第六話 王都の一室、静かな問い
王都ルミエールの中心にそびえる教会中央監察局。その一角にある厳粛な審議室は、重苦しい沈黙とそれに続く喧騒に包まれていた。
「――以上が、フォルツ領における現地査察の報告となります。当初懸念されていた国家規模の幻惑魔法、あるいは大規模な領域洗脳といった、精神干渉魔術の形跡は……一切認められませんでした」
壇上に立つ調査団長レナードは、感情を排した声で報告を締めくくった。円卓を囲むのは、教会の権威を背負った上層部の面々である。提出された書面をめくりながら、一人の司祭が不満げに眉をひそめた。
「認められない? 莫迦な。冬の伝染病の流行が皆無、領民の情緒が異常なほど安定しているのだぞ? あまりにも数字が完璧すぎる。何らかの欺瞞、あるいは既存の魔術体系を超えた隠蔽工作が施されていると見るのが妥当だ!」
「左様。それに、現地で囁かれている『自由聖女』の噂はどうなった。教会に所属せぬ聖女など、あるはずがない。聖なる力は正しく管理され、秩序のもとに振る舞われるべきものだ。その噂の『自由聖女』とやらを保護下に置き、その力の正体を確認するべきではないか?」
口々に上がる独善的な言葉を、レナードはただ黙って聞いていた。上層部が本気で『最悪の陰謀』を警戒し、自分を送り込んだことは知っている。しかし、現地で彼が目にしたのは、魔術による強制などではない、ただただ穏やかで健やかな『街の日常』そのものだった。
その時、円卓の端に座っていた老司祭が、深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せながら、ぽつりと呟いた。
「……待たれよ。フォルツの街を覆う、属性の偏りのない純粋な聖性。そして噂される『自由聖女』がもたらしたという、制度に囚われぬ癒しの残滓……。もしやそれは、少し前に各国の大神殿へ降った、あの神託――『観測の女神ルーナフィリスの聖女』ではないか?」
その名が発せられた瞬間、審議室の空気が凍りついたように静まり返った。誰もが、脳裏に刻まれたあの厳かな神託を思い出したのだ。
『観測の女神ルーナフィリス、選ばれし聖女の歩みを告ぐ』
『その道を害し、妨げることは、いかなる者にも許されない』
『それは神々の秩序を乱す行いである』
もし、その者が神託の存在であるならば、教会が組織の都合で手を伸ばすことは、神への反逆、ひいては神罰の対象にすらなり得る。
静寂の中、中央に座る議長がゆっくりとレナードに視線を向けた。
「レナード監察官。現地を直接歩き、領民や、街を訪れていた商人たちの声を拾ったお前の意見を聞こう。あの街の異常な平穏と自由聖女の噂……あれらは教会にとって、国家にとって、害となる洗脳の類いか?」
求められた問いに、レナードは背筋を正し、一言一言を実直に紡いだ。
「――洗脳ではありません。私は現地で、その『自由聖女』や、彼女が付き従うという商人には直接、接触できませんでした。しかし、彼らの施しを受けた領民、病を癒やされた者たちの言葉には、魔術的な強制など微塵もありませんでした。語る彼らの表情にあったのは、純粋な感謝と、ただ明日を前を向いて生きようとする健やかな善性だけです。あれを『幻惑』と言い切るならば、我々が守るべき『秩序』とは一体何なのか……。私には、彼らが世界の歪みを、ただ静かに調和させているだけのように感じられました」
レナードの言葉には、一片の嘘も、誇張もなかった。ただ実直に感じた事実だからこそ、その言葉は重く響いた。
議長は目を閉じ、しばらくの黙考のあと、厳かに木槌を鳴らした。
「……これ以上の干渉は、神々の触れてはならぬ領域に踏み込む危険がある。当該案件については、神託の聖女である可能性を考慮し、一切の手出しを禁ずる。当面は『静観』とする。レナード監察官、引き続き過度な接触を避け、遠きよりの観測を続けよ」
「は。承知いたしました」
レナードは深く一礼し、審議室を後にした。
◇◇◇
同じ時間。王都から遥か遠く離れた、空白地帯の屋敷。
そこには、世界の外側で渦巻く緊張など、微塵も届いていなかった。
「ふぅ……。なんだか、今日は風が少し暖かくなった気がするなぁ」
静は縁側に腰掛け、淹れたての温かいお茶を口にしながら、のんびりと目を細めていた。庭の星霞草が、昼間の陽光を浴びて気持ちよさそうに葉を揺らしている。
その隣では、艶やかな黒毛のツキが、静の体温を求めるように丸くなっていた。
「にゃ……」
短く、満足そうな声を漏らしながら、ツキは静の太ももにそっと頭を預ける。静はその愛らしい頭を、優しい手つきでゆっくりとなぞった。
静は自分の無自覚の行いが、巡り巡って世界側の動揺を抑え込んでいることなど、気づいていない。新しい季節の訪れを、小さな家族と共に楽しんでいるだけだった。
◇◇◇
王都、監察局の自室。夕闇が迫る執務室で、レナードは一人、机の前に座っていた。
業務としての報告は終わり、上層部の判断も下りた。しかし、彼の心に灯った小さな火は消えていなかった。脳裏に浮かぶのは、フォルツの街で聞き込みをした際、小さな女の子が無邪気に教えてくれた言葉だ。
――『えっとね、とっても綺麗で優しいお姉ちゃんだったの! 困ってる人をね、ぱっと一瞬で治してくれて……まるでおとぎ話に出てくる『始まりの聖女』様みたいだったよ!』
姿を見ることは叶わなかった。だが、その場に残された足跡だけで、長年当然のものとして疑わなかった『教会の制度』が、本当に人々のためになっているのかという問いが生まれてしまう。
レナードは引き出しから一冊の私的なメモ帳を取り出し、万年筆を握った。
今日見たもの、聞いた言葉、報告書には書けなかった事実――それらを書き留めようとして、しかし、ペン先はしばらく紙の上で止まったままだった。
やがて、彼はたった一行だけを書き記した。
『組織の名の下に行う善は、本当に善か』
それ以上は、まだ言葉にならなかった。レナードはそっとメモ帳を閉じ、引き出しの奥へとしまう。その問いは、まだ彼の中で形を探し始めただけだった。
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