第七話 雲の上の果樹園と見えない大樹
静の声に引かれて大樹のウロの前に集まった一行は、発光する苔に照らされた不思議な石階段を見上げ、それぞれに驚きの声を上げていた。
「へえ、大樹の中にこんなに綺麗な階段が隠されていたなんて、本当に不思議ね」
ミレイアが感心したように長い耳を揺らす。静はツキを肩に乗せたまま、のんびりとみんなを振り返った。
「上のほうがすごく明るいんだよね。ひょっとして、これ上まで行けたりするのかな。せっかくだし、みんなで少し登ってみない?」
「さんせー! フィア、一番に登る!」
フィアの元気な声を合図に、一行は並んで石階段を歩き始めた。最初は小さな家族たちも「きゅ!」「くぅ」と声を弾ませ、楽しそうに自前の足でトコトコと段を登っていた。しかし、大樹の階段は一段ずつの高さがそれなりにあり、小さな彼らにとってはなかなかの大仕事だった。
「にゃあ」
静の肩の上のツキは特等席で涼しい顔をしていたが、足元では、マルが短い前足を一生懸命に伸ばしながら「ぷぅ……ぷぅ……」と少しむくれたように鳴き、段を登るのに大苦戦していた。
「……もう、仕方ないわね。ほら、おいで」
その様子を隣で見ていたリーナが、小さく苦笑いを浮かべながら屈み込んだ。いつもは「気のせいよ」と言いながらもマルのことを一番に気にかけている彼女は、丸い身体をそっと両手で抱き上げ、自身の胸元で優しく包み込む。マルは嬉しそうに「ぷぷぅー」と喉を鳴らし、リーナの腕の中にすっぽりと収まった。アリアやフィアも、それぞれあかねやハル、ルゥを優しく抱き上げ、おんぶするような形で歩みを進めていく。
長い階段の途中、壁面には長い年月を経て薄れかけた、古い絵のようなものが描かれていた。大樹や精霊の姿を模したようなその意匠に、魔術師としての好奇心を刺激されたリーナは、思わず立ち止まってじっと見入ってしまう。
「リーナ、いつまでも見てると置いてっちゃうよー!」
少し先を行くフィアが振り返り、悪戯っぽく笑いながら声をかけた。
「分かっているわよ。……でも、この魔力の巡りと壁画の関連性が、少し気になるのよね」
リーナはそう言いながらも手帳を片手に慌てて皆の後を追いかけ、そんな二人の賑やかなやり取りに、静やセリナもクスリと表情を緩めていた。
やがて、かなりの高さを登ったところで、少し広めの踊り場が見えてきた。
「みんな、結構登ってきて疲れたし、ここで少し休憩にしようか」
静はそう言うと何もない空間へとそっと手をかざし、屋敷から持参していた冷たい飲み物が入った水筒と、甘い焼き菓子の籠を取り出した。《ルミナ・ヴェール》の面々も今さら驚くことはなく、「助かるわ」と笑顔でクッキーを受け取っている。瑞々しいお茶と甘いお菓子で喉と身体を潤し、すっかり疲れを癒した一行は、再びゆっくりと歩き始めた。
それからしばらく進むと、ついに上部に眩しい春の光の出口が見えてきた。外へ出た瞬間、全員がその圧倒的な絶景に目を見張った。
「な、何これ……! 木の上、なのよね、ここ……?」
アリアが呆然とした声を漏らす。そこは、世界樹の上部にある、驚くほど太い大枝の上だった。大きめの屋敷が庭付きで建てられそうなほどの広大な平地が広がっており、その上には、まるで絨毯のように、一面に淡いピンク色の花弁が敷き詰められている。
「ふにゃあ……」
