第十六話 市場の邂逅と小さな約束
朝食の片付けを終えたキッチンには、淹れたてのお茶の爽やかな香りと、穏やかな朝の陽光が満ちていた。
セリナが丁寧にトレイを拭き上げながら、隣で残ったお茶を片付けている静へと振り返った。
「静様、少しご相談があるのですが……」
「ん? どうしたの?」
静が手を止めるとセリナは嬉しそうに、けれど少し控えめな微笑みを浮かべた。
「今日、フォルツの市場へ買い出しに行かれますよね。もしよろしければ、その後に先日作った蜂蜜飴を孤児院の子供たちに配りに行きませんか? あの子たち、きっと喜んでくれると思うのです」
セリナの言葉を聞いた静は、ぽんと手を叩いた。
「あ、それは良いね。せっかくだから、屋敷の畑や果樹園で今朝収穫した野菜や果実も一緒に持って行こうか。カゴに詰めれば結構な量になるし」
「それは……とても素敵ですね」
セリナの琥珀色の瞳が、じんわりとした喜びで細められる。
「此処のお野菜は本当に美味しくて、食べると身体の芯から元気が湧いてくるようですから。子供たちの食卓が、きっといつもより豊かになりますね。……ありがとうございます、静様」
深々とお辞儀をするセリナの横顔を見ながら、静は「いや、余っているものだから」と苦笑した。
セリナは十六歳になるまで、教会の孤児院で聖女見習いとして過ごしていた。当時のつつましい食事事情や、子供たちの小さなお腹の空き具合を肌で知っているからこそ、静の何気ない『お裾分け』の提案が、自分のことのように嬉しくてたまらないのだろう。その押しつけがましくない優しさが、キッチンの空気を柔らかく温めていた。
リビングへ向かうと、遠出の身支度を整えた《ルミナ・ヴェール》の面々が待っていた。アリアの腕の中にはあかねが、ミレイアの胸元にはルゥが、それぞれ心地よさそうに収まっている。
「静、私たちはこれから大樹の周辺の植生調査に向かうわね。ついでに、今日の夕食に使えそうな珍しい野草や木の実があれば収穫してくるわ」
アリアが愛剣の具合を確かめながら言うと、リーナの足元にいたマルが「ぷぅ」と短く鳴き、小さな手で床をぽむぽむと叩いた。
「マルも、美味しい野菜や新しい芽を探す手伝いをしてくれるみたいよ」
リーナがふっと口元を緩め、マルの丸い頭を優しく撫でる。
「じゃあ、みんな大樹の根元のエリアコアまで送るね。あかねたちも、アリアたちの調査をしっかり手伝うんだよ」
静が微笑みながら空間を軽く撫でると、柔らかな光の輪がリビングを包み込んだ。
次の瞬間、視界は巨大な大樹の根元へと切り替わっていた。足元にはみずみずしい緑の苔が広がり、梢の隙間から春の柔らかな木漏れ日が降り注いでいる。
「わー! やっぱりここの空気は気持ち良いね!」
フィアが肩の上のハルを揺らしながら背伸びをする。ハルも「ひゅるぅ」と、フィアにだけ見せる甘えたような鳴き声を返した。
「じゃあ、私たちはここから調査を始めるわ。静、終わったら連絡板でメッセージを送るから、迎えに来てちょうだいね」
アリアがウインクをすると、静は「了解。気をつけてね」と応じ、セリナとツキを伴って、一度屋敷へと転移で戻った。
残されたアリアたちは、ゆっくりと大樹の周囲を歩き始める。
「あかね、そっちに何かある?」アリアが尋ねると、足元のあかねが「きゅ」と短い声を上げ、みずみずしい若芽が群生している場所を指し示すように鼻先を向けた。
「あら、これはスープに入れると良い香りがする香草ね。流石あかね」
少し先では、ミレイアが不意に足を止め、胸元のルゥを抱き直しながら静かに目を細めた。
「……この先、水の気配が澄んでいるわ」
ルゥも「くぅ」と短く鳴き、身を乗り出すようにその方向へ小さな顔を向ける。導かれるまま苔むした岩の隙間を覗き込むと、そこには澄み切った湧き水が、こんこんと静かに湧き出していた。
「まあ、こんなところに……。今日のお茶や湯冷ましに使えそうね」
ミレイアがそっと指先を水面に浸すと、ルゥが嬉しそうに「くぅ」と鳴き、澄んだ水面にほんの小さな波紋を静かに広げた。
そんな穏やかなやり取りを交わしながら、四人と四匹の静かな調査が、木漏れ日の中で進んでいった。
◆◆◆
屋敷から改めてフォルツの街へと転移した静たちは、人影のない路地裏から、賑やかな中央市場へと歩み出していた。
春の市場は活気に満ちており、色鮮やかな野菜や焼き立てのパンの匂い、商人たちの威勢の良い声が行き交っている。静の肩の上では、漆黒の毛並みを揺らしたツキが「にゃあ」と機嫌よさそうに喉を鳴らし、物珍しげにあちこちを見回していた。
