第二話 西の未踏領域と春の食材巡り
はじめての天ぷらを囲んだ賑やかな晩餐から、数日が過ぎた。空白地帯に満ちる春の陽気は日ごとに色濃くなり、屋敷の裏手に広がる畑の土は、触れると生き物のように温かい。静はここ数日、台所と畑の往復をのんびりと楽しんでいた。天ぷらで使用した山菜の根元を、土壌の調律が進んだ庭の隅へそっと植え直してみたり、バルドランから譲り受けた醤の壺を開けては、大豆の香ばしい匂いに目を細めたり。
「静様、お疲れ様です。お茶を淹れ直しました」
縁側の木床に腰掛けていた静に、セリナがお盆を手にそっと近づいてきた。その髪で黒晶の髪飾りが、春の柔らかな光を浴びてしっとりと黒い光沢を放っている。
「ありがとう、セリナ」
静は笑って湯呑みを受け取り、温かいお茶を口に含んだ。鼻腔を抜ける爽やかな草の香りに、張り詰めていた肩の力が綺麗に融けていく。その足元では、マルが短い前足をふんばって、ふかふかと柔らかく波打つ土に鼻先を埋めていた。「ぷぅ、ぷぷぅー」と満足そうに喉を鳴らすマルの丸い頭を、静は空いた手で優しく撫でる。
「アリアたちは、フォルティナさんからの依頼の方、そろそろ一段落したかな」
「ええ、フレイアさんが王都へ行かれている間、フォルツの冒険者では手に負えない上級の魔獣が動いたとかで……。ですが、《ルミナ・ヴェール》の皆さんなら、もう無事に戻られている頃だと思います」
セリナは静の隣に座り、自身の湯呑みをそっと両手で包み込んだ。
「みんなが戻ってきて、数日休んだら未踏領域へ行ってみようか。せっかくの春だし、一週間くらいかけて、美味しい食材を探しながらのんびり歩いてみたいんだ」
「はい。静様と一緒なら、どんな新しい景色が見られるか、とても楽しみです」
静の曇りのない笑顔に、セリナは小さく微笑み返した。その膝の上では、ツキが漆黒の毛並みを揺らしながら「にゃあ」と静かな声で鳴き、丸くなっている。額の黒結晶がちいさく瞬き、静の体温を確かめるように深い呼吸を始めていた。
◆◆◆
翌日の午後。リビングの壁に掛けられた連絡板が、淡く一瞬だけ光を放った。
気付いた静が歩み寄り、その滑らかな表面を見つめる。指先でなぞったような淡い光の線が定着し、メッセージが浮かび上がっていた。
【アリア:無事依頼が終わったんで、いつもの宿に迎えに来てもらえる?】
「お、終わったみたいだね」
静は小さく笑うと、魔力を込めながら指先で連絡板を柔らかくなぞり、文字を紡いでいく。
【静:お疲れ様、それじゃぁ今から迎えに行くよ】
板の端を指先で軽く押さえると、静が右手を軽くかざした。空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。光が収まった瞬間、静の姿はフォルツの街にある「上弦の宿」の、アリアたちの部屋へと一瞬で転移していた。
「お待たせ。みんな、お疲れ様」
「わっ、本当に一瞬ね。いつもながら助かるわ、静」
特殊依頼の疲れを少しだけ覗かせながらも、アリアが嬉しそうに笑う。静が再び右手をかざして光の粒子を巡らせると、次の瞬間には、五人は荷物ごとお屋敷の暖かいリビングへと無事に戻ってきていた。
◆◆◆
それから数日後。すっかり疲れの癒えた《ルミナ・ヴェール》の面々を交え、リビングの円卓でお茶を囲んでいた時のことだ。
「みんな、身体の疲れはもう大丈夫? 実はね、明日から一週間くらいかけて、西の未踏領域へ春の食材探しに行こうと思っているんだ」
静がのんびりと切り出すと、お茶を飲んでいたリーナが目を輝かせ、手帳をパッと開いた。
「西の未踏領域ね。静、それなら良い提案があるわ。私、ここが空白地帯になる前の古い地図や、昔の文献をいくつか見たことがあるのだけれど……」
リーナはペン先を地図の南東の一点へと向け、フッと微笑んだ。
