第九話 前夜の息吹とお裾分けの支度
それは大樹の上で新たなエリアコアが解放され、フォルティナたちと一泊二日のお泊まり会と果樹園散策が決まった翌朝のことだった。お屋敷の朝は今日も澄んだ空気と穏やかな緑の匂いに包まれて幕を開けた。
「それじゃあセリナ、少しセレニアの朝市まで食材を買いに行こうか」
「はい、静様。歓迎会のための珍しいお野菜や香辛料、たくさん仕入れてまいりましょうね」
静が右手を軽くかざすと、柔らかな光の粒子が二人を包み込み、一瞬にして交易の熱気に満ちたセレニア自治連邦の市場の周縁部へと転移した。一方、お屋敷に残った《ルミナ・ヴェール》のメンバーも朝から大忙しだった。アリアとフィアは屋敷近くの森へ出向いて瑞々しい山菜や野苺をカゴいっぱいに摘み、リーナとミレイアは畑で夕食用の新鮮な野菜を収穫していく。足元ではルゥが「くぅ」と耳を揺らして先導し、マルが「ぷぅ」と鳴きながらふかふかの土を調律していた。
昼前には全員がお屋敷へと戻り、リビングと台所は一気に賑やかな熱気に包まれた。「アリア、そのお野菜はもっと細かく刻んでね」「任せなさい!」と賑やかな声が響くなか、今夜の主役であるルナとサンのための特別なデザートの仕込みが手際よく進められていくのだった。
◆◆◆
料理が一通り仕上がった頃、セリナがツキを連れて静かに礼拝堂へと向かった。今日セレニアで仕入れた新鮮な食材と、大樹の果樹園で採れた果実を使った料理を、まず最初にお届けするためだ。
「ルーナフィリス様。今日、セレニアで仕入れた食材と、大樹の果樹園の恵みを使って、ルナとサンのための歓迎会のお料理ができました。歓迎会のお料理の中から、一皿をお届けします。どうぞ、お召し上がりください」
セリナが祭壇の前でそっと目を閉じると、盆の上の料理をふわりと柔らかな光の粒子が包み込んだ。光が静かに引いていくと同時に、すっと綺麗に消え去っていた。
「今日もしっかりと受け取っていただけましたね、ツキちゃん」
「にゃん」
ツキが短く喉を鳴らし、二人は満足げにリビングへと戻るのだった。
◆◆◆
同じ頃、フォルツの領主館の執務室では、普段の冷静な仮面をかなぐり捨てたフォルティナとフレイアが、凄まじい速度でペンを走らせていた。
「――これで明日までの決済書類はすべて完了です……!」
フォルティナがふぅ、と小さく息を吐き出し、薄紫色の美しい髪を揺らして立ち上がる。その向かい側では、フレイアもギルドから持ち込んだ緊急書類の束を完璧に片付け、満足げに笑みを浮かべていた。一泊二日の極上の休暇をもぎ取るための、二人の執念の結晶だった。
旅装を調え、腕の中にルナとサンをそっと抱き上げたフォルティナは、執務室の前に控えていた老執事へと向き直った。その手には支配者層や高位の教会関係者のみが所持を許されている、鈍い魔力の光を帯びた短文通信の魔道具が握られている。
「ロベルト、留守中の領内を頼みますね。万が一、私の判断が必要な緊急事態が起きた場合はこれで連絡を入れなさい」
「かしこまりました、フォルティナ様。どうぞ道中、お気をつけて」
老執事が深く頭を下げるのを見届け、二人は密かに胸を躍らせながら領主館を後にし、まずは転移の目印となる「上弦の宿」へと馬車を走らせた。
◆◆◆
日が傾きかけた夕暮れ時。上弦の宿の一室に到着したフォルティナは、はやる気持ちを抑えながら、持参した連絡板を取り出す。指先にほんの少しだけ魔力を込め、滑らかな表面を柔らかくなぞるようにして文字を紡いでいく。
【フォルティナ:静さん、お仕事の準備が調いました。いつもの宿に到着しております】
板の端を指先で軽く押さえると、文字がすっと光に変わって消えていった。すぐに板がふわりと瞬き、穏やかな文字が返ってきた。
【静:了解。それじゃ、今から行くよ】
その文字を確認した直後、室内の空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれた。光が優しく引いたときには、静がのんびりとした笑顔で佇んでいた。
「お待たせ、二人とも。仕事を急がせてしまって悪かったね」
「いえ! 静さん、お迎えありがとうございます!」
フレイアが本当に嬉しそうに声を弾ませ、サンの薄黄色の羽毛が「ぴぴっ!」と元気に揺れる。フォルティナの腕の中のルナも「くぉん」と落ち着いた声で鳴きながらも、嬉しそうに白銀の尻尾をパタパタと振っていた。静が再び右手をかざすと、三人と二匹は一瞬にしてあの陽だまりの広がる屋敷のリビングへと帰還した。
「フォルティナさん、フレイアさん、お帰りなさいませ!」
セリナが黒晶の髪飾りを揺らして満面の笑顔で出迎える。食卓には、セレニアで仕入れた新鮮な食材を使った豪華な大皿料理が所狭しと並べられ、食欲をそそる温かな湯気が立ち上っていた。
「くぅん……」
「ぴぴっ」
お屋敷の床に降り立ったルナとサンは、最初は初めて見る広いリビングに少しだけ身をすくめていたが、すぐにツキが「にゃあ」と優しく喉を鳴らして歩み寄り、新しい妹たちの匂いを丁寧に嗅ぎ始めた。あかねも「きゅ!」と短い尻尾を振り、ルゥやハル、マルも興味津々で近づいていく。やがて安心したのか、幼獣たちはリビングの絨毯の上で一塊の大きなもふもふの塊のようになってじゃれ合い始め、ルナが「くぅん」と甘えた声を漏らしてツキの脇腹に頭をすり寄せれば、サンもハルの背中の上にちょこんと乗って「ぴぃ」と満足げに目を細めていた。
「ふふ、みんなすっかり仲良しさんですね」
セリナが微笑みながら、ルナとサンの前へ特製のおやつ皿をそっと置いた。新鮮なミルクに細かく刻んだ果実が混ぜられたそれを見た二匹は、目を輝かせてペロペロ、もぐもぐと夢中で食べ始める。
「まあ、ありがとうございます、セリナさん。この子たちのためにこんなに丁寧に……」
フォルティナが感謝の目をセリナへと向けると、セリナは「お役に立てて嬉しいです」と穏やかに微笑んだ。同じ黒晶の髪飾りを持つ二人の間に、言葉では語られない静かな温もりがそっと流れる。
「まぁ……本当に可愛らしい。毎日これほど穏やかで温かい時間を過ごせるなんて、静さんのお屋敷はやはり特別ですね」
「本当ね。ティナ、あれだけ頑張って書類片付けた甲斐があったわね」
フォルティナとフレイアもお互いに近い距離でそっと寄り添い、美味しい料理とお茶を味わいながら、すっかり肩の力を抜いて少女のような笑顔を咲かせていた。夜の静寂がお屋敷を優しく包み込むなか、小さな家族たちの賑やかな鳴き声と笑い声は、いつまでも温かく響き渡るのだった。




