第十八話 託された小袋と大樹への誘い
領主館の執務室には、窓から午後の柔らかな光が差し込んでいた。
机の端に置かれた、炎晶を動力源とする『簡易湯沸かし器』がパチパチと静かに小さな結晶の光を明滅させ、細く白い湯気を優しく立ち上げている。フォルティナはそのお湯で丁寧に淹れたハーブティーを一口すうっと含むと、向かいの長椅子に腰掛けているフレイアへと穏やかな笑みを向けた。
「静さんからいただいたこの魔道具は素晴らしいですね。魔力の薄い執務室でもこうしてすぐに温かいお茶が楽しめます」
「本当にね。王都の魔導工房でもこれだけのものは作れないわよ」
フレイアが感心したようにカップを揺らしたその時、コンコン、と丁寧なノックの音が響き、重厚な木扉が静かに開いた。姿を現したのは領主館の執事長であるロベルトだった。
「フォルティナ様、フレイア様。御用商人のリシェル殿をお連れいたしました」
ロベルトが一礼して一歩下がると、その後ろから栗色の髪を揺らしたリシェルが静かに室内に足を踏み入れた。
「フォルティナ様、フレイア様。定期の報告に参りました」
リシェルは落ち着いた琥珀色の瞳を崩さぬまま、慇懃に一礼した。フォルティナはそれを促すように微笑むと、机の上の『簡易湯沸かし器』へと手を伸ばし、新しいカップへと手際よくハーブティーを注ぎ始めた。みずみずしい香草の香りがふわりと室内に広がる。
「リシェル、長旅ご苦労様。まずは温かいお茶でもどうぞ」
「……フォルティナ様みずから、お茶を……。恐れ入ります」
常に冷静なリシェルが、ほんの少しだけ驚いたように目を瞬かせ、恐縮しながらも恭しくカップを受け取った。その様子をロベルトは満足そうに見届け、一礼して静かに扉を閉めて退室していった。
一口お茶を口にし、その温かさに小さく息を吐いたリシェルは、手元の手帳を開いて淡々とした声音で切り出した。
「先日、例の他国から療養に来られているという商人たちの一団を、フォルツの中央市場にて見かけました。……ですが、気になる点が一つございます。私は冬にセレニアの職人通りで彼らをお見かけして以降、何度も王都やフォルツを往復しておりますが、主要な交易路のどこかですれ違った覚えが一度もないのです。彼らがどのようなルートでこれほど迅速にフォルツへ移動しているのか、現時点では特定できておりません」
フレイアは表情を変えないまま、内心で(それはそうよね、だってあの人たち、転移で一瞬だもの……)と、どこか遠い目になりながら苦笑した。
リシェルは言葉を続け、懐から小さな布袋を取り出して机の上へとそっと置いた。
「それから、以前にセレニアで貴重な調味料を融通したお礼にと、あの青年からこちらの蜂蜜飴をいただきました。……物流の中心地であるセレニアや王都でも、これほどの品質のものは手に入らないと思います。肌に触れる空気がほんの少し凪ぐような、極めて丁寧な仕事がなされています。……ただ、不審な気配があるわけではなく、人物としては非常に強い善性を感じ、好感の持てる方々でした」
その飴を見た瞬間、フレイアは「あ……」と内心で天を仰いだ。
(静さん、あの『鑑定の宝珠』で品名すら『???』って出た最高位素材の蜂蜜ボールを飴にしたのね……。あんな国家戦略物資級の貴重なものを、ただの行商人へのお礼にそんな簡単に使うなんて……!)
驚愕で張り詰めそうになるフレイアの隣で、フォルティナは飴の袋を手に取り、その中身をフレイアと共にそっと確認した。そして、ふわりと柔らかな笑みを浮かべて、リシェルの手元へとその小袋を優しく戻した。
「リシェル、これはあなたに対してのお礼なのですから、どうぞそのまま受け取っておきなさい」
「ですが、これほどの逸品を私が私物にするのは……」
少したじろぐリシェルに、フォルティナはさらに嬉しそうな、心からの温かい笑顔を向けた。
「あの方はとても料理上手な方なのです。ですから、この飴もきっと、優しくてとても美味しいですよ」
リシェルはその笑顔を見た瞬間、胸の奥でストンと腑に落ちるものがあった。
(あの、常に領主として凛とした表情を崩さないフォルティナ様が、あんなに嬉しそうで、柔らかい笑顔をされるなんて……。なるほど、きっとあの青年は、お二人にとってそれほど大切な方なのでしょうね)
女性としての細やかな直感のようなもので納得したリシェルは、それ以上固辞するのをやめ、「……ありがとうございます。大切にいただきます」と深く頭を下げた。
フォルティナはさらにやんわりとした声音で言葉を重ねる。
「その方たちは決して危険な人物ではありませんので安心してください。私とフレイアの古い知り合いで、とても大切なお友達なのです」
「領主様方のご知己でしたか。承知いたしました。これ以上の詮索は不要ですね」
リシェルは商人としての優れたバランス感覚でそれ以上の追及を止め、もう一度深く礼をして、静かに執務室を退室していった。
