出したのか、アメジスト色の瞳がどこか柔らかく細められている。
エナはそんな師匠の横顔を不思議そうに見上げてから、ボウルの中のパンがじんわりと黄色く染まっていく様子を、興味津々で覗き込んだ。
やがて、バターを溶かしたフライパンにパンを並べ、じっくりと焼き上げていく。ふつふつと小さな泡が立ち、ふんわりとした甘い香りが診療所いっぱいに広がった。裏返すと、こんがりと綺麗な焼き色がついたフレンチトーストが姿を現した。
「わぁ……! すごく美味しそうです……!」
エナが目を輝かせると、受付の台の上にいたツキも「にゃにゃ♪」と『早く食べたい!』と言わんばかりに、尻尾をぴんと立ててゆらゆらと揺らした。
出来上がった温かな料理をテーブルに並べる。彩り豊かな野菜と肉の炒め物、湯気の立つ具沢山のスープ、そして甘い香りのフレンチトースト。差し入れの籠ひとつから生まれたとは思えないほど、賑やかな食卓になった。
「午後も無理せず診察ができるように、皆さんのお気持ちをありがたく頂きましょうね」
「はい、師匠! しっかり食べて、午後の診察で皆さんにお返しできるように頑張ります!」
エナはフレンチトーストをひと口頬張ると、「ふわふわで、甘くて……美味しいです……!」と、両手で頬を押さえてうっとりと目を閉じた。セリナはその様子に目を細め、ツキの前にも小さく切り分けたひと切れをそっと置いてやる。
「にゃ!」
ツキはひと口食べて満足そうに鳴くと、今度はエナの方を見上げ、『無理はダメだからね!』と念を押すように短く鳴いて見せた。
「ふふっ、ツキにまで言われちゃいました」
エナがくすぐったそうに笑い、セリナも口元に手を添えて小さく笑った。
街の人々の優しい気持ちが詰まった、美味しく栄養たっぷりの昼食を囲み、二人と一匹は午後の診療に向けて温かな英気を養っていた。




