第十五話 鑑定の宝珠と再来の観察者
冒険者ギルドフォルツ支部の最奥にある、ひんやりとした空気が満ちる保管庫。
重厚な石壁に囲まれた部屋の中央に台座が据えられ、微かな青い光を宿した透明な『鑑定の宝珠』が置かれていた。
その前に立っているのは、王都の冒険者ギルドを統括するギルドマスター、フレイアである。
普段の冷静な表情を崩さぬままマジックポーチから、あの透明な殻に包まれた蜂蜜ボールを一つだけそっと取り出す。
「……さて、一応確認しておかないとね」
フレイアがそれを宝珠へとかざすと、澄んだ結晶の奥深くで文字がすっと浮かび上がった。
【品名:???の蜂蜜(神気の宿りし実り)】
【特性:極めて高い治癒効果を持つ最高位素材】
フレイアは思わず目を見開いた。
(――えっ……?ちょっと待って。鑑定結果が『???』って何よ……)
冒険者ギルドが保有する『鑑定の宝珠』は、王国でも最高峰の鑑定遺物の一つだ。伝説級の魔道具や古代遺跡の発掘品でさえ、おおよその正体くらいは映し出す。
それなのに――
(名前すら特定できない?)
視線が自然と下へ落ちる。
【特性:極めて高い治癒効果を持つ最高位素材】
その一文を見た瞬間、フレイアの背筋にぞくりと冷たいものが走った。
(そんな……正体不明なのに最高位素材……?)
(静さん、あなたという人は本当に……何を持ち帰ってきたのよ……)
その時、背後にわずかな気配を感じた瞬間、彼女は長年の経験で鍛え上げられた冷静な表情をその顔に張り付けた。
「どうなされましたか、フレイア様?そんな奥まったところで」
気配を察して様子を見にきたフォルツのギルドマスターが、不思議そうに声をかけてくる。
「ちょっと旅先で少し珍しい物が手に入ったから、個人的に調べていただけよ。心配要らないわ」
フレイアは何事もなかったかのように、極めて涼しい声でかわした。淡い光を落として静まり返る宝珠を一瞥し、彼女は『蜂蜜ボール』をマジックポーチの最も深い、厳重な区画へとそっと仕舞い込む。微かに残る甘い香りだけを保管庫に残し、フレイアは静かにその場を後にした。
◆◆◆
同じ頃、領主館の執務室。
窓辺の星霞草が淡い銀色の光を小さく揺らす中、フォルティナは行商から戻ったばかりの商団の主、リシェルと対面していた。テーブルの上にはセレニア交易で買い付けてきた納品目録が整然と並べられている。
「……以上が、今回のセレニア交易における公式な納品および報告書にございます、フォルティナ様」
栗色の髪を揺らし、リシェルがいつものように感情を排した、静かで的確な口調で告げる。一通りの事務的な手続きを終えた後、彼女は小さな手帳へと視線を落とし少しだけ声を潜めた。
「それと……先の報告以降の、継続していた調査についてもお伝えいたします」
フォルティナはそっとリシェルを見つめた。
「ご苦労様です、リシェル。何か変わりはありましたか?」
「はい。セレニアの市場でのあの一団は相変わらず、まるで『昔からの身内』であるかのように迎え入れられておりました。私なりに見立てを申し上げるならば――彼らは権力でも金でも策略でもなく、ただそこにいて笑っているだけで、何かを引き寄せております。意図して作れる調和ではございません」
フォルティナは小さく頷いた。
(それは前回の報告からも、変わらずのようですね……)
と、少し安堵にも似た気持ちを胸の内でそっと抱く。
一拍置き、リシェルの声が少しだけ低くなり、手帳を持つ指先がほんの一瞬止まる。
「……王都からの帰路、一人の男が護衛にと申し出てまいりました」
フォルティナの表情が静かに止まり、瞳だけがわずかに揺れた。
「野営地の焚き火の下で、その方が見せてくださったのは……教会の中でも、限られた御方しか持たぬという『黒銀の印章』です」
「……黒銀の、印章」
フォルティナが低く繰り返す。
「はい。それほどの御方が、身分を隠してまで単身フォルツへ向かわれる。正直、その意味を私はまだ測りかねております」
リシェルは一度、言葉を切った。
「その方はフォルツに着いてすぐ、迷わず教会へと足を向けられました。……表向きは『教会の駐在武官』としての着任のようですが。ただ、あの目は……何かをじっと見ようとしている目でした」
感情の読めない琥珀色の瞳が静かにフォルティナを見据える。
「それと、もう一つ。フォルツについての噂ですが、街道の商人たちの間では『フォルツに行けば体が楽になる』と、いつの間にか当たり前のように語られておりました」
