第十一話 街の温もりと台所の香ばしさ
エナの飛びつきを受け止め、その勢いがようやく落ち着いたところで、セリナは愛弟子の顔を優しく覗き込んだ。
「エナさん、あれからお身体の調子はどうでしたか? 無理はしていませんか?」
「はい! あの後も午前中だけでしたけど、できるだけここでお手伝いをしていました。師匠が留守の間に来てくださっていた教会の方からも、絶対に無理はしないようにって言われていましたので……」
本当ならもっと長い時間いて、たくさんの人を診てあげたかったのだろう。けれど、セリナとの約束をちゃんと守り、大人しく言い付けに従っていたらしい。
言い終えてから、エナはほんの少しだけ口を尖らせた。
「……でも、お昼過ぎに来てくださった方をお断りするのは、ちょっとだけ悔しかったです」
その正直な一言に、セリナはくすりと微笑んだ。
「ふふっ、エナさんは本当に真面目ですね。たくさんの患者さんを診てあげたいというお気持ちは、とてもよく分かりますよ。……でも、ご自身が倒れてしまっては、その後に来る方を診てあげられなくなってしまいますからね。無理は厳禁です」
セリナがエナの頭をそっと撫でながら諭すと、足元のツキも「にゃにゃ!」と、『無理しちゃダメよ!』と言わんばかりに同意の声を上げた。前脚をちょこんと揃えてエナを見上げるその顔は、まるで小さなお目付け役のようだ。
「ツキちゃんにまで言われちゃいました……」
エナは照れくさそうに笑ってから、背筋をぴんと伸ばし、元気よく頷いて見せた。
「はい! 今は無理をしないようにして、これからもっと大勢の方を診てあげられるように頑張ります!」
「はい、良いお返事です」
エナの胸元では、師弟の証として贈られたペンダントが、朝の光を受けて小さくきらめいている。毎日欠かさず身につけてくれているのだと分かって、セリナの胸の奥がほんのりと温かくなった。
「それじゃあ、準備ができたら開院しましょうか。今日は主にエナさんに患者さんを診てもらって、私はそのお手伝いをしますね」
「えっ……私が、ですか?」
一瞬だけ目を丸くしたエナだったが、すぐにその瞳がきらきらと輝きだした。
「はい、師匠! 準備はできていますので、よろしくお願いします!」
エナは礼儀正しく深々とお辞儀をすると、ぱたぱたと軽い足音を立てて、診療所の入り口に掛けられた木札を返しに向かった。
その小さな背中を見送りながら、セリナは口元を緩める。
(師匠……まだ少し、くすぐったいですね)
けれど、そう呼ばれるたびに、背筋がすっと伸びるような、誇らしいような気持ちになるのも本当だった。
セリナは足元で佇むツキへと微笑みかけた。
「さてと、ツキちゃん。エナさんが無理をしないように、一緒に見てあげてくださいね」
ツキは「にゃ」と短く鳴き、任せてと言わんばかりに、お姉ちゃんらしく胸を張ってみせるのだった。
◆◆◆
入り口の札をくるりと返して『診療中』にすると、エナは少しだけ緊張した面持ちで受付の椅子に腰を下ろした。
棚に並んだ薬草の瓶に、洗い立ての布、湯を張った桶。窓から差し込む朝の光の中で、乾かした香草のすっとした香りがほのかに漂っている。
開院直後ということもあり、まだ患者の姿はない。しんと静まり返った診療所に、受付の台の上へひょいと飛び乗ったツキが「にゃ……」と小さく鳴く、可愛らしい声だけが心地よく響いていた。
エナは膝の上できゅっと手を握り、そっと深呼吸をする。すぐ隣に師匠がいてくれる。それだけで心強いはずなのに、今日は自分が主に診るのだと思うと、胸のどきどきがなかなか収まらなかった。
そこへ、トントンと入口の扉を軽やかに叩く音が響いた。
「おはようさん! エナちゃんとセリナ先生が来てるって聞いたからねぇ。朝採れの野菜を持ってきたよ!」
顔を出したのは、セリナが今朝がた通りで会ったあのおばあさんだった。腕には、土のついたままの葉物や艶々と丸い根菜がこんもりと詰まった籠を提げている。そしてそのすぐ後ろには、籠や包みを抱えた近所の世話好きの人たちが、ぞろぞろと何人も並んでいた。
