第一話 雪融けの風と、はじめての天ぷら
空白地帯の深い森を吹き抜ける風が、いつの間にか湿り気を帯びた柔らかなものへと変わっていた。屋敷の周りを白く閉ざしていた雪は綺麗に融け去り、黒々とした豊かな土が顔を覗かせている。その庭の隅々では、賢王から贈られた希少種である星霞草や、あの緑の季節に芽吹いた瑠璃星草が一斉にみずみずしい新芽を伸ばし、春の訪れを告げるように青々と輝いていた。
「すっかり暖かくなったな」
静は縁側に出て大きく息を吸い込んだ。土と若い草の匂いが鼻先を優しくくすぐる。畑の様子を見回していると、足元で漆黒の毛並みを揺らしたツキが「にゃあ」と機嫌よさそうに喉を鳴らし、静の脛に体をすり寄せてきた。
「静様、おはようございます。ふふ、ツキも春の風が嬉しいみたいですね」
お盆に温かいお茶を載せてリビングから現れたセリナが、穏やかな笑みを浮かべる。その髪には静が手作りしてくれた黒晶の髪飾りが、春の柔らかな陽光を浴びて透き通るような美しい黒の光を放っていた。
「おはよう、セリナ。うん、これだけ暖かくなってきたら、お屋敷に籠もっているのも勿体ないね。みんなで近所の山や川へ、春の食材でも採りに行こうか」
「まぁ、素敵ですね。ぜひご一緒させてください」
静の提案に、セリナは嬉しそうに目を輝かせた。その会話を聞きつけたのか、リビングの奥から《ルミナ・ヴェール》の面々や、小さな家族たちが一斉に飛び出してくる。
「行く行く! 静、春の美味しいもの、フィアがいっぱい見つける!」
フィアが元気よく手を挙げると、その肩に乗ったハルが「ひゅん!」と声を弾ませて小さな羽を羽ばたかせた。夕日の色をしたあかねも「きゅ!」と鳴き、ルゥも「くぅ」とロップイヤーのような垂れ耳を揺らして静の足元を嬉しそうに回り始める。
こうして、お屋敷の一行は籠を手に、春の息吹が満ちる近くの山林と清流へと、のんびりとした足取りで出発した。
◆◆◆
春の山は宝物の宝庫だった。少し歩けば木の根元や斜面に、ひょっこりと顔を出したふきのとうや、芽吹いたばかりの若芽が見つかる。
「静、これ食べられる?」
「お、それはコシアブラだね。天ぷらにすると最高に美味しいよ、フィア」
「てんぷら!」
フィアはぱっと耳を動かした。
(てんぷら? なんだろうそれ。でも静が作るなら、絶対に美味しいよね!)
期待に声を弾ませるフィアの傍らで、博識なリーナがその植物をじっと観察し、手帳にペンを走らせながら口を開いた。
「静がコシアブラって呼んだこれ、こちらでは『星雫の若芽』って呼ばれている希少な香草よ。タラの芽も街では『鬼針草』の高級食材として扱われているわ。まさかこんなに群生しているなんてね……」
普通なら山奥の限られた場所でしか採れないような山菜ばかりだというのに、空白地帯では当たり前のように群生している。
静たちにとっては見慣れた光景だったが、一般的な常識で考えれば十分に異常な豊かさだった。
リーナの足元ではマルがぽてぽてと短い足で歩き、ふかふかになった春の土を「ぽむ」と前足で叩いては満足そうに「ぷぷぅー」と鳴いていた。やわらかく耕された土の感触が気に入ったのか、場所ごとに立ち止まっては丁寧に叩いて確かめている。リーナがちらりと見下ろして「……ええ、ここの土も良いわね」と小さく頷き、手帳にまた何かを書き留めた。
フィアとあかねが競い合うように草むらをそわそわと歩き回り、さらに足を伸ばした清流の泉では、アリアが鋭い視線で水面を見つめていた。バルドランに研ぎ直してもらった愛剣ではなく、静が用意した手製の網を器用に扱い、銀色に輝くみずみずしい川魚を次々とすくい上げていく。
「大漁に獲れたわよ、静」
「ありがとう、アリア。これだけあれば、今夜は贅沢な食卓になりそうだね」
籠いっぱいの春の山菜と、桶の中で元気に跳ねる銀色の川魚を抱え、一行は夕暮れ前に大満足でお屋敷へと帰還した。
◆◆◆
屋敷の台所では、パチパチと油が軽快に爆ぜる心地よい音が響き渡っていた。
静はバルドランから贈られた包丁を握り、まな板の上で山菜の根元を小気味よく切り落としていた。驚くほど滑らかに刃が通り、素材を一切潰すことなく、みずみずしい断面が綺麗に並んでいく。
「本当に使いやすい包丁だな……バルドランさんには感謝しないと」
そんな独白を溢しながら、静は手際よく水気を切った山菜に薄く衣を纏わせ、熱した油の中へとそっと滑り込ませた。じゅわあ、と小気味よい音が広がり、台所が一気に香ばしい香りで満たされる。セリナはその隣にぴったりと寄り添い、揚がったばかりの天ぷらを素早く網の上へと受け止めていた。
