第十話 黒い麦穂と笑顔の再会
風にそよぐ葉擦れの音が、耳に心地よく響く。
大樹の北側に広がる一帯は、見上げるほどの木々がほどよい間隔で立ち並び、枝葉の隙間から木漏れ日が降り注ぐ。湿った土と若葉の青い香りが混ざり合い、深く息を吸い込むだけで胸の奥まで澄んでいくような空気。
アリアたちはその緑豊かな木漏れ日の下を、順調に進んでいた。
先頭を行くのは、猫耳をぴこんと立てて身軽に跳ね回るフィアと、その肩のあたりを背中の小さなもふもふの翼でふわりと舞うハル。
その少し後ろを周囲の警戒を怠らないアリアが歩き、足元では嬉しそうに尻尾を振るあかねが、ちょこちょこと小さな歩幅でついていく。さらに少し離れた後ろからは、風を感じるように歩くミレイアと腕の中のルゥ、そして手帳を手にしたリーナと、その足元を歩きながら時折「ぽむぽむ」と地面を叩いているマルが続いていた。
「このあたりは日当たりも良いし、すごく気持ちが良いわね」
ミレイアが周囲の樹木を見上げながら微笑むと、腕の中のルゥが「くぅ!」と甘えるように鼻を鳴らした。垂れた長い耳が、ミレイアの腕の上でふわりと揺れる。
「本当ね。風の通りも良いし、湿気もこもっていない。……マル、さっきから何を叩いているの?」
リーナが足元を見下ろすと、マルは「ぷぅ」と一声鳴いて、また小さな前足で地面をぽむぽむと叩いた。どうやら、このあたりの土の具合がお気に召したらしい。
「ふふ、土が良いってことかしら。マルがそう言うなら間違いないわね」
リーナが肩をすくめて手帳に小さく書き留めると、マルは誇らしげに胸を張って「ぷぷぅー」と鳴いた。
道中、幾度か珍しいハーブや甘い香りの果実、熟した木の実などを見つけたものの、市場や露店でも手に入るようなありふれたものがほとんどだった。
それでも幼体たちにとっては、みんなで歩くこと自体が嬉しいお散歩。ハルは木の実を見つけるたびにフィアの周りをくるくると回り、あかねは落ち葉の山に鼻先を突っ込んでは小さなくしゃみをして、皆の笑いを誘っている。どこを切り取っても、楽しそうな光景だった。
そんな中、少し先を進んでいたフィアが、ふと足を止めた。猫耳がぴくりと動き、目を細めて遠くの茂みを見つめる。
「あれ? ねぇねぇ、ミレイア。あっちの方に茂ってるのって……全体的に黒っぽいけど、なんだか麦みたいじゃない?」
「え? あのあたりかしら?」
ミレイアが指差された方角へ視線を向ける。少し距離があるためはっきりとは見えないが、青々とした草むらの中で、そこだけが黒褐色に鈍く輝く、独特の麦穂のように見えた。
腕の中のルゥも、くんくんと小さな鼻を鳴らし、風に乗って届く匂いを探るような仕草を見せる。
その会話を聞いていたハルが、一足先に背中の翼をパタパタと動かし、「ひゅん♪」と風を切って黒い麦穂の群生へと飛んでいった。
「あっ、ハル! ズルい、待ってよー!」
フィアが声を弾ませながら、ハルの後を追って楽しそうに走り出す。その足取りは、探索中の斥候とは思えないほど軽やかに弾んでいた。
それを見たマルも「ぷぷぅー!」と負けじと声を上げ、短い手足を一生懸命に動かしてフィアたちの後を追おうとした。だが、丸々とした体型と短い足では、どうしてもスピードが出ない。
置いていかれそうになって必死にぽてぽてと走るマルの姿に、後ろを歩いていたリーナは思わず苦笑いを浮かべた。
「マル、そんなに慌てなくても、ちゃんと連れて行ってあげるわよ」
リーナが屈み込んでマルを優しく抱き上げると、マルは嬉しそうに「ぷぅ♪」と胸を張り、リーナの胸元で満足げにおとなしくなった。ふかふかの頬を腕にすり寄せてくる様子に、リーナは「まったく……」と呆れたように呟きながらも、その口元は緩んでいる。
「もう……ここはまだ静の支配エリアの中だから安全だけど、何があるか分からないんだから。ちゃんと周囲を確認しながら進まないとダメよ」
