第四話 領主の一日、少女に返る夜
朝の柔らかな光が、領主館の広い執務室に差し込んでいた。机の上に美しく整頓された、いくつかの書類の束。その一番上の羊皮紙に、フォルティナは慣れた手つきでペンを走らせ、さらりと自身のサインを綴っていく。
「――これで、午前中の分の決済はすべて終わりですね」
ふう、と小さく息を吐き出したフォルティナは、薄紫色の美しい髪を軽く揺らして椅子の背もたれに体を預けた。その向かい側には王都から戻って以来、ギルドの激務の間を縫って彼女を支えている親友――フレイアが、大量の資料を腕に抱えて笑みを浮かべていた。
「お疲れ様、ティナ。本当に見事な仕事の早さね。……やっぱり、数日後の『あの予定』があるから、いつも以上に気合が入っているのかしら?」
「な、何を言うのですか、フレイ。私は常に領主として、最善の速度で公務を執行しているだけです」
フォルティナはすっと表情を正したが、ほんの少しだけ耳の端が赤くなっているのを、親友の鋭い目線は見逃さなかった。「はいはい、そういうことにしておくわ」とお茶目に笑うフレイアを少しだけ睨みつけながら、フォルティナは立ち上がった。
「さあ、午後からは領内の定期視察です。行きましょう。……フレイ、昨日用意しておいた『あれ』も忘れないでくださいね」
「ええ、もちろん。ちゃんと馬車に積んであるわよ」
フレイアが楽しそうにウィンクする。フォルティナは少し照れくさそうに微笑み、執務室を後にした。
◆◆◆
春の風が吹き抜けるフォルツの街並みは、活気と穏やかな熱気に満ちていた。市場の一角では、屋敷から株分けされた星霞草が大切そうに育てられている。かつてこの街を悩ませていた慢性的な水不足は、静から贈られた特別な結晶の力で整えられた大井戸によって完全に解消され、今や街全体の治安や雰囲気は、以前とは比べものにならないほど劇的に良くなっていた。
「領主様、いつもありがとうございます!」
行き交う商人や住民たちが、フォルティナの姿を見つけると誰もが親しげに、視線を交わして深く頭を下げる。フォルティナは領主としての冷静な、けれどどこか温みのある微笑みを返し、彼らの健やかな暮らしをその目で確かめていった。
冒険者ギルドでの報告を終え、フレイアは手元の報告書に目を通しながら、ここ数ヶ月でフォルツへの依頼件数が穏やかに増加していることに気づいていた。街の活気が増した分、人の行き来も多くなっているのだろう。以前よりも質の高い仕事を求める冒険者が増え、ギルドの雰囲気そのものが落ち着いて見える。
(……あの屋敷の影響は、本当に静かに広がっていくのね)
フレイアはそっと手帳を閉じた。数字や報告書では捉えきれない、穏やかで確かな変化が、この街に根付いていることを実感しながら。
◆◆◆
一行が最後に訪れたのは、街の端にひっそりと佇む教会、そしてそこに併設された孤児院だった。
「――おかげさまで、子供たちの衣服や食事も十分に足りております。すべては領主様の深いご慈悲の賜物です」
老神官が深く頭を下げる中、フォルティナは「皆が健やかに暮らせることこそが、私の願いですから」と静かに告げ、領主としての公費とは別に、一人の個人として手厚いお布施の入った袋をそっと差し出した。
視察の公務が一段落したその直後、奥の庭から小さな足音がいくつも響いてきた。
「あ! 綺麗なおねえさんだ!」
「おねえさん、また来てくれたの!?」
わっと群がってきたのは、孤児院の小さな子供たちだった。フォルティナは驚きに少しだけ目を見開いたが、すぐに領主の冷静な仮面を柔らかく緩め、本当に優しい少女のような笑みを浮かべてその場にかがみ込んだ。
「ええ、こんにちは。みんな、元気に暮らしていましたか?」
そう語りかけながら、フォルティナはフレイアが馬車から運んできてくれた籠を受け取った。中には、可愛らしく小分けされた小さな袋がたくさん並んでいる。
