第九話 温かな診療所と二色のひらめき
フォルツの中心から少し外れた広場の一角。いつもの仮設診療所の前に、静とセリナ、そしてツキはやってきた。
朝の広場にはまだ少しひんやりとした空気が残っていて、どこかの家の窓から、焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。水桶を運ぶ人、店の軒先を掃く人。いつもと変わらない、穏やかな街の朝だ。
診療所の入り口に下げられた木札には、丁寧な文字で『本日の対応者:エナ(午前のみ)』と書かれていた。
一文字ずつ、ゆっくりと気持ちを込めて書いたのだろう。少しだけ大きさの揃わない、けれどまっすぐな文字だった。
静はそれを見て、ふわりと目を細めた。
「うん、やっぱりエナは良い子だね。あれからも毎日、こうしてお手伝いに来ているみたいだよ」
「はい、エナさんはとても真面目で、頑張り屋さんですからね。……ただ、少し頑張りすぎて無理をしていないかが、心配でもありますが」
セリナは木札の文字をそっと指先でなぞりながら、小さく息をついた。愛弟子を誇らしく思う気持ちと、身体を壊さないかと案じる気持ち。その両方が入り混じった、どこか複雑で、それでいて温かな表情だった。
静の肩の上からセリナの足元へと身軽に飛び降りたツキも、「にゃにゃ」と耳を少し伏せて鳴いている。まるで、小さな妹分のことを心配しているかのように。
そこへ、診療所の前の通りを歩いてきた近所のおばあちゃんが、二人(と一匹)の姿に気づいてパッと顔を輝かせた。腕にはまだ土のついた野菜が入った籠が提げられている。
「あら、先生じゃないの!今日は先生も診療をしてくださるのかい?」
「はい、おばあちゃん。今日はエナさんのお手伝いをしようと思って来ました」
セリナが優しく微笑みかけると、おばあちゃんは嬉しそうに目を細め、皺だらけの手でセリナの手をぽんぽんと包み込んだ。
「まぁまぁ、そうかい!それは心強いねぇ。エナちゃんもね、毎日ほんとによくやってくれてるんだよ。この前なんか、あたしの膝の具合までちゃんと覚えててくれてねぇ」
「まあ……エナさんが」
「そうさ。『師匠に教わった通りにやってるだけです』なんて言ってね。可愛いったらないよ」
おばあちゃんは思い出したようにころころと笑うと、籠を持ち直した。
「じゃあ後で、みんなで食べられるようにお昼ご飯でも差し入れに持って来ようかしらね」
「まあ、お気遣いありがとうございます」
セリナやエナのことを、まるで実の孫のように可愛がってくれているおばあちゃんだ。セリナは断るよりも、その気持ちを受け取ることを選んで、感謝を込めて丁寧に頭を下げた。
横で聞いていた静も、どこか和やかな心地になりながら、小さく苦笑いを浮かべる。
(フォルツの年配の人たちはみんな親切だから……今日もまたお昼には、食べきれないほどの差し入れが集まりそうだなぁ)
以前も気づけば診療所の机の上が差し入れの山で埋まってしまい、孤児院へお裾分けに運んだことがあった。今日もきっと、同じような光景になるのだろう。
「それじゃあね、先生。エナちゃんにもよろしく言っといておくれ」
「はい。ありがとうございます」
手を振りながら遠ざかっていくおばあちゃんの背中を見送ってから、静はセリナへと視線を向けた。
「それじゃあセリナ、俺はこの辺で一旦お屋敷に戻るね。本当はお昼のお弁当を持って来ようかと思っていたけれど……あの様子じゃ、心配なさそうだね」
「ふふ、そうですね。おばあちゃんたちのお気持ちもありますし……それに、私のマジックポーチにもちゃんと食事が入っていますから。大丈夫ですよ」
セリナはそう言って、腰に下げたマジックポーチをそっと手で押さえてみせた。
「了解。もし何か必要なものができたら、連絡板で教えてくれればすぐに持って来るからね」
「はい、ありがとうございます。静様」
静はしゃがみ込むと、足元で凛と佇むツキの頭を優しく撫でてやった。ツキは気持ちよさそうに目を細め、静の手のひらにすり、と額を押し当てる。
「じゃあツキ。セリナとエナのこと、頼んだよ」