アリアも苦笑しつつ、足元にいたあかねをそっと抱き上げ、皆の後を追って足早に歩みを進めた。あかねはアリアの腕の中で「きゅきゅ♪」と嬉しそうに尻尾を振っている。
「あかねも一緒に走りたかった? ……ふふ、また今度ね」
「きゅ!」
元気の良い返事に、アリアの表情も自然と和らいだ。
◆◆◆
辿り着いたのは一面に黒褐色の麦穂がびっしりと生い茂る、不思議な一角。
背丈はちょうどフィアの胸元ほど。すらりと伸びた茎の先で、実をぎっしりと詰めた穂が重たげに頭を垂れている。風が吹くたびに黒い麦穂が波のようにさざめき、日の光を受けた穂先が、磨いた黒檀のようにつややかに光った。どこか香ばしい、炒った豆にも似た独特の香りがふわりと漂ってくる。
先に着いていたハルは麦穂の間を縫うように低く飛び回り、フィアはその穂先を指で弾いては「ねぇ見て見て、中までぎっしりだよ!」と目を丸くしていた。
アリアは抱きかかえていたあかねを足元へ下ろし、黒い麦穂を一茎つまみ上げてじっくりと観察した。指先でそっと穂をほぐすと、ころりとした黒い粒がいくつも手のひらに転がり出てくる。
「ねぇ、私が農業に詳しくないからかもしれないけれど……こんな色の麦って、あったかしら?」
ミレイアも近づき、淡いサファイア色の瞳を細めて首を傾げた。
「ん〜……少なくとも私が知る限りでは見たことがないわね。エルフの森の畑にも、こういう色の作物はなかったわ。……リーナはどうかしら?」
抱っこしていたマルをそっと地面に下ろしたリーナが、手帳をめくりながら考え込む。
「私も実物を見たのは初めてね。ただ……昔読んだ古代の農業に関する古書の中に、これとよく似た記述があったような気がするわ。確か『黒色大麦』とか、そんな名前だったかしら」
「黒色大麦……?」
「ええ。かなり古い時代の記録だったから、今ではもう失われた品種なのかもしれないけれど……まさか実物を目にする日が来るなんてね」
リーナは手のひらに受け取った黒い粒を光にかざし、じっと見つめた。その横顔には純粋な興味が色濃く浮かんでいる。
足元ではマルが麦穂の根元の土を前足でぽむぽむと叩き、あかねは落ちていた穂先の匂いをくんくんと嗅いでいた。
その話を聞いて、横から覗き込んでいたフィアが目を輝かせて言った。
「色は黒いけれど、食べられるかなぁ♪」
何でも『美味しいかどうか』で捉えるフィアの無邪気な発言に、アリアは思わずくすりと笑みをこぼした。
「ただ色が黒いだけの珍しい品種かもしれないし……いくつか刈り取って持ち帰って、静に見せてみましょうか」
「そうね。静なら、知らなかったとしても何とかしてしまいそうだものね」
リーナが手帳に『黒い麦穂の群生地』と書き込みながら応じると、フィアがうんうんと力強く頷いた。
「うんうん! 絶対に何か美味しい食べ物を作ってくれると思うな♪ パンかな? それとも、お粥みたいなのかな?」
「ひゅん、ひゅん♪」
フィアの肩に舞い戻ったハルも、同意するようにふさふさの尻尾を揺らす。
「ふふっ、静ならやりそうね。またあの広い台所で、楽しそうに料理を始める姿が目に浮かぶわ」
ミレイアも上品に口元を押さえて微笑んだ。
きっと静はこの黒い粒を見て少しだけ首を傾げ、それから「とりあえず炊いてみようか」とでも言うのだろう。そうして気づけば、湯気の立つ見たこともない料理が食卓に並んでいるのだ。
静のどこまでも温かな日常に慣れきった四人は、同じ光景を思い浮かべたのか、顔を見合わせて楽しそうに笑い合うのだった。
ふと、ミレイアが周囲の地形を見回し、少しだけ表情を引き締めた。
「それにしても……この麦穂、自然に群生したというよりは、整然と並んでいるように見えるわね。もしかしたら大昔に、誰かがここで耕していたのかしら?」
言われて見渡してみれば、確かに麦穂はいびつな広がり方をしておらず、ある一定の区画の中にだけ、まるで畝に沿うように真っすぐな列を成して生えている。その外側には、ただの下草と木々が広がるばかりだった。
