第十七話 澄んだ水のエッセンスと不器用な休息
焼き立てのパンの香ばしい匂いと、温かいスープの湯気がテーブルの上に優しく立ち上っていた。
キッチンの隣にあるダイニングでは、静、セリナ、そして《ルミナ・ヴェール》の四人が並んで朝食を摂りながら、今日の予定をのんびりと話し合っていた。静の膝の上ではツキが大人しく丸くなり、アリアの椅子の下ではあかねが「きゅ」と小さく鳴いている。
ミレイアがスープのスプーンをそっと置き、隣の静へと視線を向けた。
「そういえば静、昨日の調査の時、大樹の根元でとても澄んだ湧き水を見つけたのよ」
ミレイアの言葉に合わせるように、彼女の足元にいたルゥが「くぅ」と短く鳴いて同意するように小さな頭を動かした。
「もし今日何も予定が無かったら、見に行ってみない?」
誘うようなミレイアの言葉に、静は興味深そうに目を細めた。
「へえ、大樹の根元にそんな綺麗な水があるんだ。ルゥが気に入った場所なら、きっといい水なんだろうね。その水を汲んでみて、夕食やお茶に使ってみようかなぁ」
静が穏やかに微笑むと、隣に座っていたセリナが嬉しそうに薄紫色の瞳を細めて相槌を打った。
「それは楽しみですね、静様。大樹の近くのお水でしたら、きっととても澄んでいて美味しいお料理やお茶になりそうです」
「よし、じゃあ今日はその水を採取しに行ってみようか」
静がそう言って今日の予定を決めると、向かいの席でパンを齧っていたフィアが、待ってましたとばかりに楽しげに身を乗り出した。
「じゃぁ、またみんなで大樹の周りに何か美味しそうな物が無いか探してみようよ♪」
「ひゅるぅ」と、フィアの肩の上のハルが甘えたような鳴き声を返す。リーナの足元にいたマルも「ぷぅ」と相槌を打つように鳴き、小さな手で床をぽむぽむと叩いてその場の温かさを楽しんでいた。ツキも静の膝の上で「にゃ」と機嫌よさそうに喉を鳴らす。
朝食を終え、それぞれが水筒やカゴなどの準備を整えると、静が空間を軽く撫でて柔らかな光の輪を生み出し、全員で大樹の根元のエリアコアへと転移した。
◆◆◆
視界が切り替わると、梢の間から春の柔らかな木漏れ日が降り注ぐ大樹の根元へと辿り着いていた。ひんやりとした清涼な空気が肌を心地よく撫でる。
静とセリナは、ミレイアとルゥに案内されて苔むした岩の隙間へと向かった。そこには、驚くほど透明な湧き水がこんこんと静かに湧き出している。
「本当に綺麗な水だね」
静は持ってきたガラスのボトルをそっと差し入れた。トトト、と小気味よい音を立ててみずみずしい水が満たされていく。手首に伝わる清らかな冷たさがとても心地よい。セリナが隣でボトルを丁寧に受け取り、優しく栓をしていった。
その少し先では、アリアたちと幼体たちが手分けして食材探しを行っていた。
マルが「ぷぷぅー」と得意げに声を上げながら、豊かな土を小さな手でぽむぽむと叩いている。その場所には、スープに入れると良い香りがしそうな新芽が綺麗に群生していた。
「あら、マルのおかげでさっそく見つかったわね」
リーナがふっと口元を緩め、マルの頭を優しく撫でると、マルは嬉しそうに目を細めた。あかねもアリアの足元で「きゅ」と鳴きながら、珍しい木の実の落ちている場所を鼻先で教えている。四人と四匹の穏やかな収穫の時間が、木漏れ日の中でゆっくりと流れていった。
◆◆◆
フォルツ教会の裏手。
空白地帯の外縁部で観測された『二つの神気反応』の続報を調査していたレナードが、数日ぶりに帰還していた。
不審なものは何も発見されなかったものの、張り詰めた緊張の中での長時間の野営は、生真面目な彼の身体に確かな重みとなって残っていた。
レナードが物静かな礼拝堂の裏手で、泥のついた装備を静かに外していると、トテトテと軽い足音が近づいてきた。
孤児院のエナだった。彼女はレナードの姿を見つけると、嬉しそうに目を輝かせて歩み寄ってくる。
「エナか。どうした?」
レナードがいつもより少し柔らかい声音で問いかけると、エナはポケットから大切そうに小さな布袋を取り出し、両手で差し出した。ちょっと背伸びをしたような、大人びた口調で微笑む。