「にゃ!」
頼りにされたのがよほど嬉しかったのか、ツキは胸を張るようにして、頼もしく一声鳴いてみせた。尻尾までぴんと立てたその姿に、静とセリナは顔を見合わせて小さく笑う。
診療所の中から、ぱたぱたと小さな足音と、薬草の瓶を並べるような軽やかな音が聞こえてきた。どうやらエナはもう準備を始めているらしい。
「それじゃあ、行ってくるね」
「はい。お気をつけて」
セリナとツキの見送りを受けながら、静は広場の端の建物の陰になった人通りのない路地へと足を向けた。周りに誰もいないことを確かめてから、右手を軽くかざす。
空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれ――静の姿は住み慣れたお屋敷へと転移していった。
◆◆◆
光の粒子が静かに収束し、お屋敷のリビングへ戻ってきた静は、そのまま足早にキッチンへと向かった。
アリアたちは大樹の根元へ送り届けたばかりで、セリナとツキも今しがたフォルツへ送ってきた。今、このお屋敷にいるのは静ひとりだけだ。
誰の気配もないキッチンには窓から初夏の柔らかな日差しが差し込み、しんとした静寂が広がっている。磨き上げられた調理台の上で光が小さく揺れていた。
静は棚の奥から、ひとつの小さな壺を取り出した。
先日のセレニアでドワーフの職人バルドランから渡された新しい『醤』だ。
そっと蓋を開けると、ふわりと香ばしく深い発酵の香りが立ちのぼり、静は思わず目を細めた。以前のものよりも、どこか丸みがあって奥行きのある香り。小さじの先にほんの少しだけ取って舐めてみると、しっかりとした塩気のあとに、豆の甘みがじんわりと追いかけてくる。
「うん……やっぱり、バルドランさんの醤は美味しいなぁ」
醤キャラメルの焼き菓子やプリンを作ったときも、甘さと塩気の組み合わせにみんな驚いてくれた。この新しい醤なら、また違う美味しさになるかもしれない。
「さてと……この『醤』を使って、何か美味しいデザートでも作ってみようかなぁ」
誰もいない空間だからか、静は自然と独り言を口にしていた。その表情はどこか楽しげで、まるで子供が自分だけの秘密の遊びを始める時のように、わくわくと輝いている。
まずは下準備にと、静は何もない空間から団子用の粉を取り出し、ボウルに入れた。少しずつ水を加えながら、指先で丁寧に捏ねていく。耳たぶくらいの柔らかさになったところで、手のひらでころころと小さく丸め始めた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
均等な大きさの白い団子が、まな板の上に行儀よく並んでいく。
「醤入りのみたらし団子……うん、これは絶対に美味しいよね」
丸めた団子を、ぐらぐらと沸いた鍋の湯にそっと落としていく。最初は鍋の底に沈んでいた団子が、しばらくするとぷかり、ぷかりと浮かび上がってきた。静は浮いてきたものから順に網じゃくしですくい上げ、冷たい水へと移していく。つるんとした白い肌が、水の中でつややかに光った。
続いて、小鍋に砂糖と出汁、そして『醤』をひと垂らし。火にかけてゆっくりと混ぜ、ふつふつと煮立ってきたところで、水で溶いたとろみ粉を少しずつ回し入れる。
木べらで混ぜるたびに、たれは透き通った琥珀色へと変わり、とろりとした照りをまとっていった。甘さの奥に、コクと旨味が隠れた独特の香ばしい匂いが、キッチンいっぱいに立ち上ってくる。
「うん、いい感じだ」
水気を切った団子を串に刺し、網の上で軽く炙る。表面にうっすらと焼き色がついたところで、たっぷりとたれを絡めた。
試しに一本、ぱくりと頬張ってみる。
もちもちとした団子の食感と、香ばしい焦げ目。そして、甘じょっぱいたれの奥から、醤の深い旨味がふわりと広がった。
「……ん、美味しい」
思わず頬がゆるむ。いつもの醤油とは違う、どこか豊かで丸い味わいだ。これならきっと、みんなにも喜んでもらえるだろう。
「よし。次は……」
静はボウルに新鮮な卵と牛乳、砂糖を合わせ、そこに少しだけ粉をふるい入れて、よく混ぜ合わせた。それを小鍋に移して火にかけ、焦げつかないよう木べらで鍋底からじっくりと練り上げていく。
