第六話 商人リシェルと頑固職人の工房
レナードが王都へ到着した日から数日後。
商人たちが多く集うセレニアの街道に、リシェルが率いる商団の長い荷馬車列がゆっくりと姿を見せた。
街の賑やかな喧騒の中を通り抜け、荷馬車列は目的の宿へと向かって進んでいく。その宿は荷馬車を停めやすい広い裏庭と、商人向けの頑丈で大きな倉庫を備えた、リシェルの商団にとって長年馴染み深い定宿だった。
無事に敷地内へ馬車を収めると、リシェルは副団長へ声をかける。副団長を務めるブレッドは、リシェルの父の代から商団を陰で支え続けてきた、経験豊富な古参の男だ。
「ブレッド、明日から本格的に商談を始めます。荷馬車の点検、荷物の整理、それから帳簿と試供品の準備をお願いしますね。それが終わり次第、今日は全員しっかり休んで英気を養ってください」
そう言ってリシェルは、長旅を労う臨時給金の入った袋をブレッドへと手渡した。
ブレッドは袋の重みを確かめると、目元を和ませて嬉しそうに頷いた。
「団長、ありがたい。みんなにもすぐ伝えますよ。長旅で、みんな身体が固まっていましたからね」
彼が手際よく仲間たちへ指示を出し始めると、裏庭には旅の疲れを癒やすための賑やかな声が広がっていくのだった。
◆◆◆
そして翌朝
澄み切った朝の光がセレニアの街並みを照らす中、リシェルは今回の滞在における最大の目的のひとつを果たすため、ドワーフの職人通りへと足を向けた。
フォルツの領主であるフォルティナから直々に依頼された特別な調味料――『醤』を仕入れるためである。
通り沿いに立ち並ぶ露店を眺め、今回の取引に使えそうな品々の市況を確かめつつ歩みを進めると、やがて見覚えのある重厚な木造の工房が見えてきた。軒先には、壺と槌を組み合わせた素朴な看板が下がっている。
(……ここへ来るのは、冬以来ですね)
あの時、リシェルはセレニアで見かけた不思議な一団の足取りを追い、この工房の老職人に彼らのことを尋ねた。そして返ってきたのは、取り付く島もない一言だけだった。
――客のことは言わん。
懐の紹介状に記された宛名は『バルドラン殿』。
セレニアで商いをする者なら、一度は耳にする名である。連邦最高の鍛冶匠と同じ名を持つ職人が、なぜ醤を仕込んでいるのか。
(……同じ名の職人がいても、おかしくはありません。断定は、しないでおきましょう)
リシェルは小さく息を整え、工房の扉をくぐった。
店内には、様々な発酵の芳醇な香りが漂っていた。リシェルはカウンターにいた若手の店員へと穏やかに声をかける。
「すみません。行商を行っているリシェルと申します。フォルツの領主、フォルティナ様からの紹介状をお持ちしましたので、バルドラン様にお取り次ぎいただけますか?」
「フォルツの……あっ、はい! 親方から伺ってます! 少々お待ちください、すぐに呼んでまいります!」
店員が奥の工房へと走っていく背中を見送りながら、リシェルはわずかに目を細めた。
(伺っている……? 紹介状は今ここで初めてお渡しするものですが)
間もなくして、奥からドシンドシンと重い足音が響いてきた。
現れたのは、白い顎鬚をたくわえた、がっしりとした体格の老ドワーフだった。腕を組んだまま、その鋭い眼差しがリシェルの顔でぴたりと止まる。
「……ん? お前さん、冬に来た商人じゃねぇか」
「はい。その節は、大変失礼をいたしました」
リシェルが深く頭を下げると、老職人――バルドランは無言のまま紹介状を受け取った。羊皮紙にざっと視線を走らせ、ふん、と鼻を鳴らす。
「……なるほどな。あの嬢ちゃんが話してた商人ってのは、お前さんのことだったか」
(……『話していた』?)
柔らかな笑みを崩さないまま、リシェルは内心でその言葉を反芻した。
「客のことを嗅ぎ回る奴は好かん。……が、あの嬢ちゃんが『信の置ける人です』と書いてよこしたんだ。なら、商いの話くらいは聞いてやる」
「ありがとうございます。改めまして、リシェルと申します。今回はフォルティナ様よりご縁をいただき、こちらで仕込まれている醤を買い付けさせていただきたく参りました」
「おう。で、どんなものが欲しいんだ? あの嬢ちゃんはこの間、そのあたりの基本の醤を買っていったが、違うものが良いのか?」
(……この間。フォルティナ様が、ここで?)
