第三話 世界樹の木陰と古い祠の祈り
南東の未踏領域へ足を延ばし始めてから、一週間が経とうとしていた。毎日、朝食を終えた後に静が右手をかざして柔らかな光の粒子を巡らせ、一瞬で前日の続きの場所へと戻る。そんな規格外の日帰り散歩を繰り返すうち、一行は原生林のさらに奥、なだらかに切り立った見晴らしの良い丘へと辿り着いていた。
「空が近くて気持ちいいわね。静、あそこからなら森が一望できそうよ」
アリアが新調した網を片手に丘の頂を指差す。静はツキを肩に乗せたまま笑って頷き、みんなの足取りに合わせてのんびりと丘を登り詰めた。その頂に立ち反対側の斜面を見下ろした瞬間、全員が思わず足を止めて息を呑んだ。
「……嘘、でしょう……?」
リーナの手から、いつも記録を書いていた手帳が危うく滑り落ちそうになる。丘の裏側に広がっていたのは、人族の街や王都のどんな建造物よりも巨大な、一本の大樹だった。その枝葉は天を衝くほどに大きく広がり、そこには数え切れないほどの淡い桜色の花が、まるで美しい春の雲のように咲き乱れている。
「すごいな……こんなに大きな桜に似た木があるなんて」
静が純粋に感嘆の声を上げ、その大樹に向かって一歩を踏み出す。木の根元へと近づいていくと、ふいに、肌を撫でる空気がふわっとした独特な温かさに変わった。まるで世界の境界線を跨いだかのような、ごくわずかな抵抗。
その瞬間、魔力や神気に敏感なセリナ、ミレイア、リーナの三人が、ピリッとした空気の壁に圧倒されるような強い違和感を覚えて一斉に足を止めた。静の足元を歩いていたツキやあかね、ルゥたちも、一斉に耳をピクピクと動かして今しがた通り抜けた空間を鋭く振り返る。それは普通の術者であれば触れた瞬間に精神を焼き切られるほどの最高位の防護結界だが、静たちのただ春の景色を愛でにきた、どこまでも無欲な気配に反応したのか、空気の壁は歓迎するように優しく溶けてしまっていた。
ただ一人、その防護結界を何事もなく完全に素通りした静だけが、みんなが足を止めているのに気づいて不思議そうに首を傾げた。
「ん?みんなどうかしたの?」
「……なんでもないわ」
リーナが引き攣った笑みを浮かべて首を振る。一歩足を踏み入れれば、そこは一面の淡い桜色が降る別世界だった。風が吹くたびに舞い散る花びらが、足元の青い草を優しく染めていく。
(淡いピンク色の大きな木……この神聖な魔力の巡り……まさか……)
ミレイアは震える指先で、自身の長い耳の端をそっと押さえた。この木が放つ圧倒的な生命力を敏感に感じ取っている。リーナもまた冷や汗が背中を伝うのを覚えながら、おとぎ話で聞いた『ダークエルフの古い伝承』を思い出していた。
(世界を支え、万物の魔力を調律するという、神話の『世界樹』……。ううん、まさかね。そんな伝説の存在が、人知れずこんな場所に残っているなんて普通はあり得ない。でも――静の周りなら、あり得てしまうのが一番困るのよね……)
二人は心の奥で凄まじい驚愕に襲われながらも、あまりの規格外さにそれ以上考えるのをやめ、必死に自己完結していた。
◆◆◆
「にゃあ」
静の肩からトントンと軽やかに飛び降りたツキが、大樹の張り出した大きな根元へと歩いていく。そして、苔むした根の隙間を小さな前足で示し、短く「にゃ」と鳴いた。見ればそこにはひっそりと眠る、淡く煤けた休止中のコアがあった。
「よく見つけたね、ツキ」
静が優しく笑ってそのコアにそっと触れる。次の瞬間、コアの煤が一気に剥がれ落ちるように消え去り、コアは宙にふわりと浮き上がりながら、柔らかく眩い光を放ち始めた。大樹の枝葉が嬉しそうに一斉にざわめき出す。静自身は「お、綺麗に光ったね」とのんびり眺めているだけだったが、背後にいたセリナやリーナ、ミレイアの三人は、足元の地下を流れる大地の魔力と精霊の道が、驚くほど強固に、そして美しく整っていく圧倒的な余波を肌でひしひしと感じ取り、ただただ息を呑んでいた。
「静様、あちらを見てください」
