第五話 深く秘められた報告と明日への土産
王都の重厚な門をくぐったレナードは、石畳の通りを静かな足取りで進んでいた。
王城を中心に広がる王都の街並みは、少し離れた区画にそびえる大聖堂の厳かさと、行き交う大勢の人々の熱気が雑多に混ざり合った、独特の活気に満ちている。フォルツの街で感じた、どこかのんびりとした温かな空気とはまた違う雰囲気が漂っていた。
(……同じ春の風のはずなのに、こうも違うものか)
レナードは教会中央監察局の重厚な庁舎へと直行し、王都滞在中に宛がわれた執務室へと入った。
◆◆◆
卓上の蝋燭が淡い影を揺らす夜更けの執務室で、レナードは羊皮紙から静かにペンを離した。
提出用の報告書には、過不足なく事実だけが淡々と記されている。
川沿いで見つけた壊れた支配エリアコアの残骸、巨石に刻まれた古い標識、そして甘い香りを放っていた希少な魔法植物『霊桃』。上層部が眉ひとつ動かさずに受理できるような厳めしい調査成果を並べ立てながらも、彼は自分にとっての『核心』には一切触れていなかった。
――調査へ向かう馬車の中で、アリアたちが惜しげもなく分けてくれた『おにぎり』の、素朴で優しい塩加減。
――孤児院の庭で胸元のペンダントを握りしめ、師匠に治癒魔法を教えてもらったのだと、照れくさそうに、けれど誇らしげに笑ったエナの澄んだ瞳。
別添の密書には、王都の大聖堂が捉えた『二つの神気反応』の追跡結果を記した。外縁部においては痕跡なし――結局その正体は、この調査では何ひとつ掴めなかった。手詰まりという結果に、上層部は眉をひそめるかもしれない。
だが、これでいいとレナードは胸の奥で静かに呟いた。
どちらの書面にも、嘘はひとつもない。書く必要のないことを書かなかっただけ。
あの空白地帯の穏やかな空気、フォルツの街に広がる押し付けがましさのない優しさ。それらを『管理』や『教義』という無骨な鎖で縛りつける必要など、どこにもないのだから。
「私は何も変えられないかもしれない。……だが、自分の書く一枚の報告書で、あの穏やかな日常が踏みにじられないようにすることなら、できる」
冷めきったハーブティーを一口含み、レナードは最後の一行を書き終えると、静かに黒銀の印章を捺した。
それから机の引き出しを開け、使い込まれた私的な手帳を取り出す。
いつかの夜に書きつけた一文――『組織の名の下に行う善は、本当に善か』。
その下に、レナードは短く一行を書き加えた。
『書かずにおくことで、守れるものもある』
手帳を閉じると、蝋燭の火が小さく揺れた。
◆◆◆
翌朝、教会中央監察局の最上層に位置する審議室。
高い天井とステンドグラスから差し込む光の下、議長をはじめとする幹部司祭たちが並び、レナードの提出した報告書に目を落としていた。
「……なるほど。『支配エリアコアの残骸』に、国宝級の魔法植物『霊桃』の群生か。外縁部の調査としては破格の成果と言えよう」
老司祭の一人が、眼鏡の奥の目を細めて頷く。
「ですが、議長。肝心の『二つの神気反応』については痕跡すら見つからなかったとのこと。これはいかがなさいますか?」
議長と呼ばれた厳格な佇まいの老司祭は、手元の機密書類へと視線を滑らせたあと、静かにレナードを見つめた。
「レナード監察官。真実に偽りはないな? 当該領域において、人界へ危害を及ぼすような異質な魔力や神気の揺らぎはなかったのだな?」
レナードは背筋をまっすぐに伸ばし、一切の揺らぎのない澄んだ瞳で返答した。
「はい。三日間にわたる巡回におきまして、神気の残留や暴走の兆候は皆無でした。かの地域は極めて高度な自然の調和によって保たれております。過度な武力介入や大規模な再調査は、かえって現地の安定を損ねる危険があると判断いたします」
重苦しい沈黙が審議室を支配する。
その沈黙を破ったのは、末席に控えていた局長補佐だった。
「議長。僭越ながら……拙速な断定と過剰な介入がどれほどの混乱を招くかは、かつての神託騒動で、我々自身が身をもって学んだはずです」
幾人かの司祭が、苦いものを思い出したように小さく咳払いをする。
やがて議長は深く息を吐き、手元の一枚の紙に受理の印を押した。
