第十四話 春香木の焼き菓子と朝の旅立ち
市場の通りを少し進むと、果物や干し物の店とは違う、ふわりと良い香りの漂う一角があった。
木製の棚には乾燥葉や香草、粉末状の香料がずらりと並んでいる。
店先には若い女性店主が立ち、静たちを見るなり明るく声をかけてきた。
「そこの若旦那、香り物はどうだい? 春の焼き菓子に使うなら、こっちの方が向いてるよ」
差し出された小袋の中には、淡い橙色の粉がふわりと香りを立てていた。
「これはね、春香木の皮を細かく挽いた粉なのよ。ひとつまみ入れるだけで、春らしい香りがふわっと広がるからオススメよ」
静は袋を軽く指でつまみ、鼻先に寄せる。
ほのかに甘く、木々の芽吹きを思わせる柔らかな香りがした。
「……いい香りだね。クッキーやケーキに合いそうだな」
セリナも覗き込みながら微笑む。
「はい、春香木はこの地方の名物と聞いたことがあります。香り付けに使うと、とても上品になりそうですね」
漆黒の毛並みをしたツキが「にゃ」と短く鳴き、袋の端をくんくんと嗅いでしなやかな尻尾を揺らした。
あかねも「きゅきゅ!」と嬉しそうに跳ねている。
少し離れた場所では、ハルが「ひゅん」と香りを風に乗せて運び、ルゥが「くぅ!」と目を輝かせ、マルももふもふの小さなお手手を「ぽむぽむ」と叩きながら「ぷぷぅー!」と大はしゃぎしていた。
店主はそんな愛らしい幼体たちの様子を見て、満足そうに笑った。
「気に入ってくれたみたいだね。若旦那なら、きっと上手く使ってくれそうだし、おまけも付けるからどう?」
商売上手な若い女性店主に苦笑しながら、静は優しく頷く。
「そうだね、香りも良いし一袋貰おうかな」
「まいどあり! あと、これはおまけの春香木のハーブティーよ。焼き菓子にすごく合うんだけど、売り物じゃないの。よかったらどうぞ」
「わぁ、良い香りがします。きっとよく合いそうですね、静様」
「そうだね、セリナ。店主さんどうもありがとう。大切に飲ませてもらいますね」
そう言って、静とセリナ、幼体たちは笑顔でお店を離れていく。
ちょうどその頃、懐の連絡板が淡い光を放ち、アリアからメッセージが入った。
【アリア:静、こちらの用事は終わったわ。さっきの路地の近くにいるわね】
【静:了解。こっちも終わったから、すぐに向かうね】
返信を済ませた静は、合流場所である路地近くへと向かい、買い物を終えたアリアたちと無事に合流を果たした。
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。
一瞬の心地よい浮遊感の後、光が静かに収束すると、一行は住み慣れた屋敷のリビングへと帰還していた。
◆◆◆
屋敷に戻った一行は、早速明日の出発に向けた準備に取り掛かった。
アリアたちが装備の最終確認と手入れを行う傍ら、静とセリナはキッチンに立ち、お菓子作りを始める。
小麦粉とバターを練り込んだ生地に、今日買い求めたドライフルーツや香ばしいナッツを贅沢に混ぜ込み、最後にあの『春香木の粉』をひとつまみ。途端に、爽やかで甘く上品な香りがキッチン全体へと広がり始めた。
「とっても良い香りですね、静様」
「うん、焼いたらもっと美味しくなりそうだね」
生地を型抜きしてオーブンへと入れると、ほどなくして香ばしい匂いが漂い出し――それに引き寄せられた幼体たちが、続々とキッチンへ集まってきた。
オーブンの前では、あかねが「きゅきゅ……!」と待ちきれない様子で足踏みをし、ルゥも「くぅ!」と鼻をひくつかせている。マルは小さな手を「ぽむぽむ」と叩きながら「ぷぷぅー!」と焼き上がりを心待ちにし、ハルもふわりと舞い上がりながら甘い香りの風を楽しんでいた。ツキは静の足元にそっと寄り添い、「にゃぁ」と喉を鳴らしながらじっとオーブンを見つめている。