最初はさらさらとしていた液体が、少しずつ重たくなり、やがてもったりとした、なめらかな黄色いクリームへと変わっていく。
カスタードクリーム
ここにも隠し味として、新しい『醤』をほんの少しだけ加える。
甘い香りの中に、ほのかな香ばしさがすっと溶け込んだ。
「醤入りのカスタードクリーム。これならセレニアで食べた甘味包みにも合いそうだなぁ。果樹園の旬の果物もあるし……」
木べらで滑らかなカスタードをゆっくりと練り混ぜながら、静の頭にふと、別の魅力的な案がひらめいた。
「そうだ、このあとあんこも作る予定だし……『大判焼き』みたいなのも良いかもしれないな」
口にしてから、静は棚に並ぶ調理器具を見回し、思わず苦笑いを浮かべた。
「……あ、大判焼きの型、持ってないんだった」
日本にいた頃、大判焼きはいつも、駅前の小さな屋台で買うものだった。紙袋越しに伝わってくる、あの温かさ。帰り道にそっと袋を開けて、ひとつだけ先にかじるのが、ささやかな楽しみだったことを思い出す。
けれど型そのものを買ったことは一度もない。だから、屋敷の力で同じものを取り寄せることもできないのだ。
最初から分かっていたはずなのに、カスタードを作っているうちにすっかり夢中になって、忘れていたらしい。
「うーん、どうしようかな……」
静は顎に手を当てて少し考えたあと、棚の中から四角い形をした、卵焼き用の小さなフライパンを取り出した。それを手に取った途端、楽しそうに目を細める。
「まぁ、いっか。これで大きめの四角い形で作っちゃおう。むしろ大きく作るからこそ、『大判焼き』って感じで面白いかもしれないな」
フライパンを調理台に置いたところで、静の頭の中で、さらに新しい遊び心が弾けた。
「……あ、そうだ!カスタードとあんこを、同じ生地の別々の場所に入れたらどうだろう?」
自分で言いながら、静は思わず「ふふっ」と声を漏らした。
「右側を食べたらカスタードで、左側を食べたらあんこ……食べる場所によって味が変わるなんて、絶対に楽しいよね」
二層に重ねるのではなく、左右で違う味が入っている――そんな遊び心あふれる大判焼きの完成図が、頭の中で鮮やかに形作られていく。
みんなはどちら側から食べるだろう。アリアやフィアは、きっと迷わず大きくかぶりつく。ミレイアとリーナは、切り分けて両方を比べてみるかもしれない。セリナは……どちらから食べようか迷って、困ったように微笑む姿が目に浮かぶようだった。
「よし、それじゃああんこも作ろう!」
静は出来上がったカスタードの鍋を火から下ろし、平らなバットに薄く広げて粗熱を取った。表面が乾かないよう布をかけ、少し落ち着いたところで、そのまま空間の収納へと納める。
それから新しい鍋を取り出して、小豆を煮始めた。
たっぷりの水で小豆を煮立て、一度茹でこぼして渋を抜く。もう一度水を張り直して、今度は弱めの火でことことと、豆が指で潰れるほど柔らかくなるまで、じっくりと時間をかけて煮ていく。
鍋の中で小豆が静かに揺れるのを眺めながら、静は小さく鼻歌を口ずさんだ。
こういう、ただ待つだけの時間も嫌いじゃない。
柔らかくなった小豆に砂糖を数回に分けて加え、焦がさないように木べらでゆっくりと練っていく。とろりとしていた煮汁が少しずつ減り、艶やかな紫がかった小豆色のあんが、木べらの跡を残すようになってきた。
そして最後は塩の代わりに、新しい『醤』をほんのひと垂らし。
木べらの先で少しだけすくって味を見ると、甘さの輪郭がきゅっと引き締まり、奥のほうに、ほんのりと香ばしいコクが残った。
「醤入りのあんこ……これが片側に入って、もう片側にはカスタード……うん、絶対に美味しいよ、これ」
想像しただけで胸が弾み、作業を進める静の手は、いっそう軽やかになっていく。
「よし決まり! 『二色大判焼き』を作ってみよう!」
誰もいない静かなキッチンに、新しい『醤』の香ばしさと、甘く幸福な匂いが、ゆっくりと満ちていく。
窓の外では初夏の日差しが庭の緑をきらきらと照らしていた。