「分かった。本件の神気追跡は一度『凍結』とし、現状の駐在武官による定例観測に留めることとする。ご苦労であった、レナード監察官」
「はっ。感謝いたします」
深々と一礼し、審議室をあとにしたレナードは、廊下へ出た瞬間にそっと胸の内で安堵の息を漏らしたのだった。
◆◆◆
その日の夕刻、監察局の官舎の一室
必要な手続きと報告をすべて終えたレナードは、窓辺の椅子に腰掛け、ゆっくりと一息ついていた。
茜色に染まり始めた王都の屋根並みを見つめながら、彼の思考は自然と遠く離れたフォルツの街へと飛んでいく。
フォルツの教会で交わされる司祭やシスターたちの温かな会話、元気に駆け回っていた孤児院の子供たち、霊桃の種を植えた庭の片隅。そして、一生懸命に自分の役割を果たそうと奮闘していたエナの姿。
(……報告が無事に済んで良かった。これでまた、あの穏やかな場所へ戻ることができる)
ふと、ギルドでの別れ際にリーナから掛けられた言葉が蘇る。
――本部での良い結果が出たら教えてね。
(『良い結果』と呼べるかは分からないが……少なくとも、胸を張って伝えられる結果にはなったはずだ)
レナードは自然と口元を緩めた。
机の上に置いた自分の荷物に目をやる。
(そうだ……フォルツへ戻る前に王都の市場で何か土産でも買っていこうか)
子供たちが喜びそうな珍しいお菓子に、いつも世話になっているシスター・ローゼには上質な茶葉を。それから――
(エナには……弟子入りのお祝いも、まだきちんとしていなかったな)
胸元のペンダントを誇らしげに見せてくれた、あの笑顔が浮かぶ。
(あのペンダントの邪魔にならないような、小さな髪飾りでも選んでみようか……いや、贈り物ひとつまともに選んだことのない私に、女の子の好みなど分かるだろうか)
生真面目に眉を寄せて考え込み、それから自分の真剣さに気づいて、レナードは小さく苦笑した。
それでも胸の奥がほんのりと温かくなるのは止められなかった。
明日、王都の市場を歩く自分の姿を思い描きながら、レナードは穏やかな気持ちで静かな夜の深まりを迎えていく。
◆◆◆
翌朝
王都の市場は早くも活気に満ち、露店の呼び声と焼き菓子の甘い香りが通りを満たしていた。
レナードは人々の間を歩きながら、どんなお土産を選ぼうかと考えながら歩いていた。
(……まずは孤児院の子供たちの分かな)
色とりどりの砂糖菓子が並ぶ店先で足を止める。
小さな瓶に詰められた果実飴や、花の形をした焼き菓子が目に入った。
「これは……子供たちが好きそうなお菓子だな」
店主にいくつか包んでもらい、次に茶葉専門の店へ向かう。
棚に並ぶ茶葉の香りを確かめながら、いつも穏やかに微笑みながら、子供たちの世話をするシスター・ローゼの姿が脳裏に浮かんだ。
(ローゼさんには……この香りが合うだろうか)
少し悩んでから、春摘みの柔らかな香りの茶葉を選び取る。
そして――
最後にレナードは小さな装飾品の露店の前で立ち止まった。
木箱の中には繊細な細工が施された髪飾りや、小さな宝石をあしらった留め具が並んでいる。
(エナには……どれが似合うだろう)
胸元のペンダントを誇らしげに見せてくれた、あの照れくさそうな笑顔が思い出される。
「贈り物をお探しですか?」
店主の柔らかな声にレナードは少し肩を揺らした。
「え、ええ……その……知り合いの子が弟子入りしたお祝いに」
「でしたら、こちらなどいかがでしょう。主張しすぎず、髪にそっと添えるだけで可愛らしいですよ」
差し出されたのは小さな桃色の石をあしらった、控えめな髪留めだった。
レナードはしばらく見つめ、やがて静かに頷いた。
「……これを、お願いします」
包みを受け取ると、胸の奥がほんのりと温かくなる。
(気に入ってくれるといいのだが……)
購入したお土産を丁寧に鞄へ収め、レナードはフォルツへ戻るための馬車へと足を進めた。
穏やかな街、温かな人々、そして――あのエナの笑顔。
(……帰るのが楽しみだ)
そう心の中で呟きながら、レナードは王都の朝の光の中、晴れやかな足取りでフォルツへの道のりを踏み出していく。