「このお屋敷から見て南東の方向に、この時期になると、とても綺麗な花が咲く場所があるみたいよ。淡いピンク色の大きな木があるって記述が残っていたわ」
「へえ、淡いピンク色の花か……それは見てみたいね」
静が興味深そうに頷くと、傍らにいたセリナも嬉しそうに微笑む。
「素敵ですね。フォルティナさんやフレイアさんが公務を終えられたら、お誘いしてピクニックに行くのにも、最高の場所になりそうです」
「そうだね。じゃあ、明日からの探索は、その綺麗な花が咲く場所を目指しながら、のんびり食材を探してみようか」
「さんせー! フィア、美味しいものいっぱい見つける!静に料理してもらうんだ!」
フィアが元気よく手を挙げると、その頭の上でハルが「ひゅん!」と嬉しそうに風を巻いた。こうして、お屋敷の「一週間の贅沢な春の散歩」の計画が賑やかに決まった。
◆◆◆
翌朝から、一週間をかけた南東の未踏領域への探索が始まった。とはいえ、通常の冒険者のような悲壮感は一切ない。
「……本当におかしな森ね」
道中、リーナが手帳の魔力密度を測りながら小さく呟いた。「本来なら、この深度は凶悪な上位魔獣の縄張りのはずなのに。魔物の気配が、綺麗に消えているわ」
リーナの言葉に、アリアは苦笑して手にした網を肩に担ぎ直した。彼女たちは気づいていない。静の肩でのんびり欠伸をするツキや、あかねたちの放つ圧倒的な神気に、周囲の魔物たちが息を殺して逃げ出していることに。
「わあ……! 静、見て! あそこに赤い実がいっぱいなってる!」
フィアの鋭い視線が、巨木の根元に群生する果実を見つけた。ミレイアがその実を覗き込み、わずかに目を見開いた。その傍らで、ルゥが「くぅ」と澄んだ声を上げて鼻先をひくひくと動かし、果実の近くに清らかな水脈があることを感じ取ったように、そっと西側の岩場の方へ耳を向けた。
「ルゥ、何かある?」
ミレイアが視線を追うと、岩場の隙間から細い湧き水が滲み出ていた。底まで透けて見えるほど澄んでいる。「くぅ」とルゥが短く鳴き、ミレイアの腕の中で満足そうに目を細めた。
「まあ、こんな深い森の中に綺麗な湧き水が……ルゥが見つけてくれたのね。ありがとう」
ミレイアが微笑んでルゥの柔らかな耳をそっと撫でると、リーナが湧き水の方へ歩み寄り、手帳に「西方向・岩場湧水・純度極めて高い」と素早く書き留めた。
「それでこの果実なのだけれど……」リーナが改めて赤い実を観察して口を開いた。「上位の回復薬師が一生に一度見られるかどうかという、極めて純度の高い魔力を宿した希少な果実よ。それが、こんなに雑草みたいに群生しているなんて……」
「へえ、綺麗なイチゴみたいだね。少し摘んで、今夜のデザートにしようか」
静は全く物怖じすることなく、腰を落として手際よく赤い実を摘むと、持参した布袋へと手際よく収めていった。
「リーナ、これってそんなに珍しいものなら、お屋敷の庭でも栽培してみようか。いくつか株分けして持って帰るね」
静がのんびりとシャベルを取り出し、いくつかの株を優しく掘り起こして持参した木箱へと丁寧にしまっていく。その光景を見て、リーナは呆れたような、けれどどこか楽しげな苦笑いを浮かべた。
(……きっと、あの屋敷の庭なら、すぐにでも何事もなかったように新しい実を付けちゃうんでしょうね)
リーナが手帳に「規格外の株分けを記録」と書き留めていると、足元でその様子を見ていたマルが、胸を張るように「ぷぅ!」と短く鳴いた。まるで「任せて!」と得意げに言っているようなその姿に、アリアたちも思わず笑みをこぼす。
◆◆◆
夕方前、太陽が傾き始める時間帯。
「よし、今日はこのあたりまでにして、お屋敷に帰ろうか」
静が穏やかな声でそう言い、右手を軽くかざした。次の瞬間、周囲の空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。光が優しく収まったときには、全員が屋敷の見慣れた、暖かいリビングへと戻っていた。この一瞬での「日帰り」を毎日繰り返すことこそが、彼らの探索をただの贅沢な散歩に変えている、最大の規格外だった。