「この前ね、セリナさんて言う綺麗で優しいお姉ちゃんが可愛い子猫と男の人と一緒に教会に来てね、お屋敷のお野菜と一緒にこれをくれたの。いつもお仕事でお疲れのレナードさんにどうかなって、わたしからのお裾分けよ」
「私に……ですか。ありがとうございます、エナ」
受け取った袋を開けると、ほんのりと優しい甘い香りが広がる。レナードはその中から飴を一つ摘まみ、口に含んだ。
飴が舌の上で溶け始めた、その瞬間だった。
じわりと口の中に広がった優しい甘みとともに、驚くほどすっきりとした感覚が身体の奥へと染み渡っていった。肩にのしかかっていた重苦しい疲労や、頭の奥に残っていた緊張による気負いが、まるで吸い取られるようにすうっと軽くなっていく。衣服の擦れる感覚さえ心地よく思えるほどの瑞々しい活力が、瞬く間に心身を満たしていった。
レナードは内心で激しく困惑した。
(……この品質。フォルツの市場……いや、王都でも手に入るものではない)
彼は胸の内で静かに息をつく。
(このような効果のある蜂蜜飴を、孤児院の子どもたちに惜しげもなく配るとは……セリナという女性は一体どのような人なのだろうか?)
ふと、彼の脳裏にいくつかの可能性が浮かぶ。
(裕福な商家の娘か……あるいは、どこかの貴族のお忍びの奉仕か……)
(……分からない。ただの庶民と言う事はないことだけは確かだろう)
未知の存在の影に少しだけ思考を巡らせつつも、レナードは目の前で少し照れくさそうにしているエナの頭を、大きな手でそっと撫でた。
「……ああ、本当に元気が出たよ。ありがとう、エナ」
彼の口元に、一人の不器用な青年としての柔らかな笑みが浮かぶ。エナは嬉しそうに顔をほころばせ、小さく飛び跳ねた。
◆◆◆
空が美しい茜色に染まる頃、空白地帯の屋敷のキッチンには、豊かな香りが漂っていた。
竈の火がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜる中、今日採取してきた大樹の澄んだ湧き水を使って、静とセリナが並んでスープを煮込んでいる。みずみずしい香草と野菜の旨味が溶け込んだ湯気が、白く優しく立ち上っていた。
お玉でスープの具合を確かめていた静が、ふと手を止め、綺麗なお皿へと最初の一皿を丁寧に取り分けた。
「セリナ、今日も女神様へのお裾分け、お願いできるかな。一番いいお水で美味しく出来たからさ」
「はい、静様。喜んで」
セリナは穏やかな微笑みを浮かべ、スープとお茶が載せられたお盆を両手で大切に持ち上げた。すると、足元にいたツキが待っていましたとばかりに「にゃ」と短く鳴き、当然のような足取りでセリナの後ろをトコトコとついて歩き始めた。
静かな廊下を通り、二人は屋敷の奥にある礼拝堂へと向かう。
ひんやりとした厳かな空気が満ちる礼拝堂の祭壇の前で、セリナはそっと膝をつき、お盆を丁重に捧げ持った。ゆっくりと薄紫色の瞳を閉じ、静かな声音で祈りと報告の言葉を紡ぐ。
「ルーナフィリス様。今日も大樹の恵みのもと、皆で穏やかな一日を過ごすことができました。今朝はミレイアさんたちが見つけてくださった、とても澄んだ湧き水をいただいてまいりました。静様がそのお水で心を込めて作られたスープとお茶です。どうぞ、お召し上がりください……」
セリナが祭壇の前でそっと目を閉じると、盆の上の料理をふわりと柔らかな光の粒子が包み込んだ。光が静かに引いていくと同時に、すっと綺麗に消え去っていた。
「ふふ、届きましたね、ツキちゃん」
「にゃん」
セリナがそっと目を開け、空になったお盆を愛おしげに見つめながらツキの頭を優しく撫でる。ルーナフィリスの元へと届いたのを感じていた。
キッチンへと戻ると、テーブルにはアリアたちが収穫してきた木の実や山菜の料理も並び、全員が笑顔で席につくところだった。
特別な事件も大仰な英雄譚もない。丁寧に暮らしを整え、美味しいねと笑い合う。いつもと変わらない優しく穏やかな夕暮れの時間が、屋敷の中に満ちていく。




