第十四話 窓辺の星霞草と広がるお裾分け
大樹の果樹園での一泊二日の翌朝。春の陽気はさらに深まり、屋敷の周辺の森にも日ごとに色濃い緑が広がっていく。
その日の朝、アリアたちが日課の探索調査へと出発した後、キッチンには静とセリナの二人と足元のツキだけが残っていた。
「セリナ、大樹の蜂蜜ボール、まだたくさん残っているよね」
「はい、静様。とても大切に取ってありますよ」
「あれを使って蜂蜜飴を作ってみようと思うんだけど、どうかな?」
静がのんびりと提案すると、セリナが「蜂蜜飴ですか?」と嬉しそうに目を輝かせた。
「うん。砂糖と一緒に煮詰めて固めるだけでできるんだ。あの蜂蜜は身体に良さそうだし、飴にしておけば長持ちするから。甘いものは疲れが取れるから皆も喜んでくれると思ってね」
「まあ、素敵ですね。ぜひご一緒させてください」
二人は並んでキッチンに立ち、鍋の中に大樹の蜂蜜ボールをそっと割り入れ、砂糖と少量の水を加えてとろ火でゆっくりと煮詰め始めた。やがてキッチン全体に大樹の果樹園を思い出させるような、清らかで甘い香りがふわりと広がっていく。
「ふふ、この匂いだけで、あの大樹の木陰にいるみたいな気持ちになりますね」
「本当だね。……うん、いい具合に煮詰まってきた。これを型に流し込んで固めれば完成だよ」
静が手際よく小さな木型に飴を流し込み、セリナがそっと型を並べていく。しばらくして型から取り出した飴は、琥珀色の光を宿した美しい透明な小粒に仕上がっていた。
「綺麗……。まるで小さな宝石みたいですね」
セリナが感嘆の声を上げると、足元のツキが「にゃあ」と短く鳴いて顔を上げた。
「一粒味見してみようか。……うん、甘みが濃縮されて美味しい。後味がすごくすっきりしている」
「私も……まあ、本当に美味しいです。身体の奥から温かくなっていくような感じがしますね」
セリナがほんのりと頬を染めて目を細めると、静はのんびりと微笑んだ。
「よし、一番綺麗に出来上がったのをお供えしようか。疲れが取れるって伝えたら、きっと喜んでくれるよ」
セリナは丁寧に小皿へと飴を盛り付け、ツキと共に礼拝堂へと向かった。
「ルーナフィリス様。大樹の恵みの蜂蜜を使って、蜂蜜飴を作りました。甘いものは疲れが取れると静様がおっしゃっていました。どうぞ、お召し上がりください」
セリナが祭壇の前でそっと目を閉じると、小皿をふわりと柔らかな光の粒子が包み込んだ。光が静かに引いていくと同時に、すっと綺麗に消え去っていた。
「今日もしっかりと受け取っていただけましたね、ツキちゃん」
「にゃ」
ツキが短く喉を鳴らし、二人は満足げにキッチンへと戻った。
セリナが出来上がった蜂蜜飴を小さな袋に小分けしながら、ふと嬉しそうに顔を上げた。
「静様、これ……今度フォルツの街に行ったとき、孤児院や市場の小さな子供たちにお配りするのはいかがでしょうか? あの子たちはいつも静様のお菓子を喜んでくれますし、大樹の恵みが詰まった飴なら、きっと元気になってもらえると思って」
「あ、それいいね!せっかくだから、たくさん作っておこうか。子供たちの顔が浮かぶと、なんだかもっと頑張れる気がするよ」
「ふふ、私もです」
セリナが微笑みながら丁寧に袋を結んでいく。キッチンの窓辺には春の柔らかな日差しが差し込み、琥珀色の蜂蜜飴が小さな光を放つように輝いていた。
◆◆◆
同じ頃。領主館の執務室の窓辺では、静から贈られた星霞草が銀色の海のような柔らかな光を優しく揺らしていた。そのみずみずしい露の気配が室内に満ちているせいか、不思議と心が落ち着いていた。溜まっていた公務の書類を前にしても焦りはなく、フォルティナは一枚ずつ丁寧に目を通していく。
さらさらと小気味よい音を立てて書類を丁寧に捌いていると、静かにドアがノックされ、年老いた執事長のロベルトが静かな足取りで入ってきた。
「フォルティナ様。昼前に入った報告ですが、リシェル殿の商団がセレニアからの交易を終え、無事に街へ戻られたとのことです。明日にでも公式の報告と納品に館へ訪れたいと申しておりますが、いかがいたしますか?」