「まずは、いつもの食材店で調味料の補充をしようか」
「はい、静様。あちらの乾物屋さんも、新春の品が入っているようですよ」
カゴを手にのんびりとお店を巡っていた、その時だった。
大きめのスパイス専門店の木扉が開き、中から栗色の髪をした一人の女性が静かに姿を現した。動きやすい商人服を纏い、手元の手帳につけペンで何かを書き留めていた彼女――リシェルは、ふと顔を上げ、こちらを見て足を止めた。
静もまた、その独特の落ち着いた佇まいに気づき、目を丸くした。
「あ……。以前、セレニアの市場で貴重な調味料を譲ってくれた方、ですよね?」
静が穏やかな声をかけると、リシェルは琥珀色の瞳を一瞬だけわずかに見開き、すぐにいつもの淡々とした商人の表情へと戻した。
「……ああ、あの時の。奇遇ですね。まさかフォルツでお会いするとは」
リシェルは静かに一礼した。しかし、その内心は、大きな驚きに包まれていた。
(やはり、このフォルツにも現れましたか……。冬にセレニアの職人通りでお見かけし、その後私は何度もフォルツとの往復や王都経由の移動を繰り返してきた。街では彼らの噂を耳にしていたけれど、主要な交易路のどこかですれ違った記憶は一度もない。一体、どのようなルートでこの街へ……?)
表情には一切出さないものの、リシェルの手帳を握る指先には、かすかな観察の視線が宿っていた。
そんなリシェルの内なる困惑を知る由もない静は、カゴの中から小さな布袋を取り出し、親しみやすい笑みを浮かべた。
「あの時は本当に助かりました。これ、お礼というほど大したものではないんですけど……最近、ちょっと珍しい蜂蜜が手に入ったので、それで作った飴なんです。もしよろしければ、どうぞ」
「……頂けるのですか? ご丁寧に、恐れ入ります」
断る理由もなく、リシェルはその小袋を恭しく受け取った。
手渡された瞬間、袋からかすかに漏れる甘い香りに、リシェルは小さく鼻をくすぐられた。
(……ただの蜂蜜飴ではなさそうですね。肌に触れる空気がほんの少し凪ぐような……とても優しくて、かなり質の良い、丁寧な仕事で作られた感じがします。あの時のお礼にと、こんなものを軽く差し出してしまうなんて……不思議な方々です)
「では、私たちはこれで。またどこかで」
静が穏やかに手を振ってセリナと共に歩き去っていく後ろ姿を、リシェルはしばらくの間、静かに見つめ続けていた。
(……フォルティナ様への次回の定期報告の際、この件も一言添えておきましょう。この飴も、後で少し確かめてみますか)
彼女は小さなため息と共に、その小袋を大切に懐へと仕舞い込み、人混みへと溶けていった。
◆◆◆
市場での買い出しを終えた静たちは、その日の目的地であるフォルツ教会の孤児院へと足を運んだ。
普段であれば、教会の裏手で薪を割ったりしている『教会の駐在武官』レナードの姿があるはずなのだが、今日に限って彼の姿はなかった。先日、空白地帯の外縁部で観測された『二つの神気反応』の続報の調査のため、教会の上層部からの指示で出向いているのだった。
「あら、静さん、セリナさん! よくおいでくださいました!」
教会のシスターたちが、静の持ってきた大カゴを見て驚きの声を上げる。
「いつもお世話になっているので、屋敷の畑で採れた野菜や果物のお裾分けです。子供たちの食事にでも使ってください」
「まあ……! なんてみずみずしくて立派なトマトにキュウリでしょう。本当にありがとうございます」
静がシスターたちに作物を手渡している間、セリナとツキは子供たちのいる待合室へと向かっていた。ツキは部屋に入るなり子供たちの間で大人気となり、小さな男の子に背中をぽんぽんと叩かれながら「にゃん」と誇らしげに鳴き、尻尾をぴんと立てて大人しく構われていた。
そんな中、部屋の隅で一人の小さな男の子が、勢い余って転んでしまうのが見えた。
「あぅ……、痛い……」
男の子は床に膝を擦りむいてしまい、涙をぽろぽろと流している。
「あら大変、大丈夫?」
近くにいた十二歳ほどの少女が心配そうに駆け寄る。セリナもまた、そっと男の子の側に膝をついた。
「少し、見せてくださいね」
セリナは穏やかな声音で言い、男の子の小さな膝に、そっと柔らかい手を添えた。
大仰な光を放つこともなく、誰かを労わるような自然な手当ての手つきのまま、セリナの手のひらから、柔らかな癒しの力がじんわりと注がれた。