「ばあちゃんが『先生が戻ってきたよ』って、通り中に言って回るもんだからさ」
「うちの店で余った端切れ肉だけど、良かったら使っておくれ!」
「立派な果物だよ。ちょっと熟しかけだけど、そのぶん甘いよ〜」
「パンの端っこだけど、ツキちゃんも好きでしょ?」
名前を呼ばれたツキが、受付の台の上でぴくりと耳を立てる。
次々と受付の台の上へ、温かな差し入れが積み上げられていく。あっという間に、小さな台は野菜と果物とパンの包みでいっぱいになってしまった。自分の座る場所がじわじわと狭くなっていくことに気づいたツキは、「にゃ……」と少しだけ困ったように尻尾を揺らした。
「ありがとうございます! こんなにたくさん……!」
エナは驚きつつも、街の人々の優しさが嬉しくて、満面の笑顔で一つひとつ受け取っていく。
その様子を、セリナは柔らかく目を細めて見守っていた。少し前まで孤児院の子として街の人たちに見守られる側だったエナが、今では「エナちゃんに」と、わざわざ足を運んでもらえるようになっている。
セリナは集まった近所の人々へと声をかけた。
「皆さん、本当にありがとうございます。……ところで、お身体の調子はいかがですか? せっかく来てくださったのですし、少し診てみましょうか?」
「いやいや、先生に診てもらうほどの大層なものじゃ……」
皆そう言って縮こまるものの、よく見ればおじいさんは腰を気にして手を当てており、おばあさんの手元には小さな擦り傷がある。商店の店主に至っては、肩をいかにも痛そうにぐるぐると回していた。
エナはすぐにその異変に気づき、セリナの方へとパッと視線を向けた。セリナは優しく頷いて見せる。
「エナさん。軽い処置ですから魔力もそれほど使いませんし、やってみましょうか。まずは、どこがどう痛むのか、ちゃんとお話を聞いてからですよ」
「はい、師匠!」
エナはおじいさんの前に立つと、少しだけ屈んで目線を合わせた。
「おじいちゃん、腰はいつ頃から痛いですか? 動く時に痛いですか? それとも、じっとしていても痛いですか?」
「ん? ああ……昨日、孫を抱っこしようとしてな。ぐきっときて、それからだよ。座ってる分には平気なんだが、立ち上がる時がどうにもなぁ」
「分かりました。じゃあ、少しだけじっとしていてくださいね」
聞き取りの手順は、セリナに教わったとおりだ。エナは腰のあたりへ優しく手をかざし、小さく息を整えて集中すると、温かな治癒魔法の光を流し込んだ。
淡い光がふわりと広がるのと同時に、エナの胸元のペンダントがかすかに光を帯びる。中央のアメジスト色の結晶が、すうっと細い縦長の瞳の形へと変わっていった。
受付の台の上で、ツキがぱちりと目を瞬かせ、どこか満足そうに「にゃ」と鳴いた。
「おお……っ、腰がすーっと楽になったよ。ありがとうねぇ、エナちゃん」
おじいさんは恐る恐る立ち上がり、腰を軽くひねってみて、驚いたように目を丸くした。
「ふふ、良かったです! でも、治ったばかりなので、今日はお孫さんの抱っこは我慢してくださいね」
「はっはっは、こりゃあ手厳しい先生だ」
周りからどっと笑い声が上がり、エナは頬を赤くしながらも、ちょっぴり誇らしげに胸を張った。
おばあさんの手の擦り傷は、まず綺麗な水で傷口を洗い流してから、小さな光でそっと塞ぐ。店主の固くなった肩には、治癒の光を当てたあと、セリナに教わったとおり温かい布を当てて、ゆっくりとほぐしていく。
「重い荷物を運ぶ時は、左右の肩で交互に担いでくださいね。片方ばかりだと、また固くなっちゃいますから」
「お、おう……気をつけるよ」
店主はまるで自分の娘に叱られたような顔で、大きな身体を縮こまらせた。
セリナはエナの少し後ろに立ち、必要な時にだけそっと言葉を添えた。魔力の流し方が少し強くなった時に「もう少しゆっくりで大丈夫ですよ」と一言かける以外は、ほとんど口を挟むこともない。それだけ、エナの手つきは危なげのないものになっていた。
その様子を、差し入れの山の隙間にちょこんと座り直したツキが、「にゃあ」と満足そうに見守っている。
