第八話 遠き観測者たちの足音
ルミエール王国の王都ルミエール、その中央区画に厳かに佇む大聖堂の一室。世界の魔力循環や神気の変動を監視するため、何世代にもわたり稼働し続けている大型の魔導器が、その時、かつてない清らかな調和の波形を描きながらかすかに、けれど美しく部屋の空気を震わせた。
「ほぼ同時刻に、二つの神気反応が観測されたというのか」
中央監察局の執務室に集まった上層部の男たちは、騒ぎ立てるような真似こそしなかったが、重々しい緊張の面持ちで手元の記録用紙を見つめ合っていた。観測された方角は、大陸の不変の特異点――人族の立ち入りを拒む空白地帯の領域だった。
「これ以上の不用意な干渉は、神々の触れてはならぬ領域に踏み込む危険がある。しかし……何が起きているのか、その実態だけは正しく把握せねばならん」
その決定に伴い一人の男が部屋へと呼び出された。監察官レナード。かつて自由聖女への不用意な接触を避けるよう進言し、遠きよりの静観を提唱した男だ。
「レナード監察官。貴殿に『教会の駐在武官』としての公的な役職を拝命する。ただちに隣接するフォルツ領へと赴き、周辺の治安維持を名目としつつ、あの領域の動向を正しく調査・観察し、中央へ報告せよ」
「――御意。過度な接触を避け、遠きよりの観測を継続いたします」
レナードは冷静に頭を下げ、懐に黒銀の印章を静かに忍ばせた。名前も姿も知らない、あの空白地帯の奥に佇むという領域の主。大陸の命運を左右しかねないその特異点の存在を心の中で静かに警戒しながら、レナードは一人、旅装を調えて速やかに王都を立つ。
◆◆◆
同じ頃、空白地帯の屋敷では静とセリナが、明日の歓迎会の準備を穏やかに進めていた。
「フォルティナさんたちが来るの、楽しみですね。ルナとサンにも会えますし」
セリナが微笑みながら丁寧に食器を並べていくと、静が「うん、みんなで賑やかになりそうだね」とのんびり答えた。足元のツキが「にゃ」と短く鳴いて、その言葉に同意するように黒い尻尾を揺らす。暖炉の前ではマルが「ぷぅ」と満足げに丸くなっており、ルゥがミレイアの膝の上でうとうとしていた。あかねだけはまだ元気で、アリアの足元をぽてぽてと歩き回っては「きゅ」と短く鳴いていた。
「セリナ、明日のお弁当に使う食材、もう少し揃えておきたいんだけど……また明日の朝、少しだけセレニア朝市に行ってみようか」
「はい、ぜひ。きっとフォルティナさんもフレイアさんも、あの景色を見ながら食べるお弁当を喜んでくださいますよ」
台所から漂う温かな食材の香りと、小さな家族たちの穏やかな気配に包まれながら、屋敷の夜はゆっくりと深まっていった。
◆◆◆
王都からフォルツ領へと続く街道沿いには、日が暮れる前の穏やかな茜色の光が差し込んでいた。街道の脇に広がる開けた野営地では、セレニア自治連邦での大規模な取引を終えた商人リシェルが、手際よく自身の商団の馬車を止め、夜を明かすための焚き火に火を灯していた。パチパチと薪が爆ぜる音を聞きながら、リシェルは愛用の手帳を開き、私的な観察日誌に目を落とす。
(あのセレニアで出会った、黒髪の青年と黒晶の髪飾りの少女……)
ただ美味しい鍋を囲んで笑っていただけなのに、偏屈な最高鍛冶匠たちの心をも完全に融かしてしまった、あの奇妙な一団。フォルツに戻って領主であるフォルティナにその報告をした際、そしてフォルツの街を商いで回るなかで、リシェルは自身の目で見た一団の特徴と、驚くほど一致する奇妙な噂話を何度も耳にしていた。
(あの一団は確実にフォルツの周辺に深く関わっている。またあの街へ戻り、じっくりと情報を仕入れれば……あるいは、また彼らに遭遇できるかもしれないわね)
商人としての、そして一人の観察者としての純粋な好奇心を胸に、リシェルがスープの鍋を火にかけようとした、その時だった。
夜の帳が降りる直前の薄暗い街道の向こうから、一人の旅人が静かに歩み寄ってきた。無駄のない引き締まった足取り、一人旅とは思えないほどに隙のない佇まい。その男――レナードはリシェルの商団の紋章を確認すると、穏やかな、けれど格式を感じさせる声でリシェルに声をかけた。
「夜分に失礼する、商人の御方。私はフォルツへと向かっている旅の者だが、今回は単独の旅ゆえ、もしよければ貴殿らの商団に護衛の一人として合流させてもらえないだろうか。旅の費用、あるいは道中の安全については相応の力を尽くすことを約束しよう」
リシェルはすっと目を細め、目の前の男を値踏みするように見つめた。これほど腕の立ちそうな男が、一人でフォルツを目指している。商人としての警戒心がチクリと痛むのを覚えながら、リシェルは静かに問いかけた。
「……丁重なお申し出ですが、当商団は信用を第一としております。見ず知らずの旅人をお連れするわけにはいきません。あなた様の身元を証明できるものは、何かお持ちですか?」
レナードはその言葉を想定していたように、小さく頷いた。そして衣服の内側へと手を伸ばし、一つの小さな印章を取り出す。それは、鈍い輝きを放つ、精緻な黒銀の印章だった。レナードが指先に微量な魔力を流すと、印章の奥から、教会の真なる神気が宿った淡い清らかな光がぽつりと浮かび上がる。
「――っ」
リシェルは思わず息を呑み、椅子から立ち上がりかけた。どの国家であっても偽造は不可能であり、万が一にも偽証すれば即座に極刑に値する、本物の教会の聖印。それも、表舞台で人々を導く上級司祭たちの白金ではない。教会の陰、世界の調和と法を監視する特務の象徴たる、格式高い黒銀の印章だ。
(教会のこれほど高位の御方が、わざわざ身分を隠すような旅装で、一人でフォルツへ向かっているというの……?)
リシェルは内心の動揺を商人としての完璧な微笑みの下に隠し、深く一礼した。
「失礼いたしました、教会の高位なる御方。その真なる聖印、確かに確認いたしました。これほどの御方が道中の護衛に加わってくださるのなら、我が商団にとってこれ以上の安心はありません」
「感謝する。私の身分については、道中はただの『一人の傭兵』として扱っていただけると助かる」
「ええ、もちろん分かっております。我々も明日、フォルツの街へ向けて出発いたします。どうぞ、我が商団の馬車をお使いください」
お互いに決定的な腹の内、一人は世界の均衡を揺るがす特異点としての空白地帯の観測、一人はあの奇妙な一団へのあくなき追跡を隠したまま、二人は焚き火の光の中で静かに握手を交わした。
遠き観測者たちは静かにフォルツの街へと歩みを進めていた。。その外側の緊張を露ほども知らない空白地帯の屋敷では、今夜もただ、新しい家族を迎えるための温かな灯りが灯ろうとしていた。