「リシェルが。ええ、無事で何よりです。明日の午後、時間を空けておきますのでお通ししてください」
「かしこまりました。それと……少々、気になる報告がございまして」
ロベルトが少しだけ声を潜め、落ち着いた声音で言葉を続けた。
「リシェル殿の商団ですが、道中の安全のために途中から腕利きの護衛を一名、急遽雇い入れたそうなのです。その人物の素性を調べさせましたところ……以前、当館に公式の監査で訪れた教会の監察官、レナード殿であったと判明いたしました。本人はフォルツに到着後、そのまま街の教会へと向かったとのことです。詳細は未だ不明ですが、こちらでさらに動向を調査いたしますか?」
ロベルトの言葉に、フォルティナはペンを握る手を一瞬だけ止め、窓辺の星霞草へと視線を向けた。
(レナード監察官が……。空白地帯の主である静さんや、自由聖女と噂され始めているセリナさんのことを、改めて確かめに来たのかしら……)
胸の奥に小さな警戒の火が灯るが、以前に厳しい監査の末、このフォルツ領の在り方に独自の畏敬を抱いて誤解を解いてくれていた生真面目な彼を思い出し、フォルティナは静かに首を振った。
「いいえ、ロベルト。私たちは何も隠す必要はありませんから、調査には及びません。いつも通り、おだやかに様子を見ましょう」
「承知いたしました。さすがの御裁量でございます」
ロベルトが深く一礼して退室した後、フォルティナは懐から薄く光る連絡板を取り出し、別の公務でギルドフォルツ支部にいるフレイアへと短く事情を綴って送信した。
【フォルティナ:リシェルの護衛にレナード監察官がいたそうです。ひとまず様子を見ますね】
ほどなくして、気安い親友からの返信が連絡板に灯る。
【フレイア:了解。あの生真面目男ね。ギルド側でも妙な動きがないか、それとなく目を光らせておくわ】
連絡板の淡い光が消える。外側の世界がどれほど静かに揺れ動こうとも、自分たちのすべきことは変わらない。フォルティナはすっきりと前を向き、再び目の前の書類へとペンを走らせるのだった。
◆◆◆
夕方前、すべての公務をやり遂げたフォルティナとフレイアは、マジックポーチを手に領主館の広い調理場へと向かった。
出迎えた料理長のフレンツの前でフレイアがポーチから、大樹の上で収穫したばかりのツヤツヤとした真っ赤なトマトやキュウリ、大粒のナッツ、果実を次々とテーブルに並べていく。
「フレンツ。これは昨日静さんからいただいたお裾分けです。今日の夕食にフレンツに教わりながら、私たちも一緒に一品作ってみたくて」
「おやおや、領主様とギルドマスターが直々に料理でございますか。……それにしても、このトマトとキュウリ、昨日いただいたものもそうですが、やはり恐ろしいほど見事な張りですね。分かりました、腕によりをかけてお教えいたしましょう!」
料理長が楽しそうに腕をまくり、二人に手際よく包丁の手つきや火の入れ方を教えていく。
フレイアが「私の経験通り、トマトはこうして少し表面を炙るのよ」と器用に火を操り、フォルティナがキュウリを丁寧にざく切りにしていく。その足元ではサンが「ぴぴっ!」と小さく跳ね、ルナも「くぉん」と尻尾を振って、ちょこんと並んで微笑ましい味見役を務めていた。
「ほら、サン。まだ熱いから、ふーふーしてからね」
フレイアが小さく刻んだトマトを冷まして差し出すと、サンは嬉しそうに小さなくちばしでつつき、ルナもフォルティナの手からナッツを貰って幸せそうに咀嚼している。
そんな二人の楽しげな様子と、調理場に広がる夏野菜の瑞々しく香ばしい匂いに、手伝っていた従僕や、様子を見にきた執事長のロベルトたちも、自然と目元を和ませていた。
「フレンツ、これだけの量がありますから、館の皆さんや騎士団の方々にも、ぜひ全員で分けて食べてくださいね。美味しいものは、みんなで分かち合うのが一番ですから」