リシェルの頭の中で、手持ちの情報が静かに並べ直されていく。
懐の紹介状はフォルツを発つ直前、領主館で直々に手渡されたものだ。あれから荷馬車に揺られること十日あまり。その間、フォルツとセレニアを結ぶ街道を、領主の一行が追い越していったという話は聞いていない。
「……失礼ですが、『この間』と申しますと?」
「ん? 五、六日前だったか。連れと一緒に、ふらっと顔を出していったぞ」
(五、六日前……)
リシェルが商団を率いてフォルツを発った時、フォルティナは確かに領主館にいた。そこからセレニアへ来て、またフォルツへ戻る。往復で二十日以上はかかって当然の道のりだ。領主がこれほど短期間で遠方の街を行き来すれば、街道のどこかで必ず噂にもなる。
計算が、どうやっても合わない。
「ええ。基本的な種類のものを中心に、少し癖のある深い味わいのものも併せていただければと思っております」
努めて自然な声で答えると、バルドランは顎鬚を撫でながら棚の壺を眺めた。
「そうか……なら、あのあんちゃんとエルフの嬢ちゃんは、こっちのコクが強いのも気に入ってたな」
(あんちゃん……エルフの、嬢ちゃん……)
フォルティナのそばに控えるエルフといえば――。
一瞬、ひとりの人物の顔が浮かびかけ、リシェルはそっとその思考に蓋をした。
(……いいえ。推測で線を引くのは、私の役目ではありません)
バルドランはリシェルの内心など気に留める様子もなく、別の棚の壺を太い指で示した。
「あとは……フレンツだったか。領主館の料理長が気に入ってるって聞いたのが、その熟成させた醤だな。肉料理によく合うと、えらく褒めてたらしいぜ」
(フレンツさんのお好みまで……)
領主館の料理長の名も、その舌の好みも、紹介状には一行も書かれていないはずだった。目の前の職人は、それを『直接聞いた話』として、ごく当たり前のように口にしている。
手元の情報と目の前の事実が、どうにも噛み合わない。
それでもリシェルは、長年の行商で鍛え上げた商人の顔を一切崩さなかった。
「では、バルドランさんがお勧めしてくださったそちらの品々も、ぜひ必要な量を分けていただけますでしょうか」
「おう、分かった。味の分かる奴が増えるのは、悪い気はしねぇからな」
バルドランは上機嫌に頷き、手際よく仕入れの帳簿へと記入を進めていく。
リシェルはその横顔をしばし見つめ、ほんの少しだけ――商人としての一線の、半歩手前まで踏み込んでみることにした。
「……ところで、先ほどおっしゃった『あんちゃん』というのは――」
「言わんぞ」
羽ペンを動かす手を止めることなく、バルドランはぴしゃりと言い切った。
「あの嬢ちゃんの頼みだから商いはする。だが、客のことは言わん。冬にも言ったはずだ」
「……ふふ。失礼いたしました。確かに、そう伺いましたね」
あまりにも変わらないその頑固さに、リシェルは思わず小さく笑みをこぼした。
――とはいえ、ここまでの会話で十分に『言って』しまっていることに、この職人は気づいていないらしい。
帳簿を書き終えたバルドランは、ふと思い出したように奥の棚へ手を伸ばすと、布で口を縛った小さな壺をひとつ、カウンターにどんと置いた。
「ついでだ。こいつを嬢ちゃんに渡しといてくれ。新しく仕込んだ試しの品だ。感想を聞かせろと伝えとけ」
「承りました。必ずお届けいたします」
「おう。荷物は後でうちの若いもんに、お前さんの宿まで運ばせる。……あの嬢ちゃんや、あんちゃん達にもよろしく言っといてくれ」
「お気遣い感謝いたします。今後とも、どうぞ長いお付き合いをよろしくお願いいたします」
深々と一礼し、リシェルはバルドランの工房を後にした。
◆◆◆
日差しの差し込む職人通りへ出たリシェルは、預かった小さな壺を両手に抱え、しばし足を止めた。
「一体……どういうことなのでしょうか」
ぽつりとこぼれた呟きは通りの賑わいに溶けていく。
公務に追われているはずのフォルティナが、いつの間にかこの工房の馴染み客になっている。
領主館の料理長の好みをセレニアの職人が当然のように知っている。
そして『あんちゃん』と『エルフの嬢ちゃん』
仮設診療所で出会った不思議な治療師のセリナ。そして彼女が『静様』と呼んでいた、市場で飴を手渡してくれたあの温かな青年。二人の顔が、ふと頭をよぎる。
けれど、リシェルは首を小さく横に振った。
(見聞きしたことを、見聞きしたとおりに。……判断をされるのは、フォルティナ様です)
懐から取り出した帳面に、今日の出来事を短く書き留める。結論は一文字も書かない。それが彼女の商いの流儀。
帳面を閉じたリシェルは、腕の中の小さな壺に視線を落とす。
どうやら今回は、報告と一緒に届けるものがひとつ増えたらしい。
セレニアの青空を見上げ、リシェルはほんのわずかに口元を緩めると、宿へ向かって静かに歩き出す。