夕食の支度が整った頃、セリナがツキを連れて静かに礼拝堂へと向かった。今日初めて見つけた春の恵みを、まず一番にお届けするのが、お屋敷の大切な習慣だった。
「ルーナフィリス様。今日、南東の森で美しい赤い果実を見つけました。みんなで今夜いただく前に、まずお届けします。どうぞ、お召し上がりください」
セリナが祭壇の前でそっと目を閉じて祈ると、小皿に盛った果実をふわりと柔らかな光の粒子が包み込んだ。光が静かに引いていくと同時に、果実はすっと綺麗に消え去っていた。
「今日もしっかりと受け取っていただけましたね、ツキちゃん」
「にゃん」
ツキが短く喉を鳴らし、二人は満足げにリビングへと戻るのだった。
◆◆◆
その日の夕食後。リビングの竈の火がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜる中、静は昼間に見つけた瑞々しい春の野草と、バルドランの醤を取り出し、手際よく大鍋へと投入していた。料理が一番美味しい状態のまま沸き立つスープは、瞬く間に濃厚な旨味の湯気を立て始める。
「静の作るスープは、本当に身体が喜ぶわね」
アリアが長椅子に深く背もたれを預け、差し出された器を両手で受け取りながら目を細めた。「街の宿で食べるどんな高級料理よりも、森を歩いた後の身体に染み渡るのよね。ねえ、ミレイア」
「ええ、本当よね。森の冷気で少し強張っていた体の中を、温かな魔力が優しく巡っていく感じがするわ。静、いつもありがとう」
ミレイアが柔らかな笑みを浮かべ、スープをゆっくりと口に運ぶ。その腕の中でルゥが「くぅ」と満足げに喉を鳴らしていた。
その隣で、セリナは静の隣に座り、昼間に摘んだ赤い果実を綺麗に洗って小皿に並べ、静の前へとそっと置いた。
「ありがとう、セリナ。本当にセリナがいてくれると、どこに行っても、お屋敷に帰ってきても落ち着くなあ。いつも助かっているよ」
静はのんびりとした笑顔でセリナを見つめた。その眼差しにある曇りのない温もりに、セリナも柔らかく微笑みを返す。
「静、おかわり! フィア、あの赤い実のやつ、もっと食べたい!」
「はいはい、フィアの分もあるからね。ルゥもあかねも、みんなで分けて食べよう」
静がフィアたちに優しく声をかけ、ふと自分の隣へと視線を戻した、その時だった。
「にゃ、にゃにゃ……っ」
小さな、けれど明らかに興奮を隠しきれない鳴き声が聞こえてくる。普段はみんなのお姉ちゃんとして一歩引いて落ち着いているツキが、小皿の赤い果実に小さな顔をうずめ、我を忘れてもぐもぐと夢中で実を口に運んでいた。額の黒結晶が仄かに明滅している。極めて純度の高い魔力を宿した果実は、どうやらツキの好みにぴったりだったらしい。
「あ、ツキ、口のまわりが真っ赤だよ? そんなに美味しかったんだね」
静が苦笑しながら指先でツキの口元をそっと拭ってあげると、ツキはハッと我に返ったように動きを止め、「……にゃ」と少しだけ気恥ずかしそうに、いつもの澄ました声を装って静の手に頭を擦りつけた。
「ふふ、ツキったら本当に美味しそうに食べるわね。リーナが驚くわけだわ」
アリアが楽しそうに笑うと、お皿を囲んでいたあかね達も、競い合うように小さな口で実をかじり始める。あかねが「きゅ!」と声を弾ませて尻尾をぱたぱた振り、マルが「ぷぅ……ぷぷぅー」と得意げに一鳴きして、リーナの足元でころんと横になった。
静の優しく無欲な声と、小さな家族たちの賑やかな気配が、夜のお屋敷の中にぽつんと温かな明かりを灯していく。明日もまた、朝食を食べたら一瞬で今日の続きの場所へ戻る。静たちは春の穏やかな探索を、ただ笑い合いながら深めていくのだった。