数秒の後、セリナがそっと手を離すと、男の子の擦り傷は綺麗に消え去っていた。
「わぁ……痛いの、飛んでった!」
男の子がパッと笑顔になり、涙を拭って立ち上がる。それを見ていた少女は、目を輝かせてセリナを見上げた。
「すごい……! ありがとう、お姉さん。この子、元気が良すぎてよく転んじゃうの。わたし、エナって言うの。お姉さんのお名前はなんていうの?」
セリナは立ち上がりながら、エナに向けて柔らかく微笑んだ。
「セリナと申します。よろしくお願いしますね、エナさん」
「うん! セリナお姉ちゃん、よろしくね!」
挨拶を交わしてすっかり打ち解けた後、セリナは持ってきていた大樹の蜂蜜飴が入った小さな袋を、子供たちやエナへと順番に手渡していった。
「はい、どうぞ。みんなで仲良く食べてくださいね」
「わぁ、ありがとう!」
子供たちが大喜びで飴を口に運ぶ中、エナだけは大切そうに布袋を胸に抱きしめ、大事そうにポケットへと仕舞い込んでいた。
「エナさん、飴は食べないのですか?」
セリナが不思議に思って声をかけると、エナは少し頬を赤らめながら、はにかんだような笑みを浮かべた。
「あのね、これ、あとでレナードさんと一緒に食べようと思って! レナードさん、いつもお仕事でお疲れみたいだから、これできっと元気になってもらえるでしょ?」
「レナードさん……ですか?」
聞き覚えのない名前に、セリナは小首を傾げた。
(新しく入られた教会の職員の方でしょうか。いつもお疲れのその方のことを、エナさんはとても慕っているのですね)
子供らしい健気な気遣いに、セリナは胸の奥が温かくなるのを感じながら、エナの頭をそっと撫でた。
「ふふ、そうですね。きっと喜びますよ」
「うん!」
エナの屈託のない笑顔が、室内の温度をもう一段高めるようだった。
それからしばらくの間、静とセリナ、そしてツキは子供たちの面倒を見たり、他愛のないおしゃべりをしたりして過ごした。窓の外の影が少しずつ長く伸び始めた頃、静の懐の連絡板が、淡い光をふわりと灯した。
指先でそっと表面をなぞると、アリアの書き記した文字が淡く浮かび上がる。
【アリア:終わったよ、迎えに来て】
静はそっと指先を走らせ、短い返事の線を板の上に定着させる。
【静:了解、少し待ってて】
最後に指先で軽く押さえて送信を終えると、板は静かに、いつもの淡い輝きへと戻っていった。
「それじゃあシスター、私たちはそろそろお暇しますね」
「ええ、本当にありがとうございました、静さん、セリナさん。またいつでもいらしてくださいね」
子供たちに見送られながら教会を後にした一行は、フォルツの静かな路地裏へと入り、周囲に人影がないことを確認した。
「ツキ、セリナ、帰ろうか」
「にゃ」
「はい、静様」
静が空間に手を触れると、一瞬の浮遊感と共に、視界は大樹の根元のエリアコアへと切り替わった。そこには、カゴいっぱいに新鮮な野草や珍しい木の実を収穫し、満足げな表情を浮かべたアリアたちが待っていた。
「おかえり、静、セリナ。こっちも大収穫よ」
アリアが腕の中のあかねをぽんぽんと叩きながら笑う。リーナの足元では、マルが「ぷぷぅー」と、どこか得意げに胸を張っていた。ミレイアの胸元では、ルゥも満足そうに「くぅ」と目を細めている。
「みんなもお疲れ様。じゃあ、屋敷に戻って夕食の準備をしようか」
静の言葉に全員が笑顔で頷き、光の輪の中に溶けていった。
◆◆◆
空白地帯の屋敷に戻る頃には、空は美しい夕焼けの色に染まっていた。
キッチンのエリアには、パチパチと心地よい音を立てる竈の火の温もりと、アリアたちが収穫してきた香草を刻むみずみずしい香りが満ちていた。
静が慣れた手つきで大樹のみずみずしい野菜を切り分け、セリナがそれを手際よく鍋へと投入していく。ミレイアとルゥ、リーナとマルがそれぞれ並んで進捗を見守り、フィアとハルが楽しげに味見の列に並んでいる。
「うん! やっぱり静とセリナの作るスープは、匂いからして最高だね!」
「まだ煮込み始めたばかりよ、フィア」
アリアの呆れたような笑い声がリビングに響き、その足元であかねが「きゅぅ」と機嫌よさそうに鳴いた。
特別な事件も、大仰な英雄譚もここにはない。
ただ、誰かのために手を動かし、丁寧に暮らしを整え、美味しいねと笑い合う。そんな、いつもと変わらない、どこまでも穏やかで優しい夕暮れの時間が、屋敷の中にしっとりと満ちていくのだった。