この素晴らしい空間を前に、腕から降りた幼体たちが大喜びで動き出した。あかねが小さな丸い翼をパタパタと羽ばたかせて花弁の海へ飛び込み、ハルとルゥがそれを追いかけるように縦横無尽に走り回る。マルが楽しそうにゴロゴロと転がれば、ツキが「にゃっ」とそれを見守りつつ、自身もぴょんぴょんとさらに上の枝へと軽快に登っていく。もふもふたちの楽しそうな大運動会を、静はのんびりと目を細めて眺めていた。
「にゃん!」
すると、一段高い枝の上にいたツキが、何かを見つけたように賢く短く鳴いた。静が歩み寄ると、太い枝の根元、花の絨毯にひっそりと佇む古い祠があった。その奥に静かに収まっていたのは、眠りについている休止中のエリアコア。
静が特に深く考えず、そのコアにそっと指先を触れる。次の瞬間、コアの煤がさらさらと消え去り、コアは宙へふわりと浮き上がって柔らかく眩い光を放ち始めた。大樹の枝葉が一斉に嬉しそうにざわめき出す。それがお屋敷のメインコアへと無事に接続されたことを、静には自然と感じることができた。
「またなの……?」
ミレイアが呆然と呟く。
「祠の地下でルナとサンが見つかったと思ったら、今度は世界樹の頂上で休止中のエリアコア……。本当に、静の周りでは常識では考えられないことばかり起きるわね」
リーナが手帳を抱えたまま感嘆のため息を吐くなか、当の静の目は、そこら中に実っている「巨大な果実」に釘付けになっていた。
一つは、ほんのり赤みを帯びた、桃にそっくりな果実。もう一つは、透き通るような紫色の、大粒のブドウのような果実。
「うわぁ、美味しそうな果物がいっぱいだ。みんな、少し休んで食べてみようか」
静は手近な枝からいくつかの果実を収穫し、手際よく切り分けて花弁の絨毯の上に広げた。まずは桃のような果実をアリアが一口、口に運ぶ。
「――っ!? 何これ、桃かと思ったら、リンゴみたいにサクッとシャリッとしてる! なのに果汁がすごくて、ものすごく甘い!」
「本当ね……。こっちのブドウみたいなのは、すごくさっぱりした酸味。でも、このもちもちで弾力のある食感が不思議な歯ごたえだわ。クセになりそう」
リーナも目を丸くして未知の美味しさを堪能している。サクッ、シャリッ、もちもちとした未知の食感に、小さく切り分けてもらった幼体たちも「にゃあ!」「きゅぅ!」と大喜びで夢中に口を動かしていた。
「はぁ、美味しかった……。なんだか、ここまで登ってきた疲れが全部吹き飛んじゃったわね」
アリアが花弁の上に大の字に寝転がり、満足そうに息を吐いた。太い枝の端まで行けば、かなり高い場所で見晴らしがよく、空の色は少しずつ、穏やかな夕暮れの気配を帯び始めている。
「うわあ……! すごい、遠くまでよく見えるよ!」
フィアが身を乗り出すようにして歓声を上げ、あかねが嬉しそうにその足元で「きゅぅ」と小さな羽をパタパタと動かしていた。セリナもまた、集めた果実の籠を抱えながら、穏やかな絶景に目を細めている。
静が「本当に綺麗な夕焼けだね」と微笑む中、リーナだけは一人、触れていた樹皮からそっと手を離し、遥か地平線の方角を凝視していた。
(……おかしいわ)
風に揺れる前髪の奥で、リーナは小さく眉をひそめる。この木は、天を衝くほどに大きく広がっている。人族の街や王都のどんな建造物よりも巨大な、世界の屋根とも言えるほどの大樹だ。これほど圧倒的な存在がここに聳え立っているのなら、何十キロも離れたフォルツの街からでも、天に向かって伸びるこの淡い桜色の枝葉が見えていなければ絶対におかしい。
(なのに、なぜ今まで誰も気が付かなかったのかしら……?)