フォルティナが静から学んだお裾分けの精神のままに微笑むと、料理長をはじめ、周囲の使用人たちは一瞬だけ驚き、それから深く、心からの感激を込めて頭を下げた。
「……ありがたき幸せにございます、フォルティナ様。皆、大喜びでいただきます」
ただ命令されて動くのではない。領主自らが調理場に立ち、見事な恵みを「みんなで」と分け与えてくれる。その飾らない優しさと深い配慮に館の使用人たちの胸には、フォルティナたちへの温かな信頼と、揺るぎない忠義の念がより一層深く静かに染み渡っていくのだった。
その日の夜、領主館の詰所では、お裾分けのサラダを口にした騎士たちが一様に目を丸くし、嬉しそうに声を弾ませていた。
「おい、このトマトの美味さは一体なんだ? 身体の芯から疲れが抜けていくようだぞ」
「しかもこれ、フォルティナ様とフレイア様が直々に調理場で腕を振るってくださったらしい」
「な、なんだって……!? あの見目麗しいお二人からの手料理だと……?」
騎士たちは不敬にならないよう声を潜めつつも、完全に舞い上がっていた。
「それにしても、最近のフォルティナ様、さらにお綺麗になった感じだよな」
「分かるわ。以前の凛としたお姿も素敵だったけれど、最近ふと見せる柔らかな笑顔なんか、本当にとても魅力的よね」
男性の騎士も女性の騎士も、誰もが嬉しそうに頷き合う。領主館を支える部下たちの間で、二人に対する慕う気持ちと忠義は、この美味しい一皿をきっかけにますます高く広がっていくのだった。
そんなこととは露知らず、食堂の席についた二人は、ルナとサンを隣の椅子に座らせ、自分たちの手で作った一皿を口に運んでいた。
「――美味しい……! 自分で調理すると、なんだか一段と美味しく感じられるものね」
フレイアが目を輝かせてサラダを頬張る。
「ええ、本当ですね、フレイ。大樹の風を思い出すようです。……ふふ、今度お屋敷へ行くときは、手料理のレパートリーをもう少し増やして、静さんたちにも私たちが振る舞ってみるというのはどうかしら?」
「それ、最高じゃない! アリアやリーナたち、どんな顔をするかしらね」
「ふふ、フィアなんか飛び跳ねて喜ぶんじゃないですか?」
フォルティナが楽しそうに笑うと、フレイアも「間違いないわね!」と声を上げて応じる。そんな楽しい未来の相談を交わしながら、ルナとサンと一緒に美味しい実りを囲む夕食の時間は、どこまでも穏やかに流れていった。
◆◆◆
その日の夜。
すっかり静まり返った私室で、ナイトドレス姿に着替えたフォルティナとフレイアは、それぞれのベッドの上で連絡板を開き、空白地帯のお屋敷にいる静へと、交互に楽しげな報告を書き込んでいた。
【フォルティナ:静さん、昨日はありがとうございました。頂いたお裾分けを使ってフレイと一緒に料理長に教えてもらいながら一品調理したんですよ?】
淡い光が瞬き、メッセージが吸い込まれていく。すぐにフレイアが楽しそうに指先を動かした。
【フレイア:静さん、そうなの、二人で調理して館の皆にも振る舞ったのよ? 自分で作るといつもより美味しく感じられて、すっごく楽しかったわ!】
二人がお互いの画面を覗き込んでくすくすと笑っていると、少しの間を置いて、お屋敷の陽だまりをそのまま運んできたかのような、静からの自然な返信が届いた。
【静:昨日はお疲れ様。二人で調理したんですね、楽しそうで良かった。カゴの実りも喜んでもらえて嬉しいです。また今度、あそこに行ったら何か一緒に作ってみましょうか】
ただそれだけの、飾り気のない、穏やかな言葉。
けれど画面を見つめる二人の胸には、まるで大樹の泉の水のように、温かで清らかな安心感がじんわりと満ちていく。
「ふふ、また今度、ですね……」
フォルティナは嬉しそうに呟き、連絡板をそっと枕元に置いた。
ベッドの端では、ルナがすでに丸くなって小さな寝息を立てている。窓の外に広がるフォルツの静かな夜空を見上げながら、彼女たちは次の約束というおだやかな余韻に包まれ、心地よい眠りへと、ゆっくりとついていくのだった。