「おや、ツキちゃんもすっかりこの診療所の看板猫だねぇ」
おばあさんの言葉に、ツキは「にゃ!」と得意げに一声鳴いて、また皆の笑いを誘うのだった。
◆◆◆
一方その頃——静のお屋敷。
新しい『醤』を使った甘味——みたらし団子と二色の大判焼きを作り終えた静は、広々とした台所の片付けをしながら、ふと大樹の北側へ向かったアリアたちのことを思い浮かべていた。
いつもなら、足元で誰かしらが「ごはん?」と見上げてくる時間だ。けれど今日の屋敷はしんとしていて、聞こえるのは洗い終えた器から落ちる水の音と、窓の外で揺れる木々の葉擦れくらいだった。
「そういえば、今日は北側の探索に行っているんだよなぁ……きっと明日も続きを見に行くだろうし、探索のお弁当に使えるおかずでも作ってみようかな」
静は腕を組んでしばらく考え込み、やがてぽんと手を打った。
「この新しい醤って、甘味にも合うけれど、やっぱり旨味がすごく強いからね。ご飯のおかずにも絶対に合うはずだ」
小皿にほんの少しだけ醤を垂らし、指先につけて舐めてみる。舌の上でじんわりと旨味が広がり、鼻へ抜ける香りも深い。甘味に使った時とはまた違う顔が見えるようで、静は思わず口元を緩めた。
「うん……やっぱり、これは焼いたら化けるやつだ」
そう呟くと、静は炊いて取っておいたご飯のことを思い出し、自然と手が動き始めた。
まずはおにぎりを、ふっくらと丸く握る。焼いている途中で崩れないよう、いつもより少しだけしっかりめに。網の上で表面を軽く焼き固めてから、新しい『醤』と濃厚なバターを合わせた特製のだれを、刷毛でたっぷりと塗っていく。
だれが網の下へ落ちるたび、じゅっ、と小さな音が弾けた。醤の焦げる香ばしさとバターの甘い香りが混ざり合い、たちまち台所いっぱいに広がっていく。
「うわぁ……これは絶対に美味しいな……」
裏返してもう一度塗り、また焼く。それを何度か繰り返すうちに、表面にはつやつやとした濃い焼き色がついていった。
外はかりっと、中はふんわり。一口かじれば香ばしさが弾ける『醤バター焼きおにぎり』の完成だ。
「冷めても美味しく食べられるように、お弁当の分はタレを少し控えめにしておこうかな」
次に静が取り出したのは、新鮮な鶏肉だった。フライパンで皮目をじっくりと焼き、染み出した余分な脂を拭き取りながら、パリッと仕上げていく。そこへ『醤』と甘い蜜、柑橘の香草を合わせた特製の照り焼きだれを回しかけた。
ジューッと甘じょっぱい濃厚な香りが立ち上り、だれがふつふつと泡立ちながら煮詰まっていく。フライパンを揺すってだれを絡めるたびに、照りのついたお肉が艶やかに光る。柑橘の香草がふわりと爽やかに香り、濃い味付けなのに後味は意外なほど軽い。
「パンにもご飯にも合いそうだなぁ。アリアたち、こういう濃いめの味付け、すごく好きだよね」
特にアリアは、お肉と見れば真っ先に手を伸ばすに違いない。
手際よく切り分けて、『醤の照り焼き肉』を皿へと盛り付ける。端の切れ端をつまんで味見をすると、甘さと塩気と香草の爽やかさが、ちょうどいい具合にまとまっていた。
最後に静はボウルに卵を溶きほぐし、出汁と『醤』をほんのひと垂らしだけ加えた。フライパンに薄く卵液を流し、焼けたそばからくるくると巻いては、また卵液を流していく。
ふんわりと焼き上がった黄色い出汁巻き卵から、甘じょっぱい香ばしい湯気が立ち上る。静は箸で端っこを少し切り取り、ひょいと口へ運んだ。
「……うん、これもすごく美味しい。せっかくだし、みんなの明日のお昼用にもたくさん作っておこうか」
静は満足そうに頷き、調理台の上にずらりと並んだ香ばしいおかずと焼きおにぎりを見つめた。
帰ってきたアリアたちが、この匂いに気づいて台所を覗き込む顔が目に浮かぶようで、静はくすりと笑う。フィアあたりは、きっと「味見させて!」と真っ先に飛び込んでくるだろう。
「アリアたち、喜んでくれるといいなぁ……」
誰もいない静かな屋敷の台所で、新しい『醤』の芳醇な香りと、みんなを想いながら並べた料理の温かな湯気がゆっくりと満ちていく。