コアを見届けていた静に、セリナが声をかけた。大樹の根元から少し離れた木陰に、長い年月ひっそりと佇んでいたのであろう、小さくて閉ざされた古い祠が残されていた。長年の埃や枯れ葉に覆われているが、どこか厳かな佇まいを残している。
「せっかく見つけたんだ。場所を使わせてもらったお礼に、少し綺麗にしていこうか」
「はい、喜んで」
静の提案に、みんなが自然と腕をまくった。アリアとフィアが周囲の大きな枯れ枝を退け、ミレイアが小さな風を操って積もった埃を優しく吹き飛ばす。その時、フィアの肩の上でハルが「ひゅるぅ!」と羽を大きく広げ、ミレイアの風魔法に合わせて積もった埃を遠くへ吹き飛ばした。リーナが手帳を片手に「ここを拭くと綺麗になるわよ」と指示を出し、セリナは持参していた清潔な布巾で、祠の木肌を丁寧に、心を込めて拭き上げていった。
足元ではマルが「ぷぅ、ぷぷぅー」と鳴きながら、祠の周りの土を「ぽむぽむ」と前足で叩いてふかふかに整えている。ルゥも「くぅ」とロップイヤーのような垂れ耳を揺らし、あかねも「きゅ!」と長い尻尾を振って、みんなの作業を楽しそうに見守っていた。
すっかり見違えるほど綺麗になった古い祠の前で、セリナはそっと手を合わせ、寄り添うように目を閉じた。何の見返りも求めない、ただこの美しい場所と古い出会いへの、本物の、純粋な祈り。その聖らかな光が祠を優しく包み込み、大樹の木陰に静かな調和をもたらしていく。
「よし、一通り綺麗になったね。セリナ、本当にここは素敵な場所だね」
静は周囲の満開の桜を見上げ、のんびりと笑った。「今度、公務が一段落したフォルティナさんやフレイアさんを誘って、みんなでここにピクニックに来ようか」
「ええ、きっとお二人とも、とても喜んでくれると思います」
セリナが黒晶の髪飾りを揺らして微笑む。一行は、春の美しい陽だまりを心に焼き付け、右手をかざした静の光の粒子に包まれて、夕方前にお屋敷へと帰宅した。
◆◆◆
夕食の支度が整う前に、セリナがツキを連れて礼拝堂へと向かった。
「ルーナフィリス様。今日、南東の森で見つけた春の恵みをお届けします。とても美しい大きな木と古い祠に出会えたことへの感謝も込めました。どうぞ、お召し上がりください」
セリナが祭壇の前でそっと目を閉じると、小皿に盛った春の恵みをふわりと柔らかな光の粒子が包み込んだ。光が静かに引いていくと同時に、すっと綺麗に消え去っていた。
「今日もしっかりと受け取っていただけましたね、ツキちゃん」
「にゃ」
ツキが短く喉を鳴らし、二人は満足げにリビングへと戻るのだった。
◆◆◆
夕食を終えて一息ついた静は、リビングの壁に掛けられた連絡板の前に立っていた。指先にほんの少しだけ魔力を込め、滑らかな表面を柔らかくなぞるようにして、文字を紡いでいく。
【静:南東に綺麗な花が咲く場所を見つけました。今度みんなでピクニックに行きませんか?】
板の端を指先で軽く押さえると、文字がすっと光に変わって消えていった。
お茶を一杯飲み終えるかどうかの時間だった。連絡板がふわりと瞬き、滑らかな文字が驚くほどの速さで書き込まれていった。文字の形から、彼女がどれほど筆を弾ませているかが伝わってくるようだった。
【フォルティナ:ぜひ、ご一緒させてください。フレイとも予定を合わせ、その日を何よりの楽しみにしています。素晴らしいお誘いをありがとうございます】
「あはは、お仕事、ちょうど片付いたところだったのかな。喜んでもらえて良かった」
静はのんびりと微笑み、温かいお茶をもう一口ゆっくりと含んだ。
その頃、フォルツの領主館の執務室では、書類の山と格闘していたフォルティナが、連絡板の光に気づいた瞬間、思わず顔をほころばせていた。隣でフレイアが「ティナ、その顔」と悪戯っぽく目を細めると、フォルティナは「……なんでもありません」と素早く答えながら、しかし口元の笑みだけはどうしても隠しきれないでいた。
窓の外では春の始まりを告げる優しい夜風が、お屋敷の木々を静かに揺らしている。数日後に訪れる賑やかな遠足の時間を想像しながら、静は温かいお茶をもう一口ゆっくりと含んだ。