「そうね。周りには草木しか見当たらないけれど、少し調べてみましょうか」
アリアの提案に、リーナも同意して頷く。
「大樹にあの祠があったくらいだものね。もしかすると、この近くにも古い遺構や遺跡のようなものが眠っているかもしれないわ」
「探索なら私の得意分野だから任せて! 行こう、ハル!」
「ひゅん!」
ハルが小さな背中の翼をパタパタさせて、フィアとともに元気いっぱいに周囲の索敵へと駆け出していく。
「ちょっと、フィア! 遠くへ行きすぎないように気をつけるのよ!」
「はーい♪」
遠ざかっていくフィアの明るい返事に、ミレイアは「フィアは相変わらず元気が良いわね」と優しく目を細めた。
「それじゃあ、私たちはこの周辺の地面や植物を詳しく調べましょうか」
アリア、ミレイア、リーナの三人は、あかね、ルゥ、マルたち幼体組と一緒に、黒い麦穂が茂る周辺の調査を丁寧に進め始める。
アリアは群生の縁を歩いて区画の広さを確かめ、ミレイアは麦穂の根元にしゃがみ込んで土の湿り気を指先で探る。リーナは手帳に簡単な見取り図を描き込みながら、ときおり足元のマルが叩く地面へと視線を落とした。
穏やかな木漏れ日の下、黒い麦穂がさわさわと揺れる音だけが、辺りを優しく満たしていた。
◆◆◆
その頃——フォルツの仮設診療所。
静のお屋敷から転移で街へと降り立ったセリナとツキは、静と別れた後、見慣れた診療所の前へと進む。
扉の脇には街の人々が置いていったらしい野菜の籠や布包みがいくつも並んでいる。セリナはそれを見て小さく微笑むと、診療所の扉をそっと押し開いた。
中には薬草を煎じた香りがほのかに漂い、きれいに拭き清められた寝台と、整然と並べられた薬瓶の棚が目に入る。まだ患者の姿はなく、朝の診療所は穏やかな空気に包まれていた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
セリナが奥の部屋へ向けて、優しく声をかける。
その足元でもツキが「にゃにゃ」と、存在を知らせるように愛らしく鳴いた。
その直後、診療所の奥からガタンッ! と、椅子が倒れるような賑やかな音が響いた。
「し、師匠ーーっ!? 来てくださったんですか!?」
ぱたぱたと慌ただしい足音と共に飛び出してきたのは、栗色の髪を揺らしたエナだった。胸元には師弟の証である魔力結晶のペンダントが、駆ける勢いに合わせてきらりと跳ねている。
勢い余って駆け寄ってきたエナは、そのままセリナの腰へと思いきり抱きついた。
「ふふっ、エナさん。おはようございます。今日はお手伝いに来ましたよ」
セリナは少しよろめきながらもエナを優しく受け止め、まるで本当の妹を抱きしめるように、その小さな背中にそっと手を回して穏やかな笑顔を浮かべた。
エナはセリナの胸元から顔を上げ、花が咲いたような満面の笑みを弾けさせる。
「おはようございます、師匠! 来てくれてすごく嬉しいです! ……あっ、さっきの音は、その……びっくりして、椅子を倒しちゃいました」
照れくさそうに頬を掻くエナに、セリナは「まあ。怪我はありませんでしたか?」と心配そうに尋ねる。エナが「大丈夫です!」と元気よく胸を張ると、セリナは安心したように目元を和らげた。
「にゃ」
セリナの足元ではツキが『私もここに居るわよ』と言わんばかりに、すっと胸を張って一声鳴いた。
それに気づいたエナはパッと目を輝かせ、しゃがみ込んでツキの頭を撫でる。
「ツキちゃんも来てくれてありがとうね! 今日もよろしくね!」
ツキは気持ちよさそうに目を細め、エナの手のひらへ「にゃぁ」と喉を鳴らしながら頭を擦り寄せた。
その拍子にエナの胸元のペンダントがツキの鼻先で小さく揺れる。ツキはそれを一瞬だけじっと見つめると、どこか満足げに、もう一度「にゃ」と短く鳴いた。
セリナはその微笑ましい一人と一匹のやり取りを、心から嬉しそうに目を細めて見守っていた。