「ふふ、みんなすっかり待ち遠しいみたいだね。もうすぐ焼き上がるからね」
静が微笑みかけると、チーンと心地よい音が鳴り、こんがりと黄金色に焼き上がったクッキーとパウンドケーキが姿を現した。
「さあ、冷めたからみんなで味見してみようか」
焼き立てのお菓子を少し小さく切り分けて差し出すと、フィアが「やったぁ!」と真っ先に頬張り、「んん〜〜っ! サクサクで甘酸っぱくて、春の香りが口いっぱいに広がる〜!」と大絶賛した。
あかねたち幼体も嬉しそうにパクつき、「きゅきゅ!」「くぅ!」「ぷぷぅー!」と大歓声を上げて尻尾や翼を振っている。
綺麗に焼き上がったお菓子を、セリナは丁寧にかわいらしいバスケットへと詰め、店主からもらった春香木のハーブティーの茶葉と一緒にリボンを結んだ。
「静様、明日アリアさんたちが無事に行って戻ってこられますよう、そして素晴らしいお恵みをいただいたお礼に、まずは礼拝堂へお供えしてまいりましょうか」
「そうだね。きっと喜んでくれるよ」
静とセリナは二人で静寂に包まれた礼拝堂へと向かい、祭壇の上に焼き菓子のバスケットとハーブティーをそっと捧げた。セリナはそっと目を閉じ、丁寧な祈りの言葉を静かに紡ぐ。
(ルーナフィリス様。明日、アリアさんたちが空白地帯の外縁部へ向かいます。どうか道中の無事をお見守りください。今日は静様が春香木の香りを添えた焼き菓子を作ってくださいましたので、どうぞお召し上がりください)
祈りを捧げると、バスケットの上の品々が淡い光の粒子に包まれ、すっと神域へと届いていく。それを見届けたツキが、「にゃん」と満足げに喉を鳴らした。
その後、明朝の早い出発に備えて手早く夕食とお弁当の準備を済ませると、全員で早めの夕食を楽しみ、その夜はいつもより早くそれぞれの部屋へと戻って就寝した。
◆◆◆
翌朝、夜明け前。
まだ薄暗い屋敷の前庭に、旅の装備を完全に整えたアリアたちが立っていた。
「静、セリナ、朝早くから見送りに来てくれてごめんなさいね。朝食のお弁当と焼き菓子、本当に助かるわ」
アリアが頭を下げると、ミレイアも優しく微笑む。
「本当に助かるわ。ありがとうね」
リーナとフィアも、それぞれにお礼と意気込みを口にする。
「気を付けて行ってくるわ」
「うん! 焼き菓子、すっごく楽しみ♪」
静とセリナが温かい言葉をかけ、あかねたち幼体も「きゅきゅ!」「にゃ」と名残惜しそうに鳴いて一行を見送る。
「みんな、無理だけはしないでね。何かあったらすぐに連絡板で教えて」
「はい。どうかお気をつけて行ってらっしゃいませ」
「それじゃあ、送るね」
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。
一瞬の浮遊感の後、視界が開けると、そこはフォルツの街の定宿『上弦の宿』の部屋の中だった。
「気をつけて行ってきてね」
「ええ、行ってくるわ!」
静に見送られ、アリアたちは宿を出て朝の静けさが残るフォルツの街を歩き、待ち合わせ場所であるフォルツの入り口へと向かった。
東の空が薄っすらと白み始める中、門の前には一台のしっかりとした馬車と、教会の駐在武官の正装に身を包んだレナードが静かに佇んでいた。
「おはようございます、アリア殿」
「おはようございます、レナード様。お待たせして申し訳ありません」
「いえ、私も今来たところです。……準備はよろしいでしょうか? 馬車の手配も済んでおります」
青銀の髪を朝の冷たい風に揺らしながら、レナードが馬車の扉を開けて促す。
アリアたち《ルミナ・ヴェール》の一行は乗り込み、静かな緊張感とともに、馬車は未知なる空白地帯へと向かってゆっくりと走り出すのだった。