フォルティナはしばし黙り込んだ。
(そんな、噂が……)
それ以上は言葉を継がず、リシェルはただフォルティナを見つめた。判断を急かすでも答えを求めるでもない、一歩引いた沈黙だった。
その静かな重みを受け止めながら、フォルティナは凛とした、けれど温かい笑みを浮かべ、そっと頷く。
「教えてくれてありがとう、リシェル。……噂とその方については、私の方でも改めて把握しておきます。決してフォルツに害をなす方ではないと思いますが、念のため、こちらでも目を配っておきましょう」
「承知いたしました。また何か情報がありましたら、ご報告いたします。」
リシェルは静かに一礼した。
フォルティナはデスクの上の星霞草へと視線を落とす。
(とは言え……静さんたちのことだから、いずれレナード殿とも街のどこかで自然に出会ってしまいそうですね)
おだやかな予感に、そっと胸の中で微笑んだ。
◆◆◆
その日の午後、フォルツの街の中央に聳える、古いけれど手入れの行き届いた厳かな教会。
静かな礼拝堂に、甲冑の擦れる金属音が小さく響いた。
「本日から、こちらで『教会の駐在武官』としてお世話になります、レナードです」
教会の司祭の前に立ち、レナードは辞令書を両手で丁寧に差し出した。
かつて中央の監察官としてフォルツを訪れた時のような、他者を威圧する冷徹な雰囲気はもうない。元来の彼の持ち味である、誠実で生真面目な声が礼拝堂の静寂に優しく染み込んでいく。
「一介の武官に過ぎませんが、私にできることがあれば掃除でも力仕事でも、何でもお申し付けください」
「おお、これは頼もしい。レナード殿、どうぞよろしくお願いいたします」
司祭が温和な笑みを浮かべて歓迎すると、レナードは小さく一礼し、あてがわれた教会の一室へと荷物を運び込んだ。
不器用ながらも一生懸命に汗を流し、逞しい背中で作業を続ける彼の姿を、少し離れた場所から、孤児院にいる十二歳の少女がじっと見つめていた。
彼女は薪割りを終えて息を吐いたレナードの元へとトテトテと駆け寄ると、恥ずかしそうに、けれどそっと、彼の服の裾を小さな指先でぎゅっとつまんで見上げた。
「レナードさん、すっごくかっこいいね……!わたし、もう少し大きくなったら……レナードさんのお嫁さんになってあげるね!」
「お、およ……っ!?」
その思いがけない言葉に、レナードはまるで強敵の奇襲を受けたかのように全身を跳ね上がらせた。
「な、なな……何を言うんだ君は!そ、そそ……それはだめだ!私は、聖職の末席に身を置く身であって……それに君はまだこどもじゃないか……」
「だめじゃないよ。私、もう十二歳だもん。あと三年したら大人だよ?」
と首を傾けながらレナードに問いかけた。
顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げ、手足をばたつかせて本気で慌てふためくレナード。
そんな彼の生真面目すぎる狼狽っぷりに、後ろで見守っていたシスターや周囲の子供たちから、楽しげなくすくすとした笑い声が、おだやかに広がっていった。
かつて世界を揺るがす陰謀を警戒していた冷徹な監察官は、今、このフォルツの街に満ちる、計算の合わない優しい調和の空気の中に、静かに、そして確かに溶け込み始めていた。
◆◆◆
そうした街の動きとは何も知らぬまま、屋敷の裏手に広がる菜園では、静がのんびりとした様子で土に膝をついていた。
「お、このトマトすごく良い感じに赤くなってるよ」
籠を傍らに置き、静が丁寧に蔓から実をもいでいく。傍らではセリナがしゃがみ込み、瑞々しい葉物野菜を根元から丁寧に摘み取っていた。
「静様、こちらのお野菜も、そろそろ食べ頃のようです」
「ほんとだ。じゃあ今日はこれで、何か作ろうか」
足元ではツキが「にゃ」と鳴きながら、静とセリナの間で楽しそうに尻尾をゆらしていた。
夕方、静は台所に立ち、バルドランから贈られたあの包丁を手に取った。柄を握ると、まるで自分の手の一部になったかのような、あの不思議な馴染みが指先に蘇る。トン、トン、と軽やかな音を立てて、収穫したばかりの野菜が手際よく刻まれていく。
「わあ、いい匂い!」
台所を覗き込んだフィアが声を弾ませると、肩の上のハルが「ひゅん」と機嫌よく鳴いた。
「もうすぐできるよ。ちょっと待っててね」
静は鍋の中身をゆっくりとかき混ぜながら、穏やかに笑う。
フォルツの街で静かに広がりつつある噂も、教会からの新たな視線も、この屋敷の温かいひと時の前に何一つ届いてはいなかった。