「静様、川魚の方も綺麗に衣が付きました」
「ありがとう、セリナ。じゃあ、それも揚げていこうか」
二人の息の合った共同作業によって、大皿には黄金色の衣を纏った春の山菜と川魚の天ぷらが山のように積み上げられていった。
料理が一通り仕上がった頃、セリナはそっと一番綺麗に揚がった天ぷらを大皿に盛り付けた。
「静様。まずルーナフィリス様にお供えしてまいりますね」
「うん、よろしく。お茶も新しく淹れたから、一緒に持っていって」
静がのんびりと笑って盆を手渡すと、セリナは丁寧に盛り付けた天ぷらと温かいお茶を乗せ、ツキを連れて静かに礼拝堂へと向かった。
静謐な空気が満ちる礼拝堂で、セリナは祭壇の前にそっと盆を置き、目を閉じた。
「ルーナフィリス様。今日、みんなで春の山へ出かけ、初めての天ぷらができました。一番最初に揚がった、春の恵みをお届けします。どうぞ、お召し上がりください」
次の瞬間、祭壇の上の盆をふわりと柔らかな光の粒子が包み込んだ。光が静かに引いていくと同時に、香ばしい湯気を立てていた天ぷらもお茶も、跡形もなくすっと綺麗に消え去っていた。
「今日もしっかりと受け取っていただけましたね、ツキちゃん」
「にゃん」
ツキが短く喉を鳴らし、二人は満足げにリビングへと戻るのだった。
◆◆◆
リビングの円卓には、春の恵みで作られた天ぷらが大皿に山盛りになって並んでいた。
「うわぁ……! サクサクしてて、すっごく美味しい!」
最初にふきのとうの天ぷらを口に運んだフィアが、サクッときれいな音を響かせて頬を緩めた。ハルも「ひゅるぅ!」と嬉しそうに風を巡らせる。アリアも川魚の天ぷらを大きく一かじりし、その身の締まり具合に目を細めた。
「衣が羽のように軽いのに、噛んだ瞬間に山菜のほのかな苦味と、川魚のジューシーな旨味が溢れてくるわ。ミレイア、これ本当にお箸が止まらなくなるわね」
「ええ、本当よね。静の料理は、いつ食べても身体の芯から魔力が綺麗に整っていく感じが分かるわ」
ミレイアが温かいお茶をすすりながらエルフとしての深い感性で微笑み、リーナも「この衣の調合、揚げ時間と温度管理が完璧ね……」ともぐもぐしながら手帳に何かを書き留めていた。足元のマルが「ぷぅ」と満足げに鳴いて、リーナの膝元にどすんと腰を落とした。
ツキやあかねたちも、静が小さくほぐしてくれた川魚の身を、お行儀よく美味しそうに食べている。あかねが「きゅ!」と声を弾ませて尻尾をぱたぱた振り、ルゥが「くぅ」と満足げに喉を鳴らした。
そんな賑やかな円卓の中で、セリナは静のすぐ隣に座っていた。いつもよりほんの少しだけ距離が近い。セリナは静の湯呑みのお茶が少なくなっているのに気づくと、そっとお皿を回しながら、自然な手つきで新しいお茶を注ぎ足した。
「静様、お茶をどうぞ。それから……あ、口元に少しだけ、衣がついていますよ?」
セリナは小さく微笑み、手元にあった清潔な布巾を差し出す。その仕草はどこか甲斐甲斐しく、一人の女の子としての淡い気遣いに満ちていた。
「お、ありがとうセリナ。本当にセリナは気が利く、良い子だなあ。いつも助かるよ」
静は少しも疑うことなく、心からのんびりとした笑顔でセリナを見つめた。その眼差しにあるのは、純粋な信頼と、仲間への真っ直ぐで無欲な温もりだった。
(……嬉しい、ですけど……)
静の曇りのない優しい視線が向けられるたび、セリナの胸の奥の桃色の灯りがトクン、と甘く切なく高鳴る。けれど、あまりにも綺麗な「良い子だなあ」という言葉にセリナは内心で(そうじゃないんです……一人の女の子として、もっと……)と小さく甘い溜息をつきながら、ぽっと頬を林檎のように赤く染めた。
静の無自覚な優しさは、どんな策略や防壁よりも鉄壁で、彼女の淡いアプローチをそよ風のように優しくすり抜けていく。ミレイアがその様子を隣から見て、クスリと優しく見守るように微笑んでいた。
「静、おかわり! フィア、今度はあの丸いやつ食べたい!」
「はいはい、今持ってくるからね。みんな、たくさん食べてね」
静はのんびりと席を立ち、再び台所へと向かった。
開け放たれた窓から吹き込む春の風が、円卓を囲む皆の笑顔を優しく撫でていく。
冬を越えて辿り着いた穏やかな日常は、今日も変わらずそこにあった。
春を告げるほのかな苦味と、それを包み込む絶対的な安らぎの味。
新しい季節は、そんな温かな食卓から静かに始まっていくのだった。