「実はみんなにプレゼントがあるのです。どうぞ」
手渡された袋を開けた子供たちが、一斉に歓声を上げた。中に入っていたのは、甘い香りを漂わせるサクサクとした焼き菓子だった。それは前日の夜、フォルティナがフレイアに材料の調達を頼み、公費を一切使わず、すべて自身の私費で購入した素材を使って、二人で夜遅くまで領主館の厨房に立って手作りしたものだった。形は少し不揃いだけれど、心を込めて焼き上げられたお菓子。
(静さんが以前振る舞ってくださった焼き菓子を思い出しながら、少しだけ真似てみたのです。上手くできていると良いのですが……)
そんな思いを胸に抱きながら、フォルティナは子供たちの反応をそっと見守った。
「うわぁ、すっごく美味しい!」
「あまくて、サクサクしてる!」
「まぁ、気に入ってくれて良かったです」
小さな手のひらを両手でそっと包み込み、目線を合わせて分け隔てなく言葉を交わしていく。子供たちから「綺麗で優しいおねえさん」と心から慕われ、きらきらとした笑顔を向けられるフォルティナの姿を、フレイアは少し離れた場所から、温かい目を細めて静かに見守っていた。
(お屋敷で静さんたちから貰った温もりを、ティナはこうして街の子供たちへお裾分けしているのね……。本当に優しい子)
帰りの馬車に戻る道すがら、フレイアがふとこっそりと呟いた。
「……私も、明日が楽しみなのよね」
その一言に、フォルティナが「フレイも、ですか?」と少し驚いて振り返ると、フレイアはただ悪戯っぽく微笑んでいた。フォルティナは一瞬きょとんとしてから、そっと視線を前に戻し、「……そうですね」と小さく微笑んだ。
◆◆◆
夜。領主館の執務室。
深夜、静寂が領主館を深く包み込んでいた。机の上に山積みにされていたすべての書類には、完璧に決済の判が押されている。数日間の公務の前倒し、そして明日の予定のための完璧な段取り。領主としての仕事をすべて、一点の曇りもなく終わらせたフォルティナは、誰もいない執務室で一人、大きく伸びをした。
「……終わりました」
ぽつりと溢した声は、いつもの冷静な領主のものではなく、どこか遠足を控えた子供のような、弾んだ響きを帯びていた。
フォルティナはそっと自らの髪に触れ、そこに留まる黒晶の髪飾りの、滑らかでひんやりとした感触を指先で確かめた。窓から差し込む春の夜光を受けて、深い黒の結晶が静かに美しい光を返している。
(明日……いえ、もう今日ですね。静さんが見つけてくださった、綺麗な花が咲く場所へ……)
連絡板に刻まれていた静の優しい文字を思い出すだけで、胸の奥がじんわりと甘く熱くなる。普段の激務であれば、ベッドに入ればすぐに眠りにつくことができるはずだった。今日の彼女はどうしても落ち着かなかった。
寝室へ戻り、ナイトドレスに着替えてベッドに横たわってみるものの、何度も寝返りを打ってしまう。目を閉じても、静ののんびりとした笑顔や、あのお屋敷の温かな団らんの光景が頭に浮かんでしまい、胸の高鳴りがどうしても収まらないのだ。
「……これでは、本当に子供のようですね」
ブランケットを胸元まで引き上げ、フォルティナは一人、暗闇の中でぽっと頬を赤く染めて小さく呟いた。普段は領地と数万の領民の命をその両肩に背負う、冷静で聡明な領主。けれど、あの絶対的な陽だまりを想うときだけは、彼女はすべての重責を忘れ、ただ一人の大切な人を思い浮かべて胸を躍らせる、等身大の少女へと戻ってしまうのだった。
窓の外では春の優しい夜風がカーテンを静かに揺らしている。数時間後に訪れる、あの愛おしい陽だまりの時間を心待ちにしながら、フォルティナは髪飾りの温もりをそっと胸の奥に抱きしめ、ようやく幸せな夢の中へとゆっくりと落ちていくのだった。