パタン、と扉が閉まり室内が二人きりの空間に戻ると、フレイアは大きくため息をついて頭を押さえた。
「ちょっと、ティナ。あなた本当に、あの飴のベースがどれほど規格外のものか分かってないでしょ」
「え? でも、とても美味しくて身体が温まる蜂蜜ですよね?」
きょとんとするフォルティナに、フレイアはギルドの保管庫で最高峰の鑑定遺物を使った際の結果を明かした。品名すら特定できず、ただ最高位素材とだけ書き換えられた宝珠の戦慄を。
フォルティナは驚いて目を丸くしたが、すぐに自身の髪飾りにそっと触れ、愛おしげに微笑んだ。
「でも……ただ、お世話になった方に喜んでほしくて作ったところが、本当に静さんらしいです」
「……まあ、そうなんだけどね。本当にあの人は、自分がどれだけのものを手渡しているのか、これっぽっちも分かっていないんだから」
フレイアは呆れたように笑いながら、自身の手元のお茶をゆっくりと飲み干すのだった。
◆◆◆
その頃、空白地帯の屋敷のリビングでは、夕食を終えた面々がのんびりとしたお茶の時間を楽しんでいた。
キッチンのカウンターではセリナが新しく淹れたハーブティーの湯気を優しく立ち上げ、テーブルの上には小さな焼き菓子が並んでいる。静の膝の上ではツキが「にゃ」と満足げに喉を鳴らし、アリアの椅子の下ではあかねが「きゅ」と短い寝息を立てていた。
カップを手にしていたリーナがふと窓の外の、大樹の置かれている方角へと視線を向けた。指先でカップの縁をなぞりながら、静かな声音で切り出す。
「そういえば……そろそろ、またあの大樹のところに行ってみない?」
魔術師として世界の仕組みや特異な魔力循環に強い関心を持つリーナの言葉に、隣にいたマルが「ぷぅ」と賛同するように短く鳴き、小さな手で床をぽむぽむと叩いた。
「そうね」と、ミレイアもハーブティーの香りを楽しみながら言葉を重ねる。
「大樹の根元だけでもあんなに澄んだ水が湧いていたのだもの。その上の層がどうなっているのか、少し気になるわ。ルゥも、あの大樹の近くに行くと少し嬉しそうにするのよね」
ミレイアの胸元で、ロップイヤーのような耳を揺らしたルゥが「くぅ」と可愛らしく鳴いて甘えるように顔を寄せた。
「あ、それ賛成! 次はどんな美味しいものがあるか、今からすっごく楽しみだし!」
フィアが肩の上のハルを撫でながら笑顔で身を乗り出すと、ハルも「ひゅるぅ」と、フィアにだけ見せる甘えた鳴き声を上げた。
メンバーたちの楽しそうな様子を見て、静は「はは、みんな大樹が気に入ったみたいだね」と穏やかに微笑んだ。
「それじゃあ、またフォルティナさんたちも一緒に行けるか、一度確認してみようか。せっかくだから声をかけてみた方が良いよね」
「ええ、そうね。連絡してみてちょうだい」
アリアがウインクをすると、静は懐から一枚の淡い結晶板――連絡板を取り出した。
指先でそっとその滑らかな表面をなぞると、静かな魔力が伝わり、板の表面がふわりと淡い光を灯す。静は丁寧な手つきで、文字の線を板の上に優しく定着させていった。
【静:今度、またみんなであの大樹に行ってみようと思っているんですが、フォルティナさんたちも都合が良ければ一緒に行きませんか?】
最後に指先で軽く押さえてメッセージを送信すると、連絡板は一度静かに輝きを収めた。
しばらくの間、お茶を飲みながら待っていると、再び連絡板が静かに淡く明滅する。指先で表面をなぞって浮かび上がった文字を、静は静かに読み上げる。
【フォルティナ:お誘いありがとうございます。ですが、王都からの通達と春の公務が重なり、しばらく身動きが取れません。先に皆様で楽しんできてくださいね。また次の機会に】
丁寧で、どこか申し訳なさそうなフォルティナの文面を読み終え、静は苦笑しながら、了解した旨の短い線を板に刻んで通信を終えた。
「……だって。フォルティナさんもフレイアさんも、お仕事が忙しくてしばらく行けないみたい。先に僕たちで行ってきて、ってさ」
「あら、領主様とギルドマスター様は相変わらず大忙しね」
アリアが肩をすくめると、フィアがぱっと目を輝かせた。
「じゃあさ、明日以降にでも、早速みんなで大樹の上の層――二層目に行ってみようよ!」
「きゅぅ!」「ぷぷぅー!」
フィアの言葉に応じるように、あかねやマルたちが嬉しそうな声を上げる。
「そうだね。じゃあ、明日は二層目の探索に向けて、少ししっかりめの準備を整えようか」
静がのんびりとした笑みを浮かべると、ツキが静の肩の上へと軽やかに飛び乗り、「にゃ!」と誇らしげに、そして嬉しそうに鳴いた。
窓の外には、空白地帯のどこまでも穏やかで優しい夜空が広がり、大樹の梢が春の風に吹かれて静かに揺れている。新しい場所へのささやかな期待を胸に、屋敷の温かな日常の時間が、ゆっくりと更けていくのだった。