自分たちが外側からこの空白地帯を調査していた時、こんな大樹の影など、どこにも見えなかった。あの丘に登るまで誰一人としてこの存在を認識すらできなかった。木の根元へと近づいた時感じた、まるで世界の境界線を跨いだかのような独特な温かい空気。まるで世界そのものがこの大樹の存在を「隠している」かのような――。
「リーナ、どうしたの? 綺麗な夕焼けだよ」
静に声をかけられ、リーナはハッと我に返った。
「え、ええ……本当に綺麗ね。ちょっと、景色の広さに圧倒されちゃって」
リーナは精一杯いつもの調子を装って微笑みながら、背中に伝わる微かな悪寒を、誰にも気づかれないよう静かに飲み込んだ。
「今日はこれくらいにして、お屋敷へ戻ろうか。また明日来ればいいしね」
静の穏やかな言葉にみんなが頷き、静が意識するだけで、一行は一瞬にして空白地帯の温かな屋敷へと帰還したのだった。
◆◆◆
その日の夜。夕食を終え、リビングで温かいハーブティーを飲みながら、静は連絡板の前に立った。セリナが淹れてくれたお茶の香りが穏やかに漂う中、静は指先に魔力を込めて文字を紡ぐ。
「そうだ、今日の『大樹の果実園』のこと、フォルティナさんたちにも教えてあげようかな」
【静:フォルティナさん、フレイアさん、この間の大きな木の上に行ってみたら、広い枝の上に美味しい桃やブドウみたいな果物がたくさん実っていました。良かったら今度一緒に行きませんか?】
板の端を指先で軽く押さえると、文字がすっと光に変わって消えていった。ほんの数分もしないうちに、連絡板がふわりと瞬く。
【フォルティナ:木の上に果実園ですか……!? 静さんの見つけるものは本当に驚きばかりです。ぜひ、ルナも連れて伺わせていただきたいです!】
「あはは、フォルティナさん、喜んでくれたみたいだね」
足元のツキが「にゃあ」と短く鳴いて静を見上げた。その黒い瞳に促されるように、静はふと考え込んだ。明日、フレイアが仕事を急いで終わらせてからこちらへ来るとなると、少しバタバタしてしまうかもしれない。それに、せっかくルナとサンという新しい小さな家族たちが初めてお屋敷に揃うのだ。
間髪入れずに連絡板が再び光を放った。今度は、どこか焦ったような、勢いのある文字が躍る。
【フレイア:ちょっと待って、サンが文字を見た瞬間に私の頭の上で大騒ぎしてるわ! 『絶対に連れてって!』って言ってるみたい。明日、お仕事早めに終わらせるから絶対に迎えに来てね!】
文字からでも伝わってくるフレイアの慌てぶりと、彼女の頭の上で羽をバタつかせて怒っているであろうサンの姿が目に浮かび、静は思わず声を上げて笑ってしまった。
(それなら……いっそのこと、ゆっくりしていってもらった方がいいよね)
静は小さく微笑むと、再び連絡板へと指先を滑らせた。
【静:それなら明日はお仕事が終わったら、そのままお屋敷にみんなで泊まりませんか? 夜にルナとサンの歓迎会をして、翌日の朝から『大樹の果樹園』へ行きましょう】
板の端を指先で軽く押さえると、文字がすっと光に変わって消えていった。するとまた間もなく、二人の嬉しそうな返信が次々と紡がれた。
【フォルティナ:お泊まりですか……! 本当にありがとうございます。お言葉に甘えて、明日の夕方にはお邪魔させていただきますね。ルナも今から嬉しそうに尻尾を振っています】
【フレイア:いいわね、お泊まり。きっとサンもルナも喜ぶわ。仕事が終わったら、いつもの宿へティナと行くから、お迎えお願いね】
静は微笑み、すぐさま最後の返信を丁寧に指先でなぞっていく。
【静:了解。夕方、準備が出来たらいつもの宿で連絡してくれれば迎えに行きますね。それじゃ、また明日】
板の端を指先で軽く押さえると、文字がすっと光に変わって消えていった。
静が連絡板の前から離れると、台所からセリナが新しく温かいお茶を手に戻ってきた。
「賑やかになりそうですね、静様」
穏やかに微笑むセリナの声に、静はのんびりと「そうだね」と答えながら湯呑みを受け取った。
明日の夜は、お屋敷で賑やかなもふもふ歓迎パーティー。そして翌朝はみんなでお弁当を作って、あの素晴らしい大樹の果樹園へ。フォルティナやフレイア、小さな家族たちも全員一緒の賑やかな二日間を心待ちにしながら、静は穏やかな夜の静寂へと、ゆっくりと意識を委ねていった。




