第五話 雪の日の往診と街の声
冬のフォルツは白銀の静寂に包まれていた。例年になく雪が深く積もり、建物の屋根はどこも厚い綿帽子を被ったようになっている。けれど、街を行き交う人々の表情に、いつもの冬のような険しさはなかった。
「なぁ、気のせいかもしれないんだが……今年は不思議と底冷えがしないと思わないか?」
市場の店先で、厚手の外套を着た男が仲間に笑いかけている。
「ああ、俺も思ってた! 雪は多いのに、なんだか空気が柔らかいんだよな。それにほら、あそこの星霞草……雪に埋もれそうなくらいなのに、いつもより銀色の光が暖かく見える気がするんだ」
「おかげで今年の冬は風邪を引いて寝込む奴が少ない。ありがたいことさねぇ」
街の人々は誰も気づいていない。お屋敷の大鍋の湯気に惹かれ、ルーナフィリスのささやかな導きによって『精霊の道』を渡ってきた下位の四元素の精霊たちが、この街のあちこちでじんわりと温かな守護の膜を広げていることに。
「フォルツの冬は雪景色が本当に綺麗で、おまけに過ごしやすい素敵な街だね」
籠を片手に石畳をのんびりと歩いていた静が、白い息を吐きながら微笑んだ。その肩の上で、ツキが「にゃ」と同意するように喉を鳴らす。
「はい、静様。市場の活気も冬とは思えないほどです」
隣を歩くセリナが、金髪を揺らして優しく微笑み返した。静は当然、その心地よさの理由が自分たちの作ったお鍋にあるとは夢にも思っていない。街が穏やかである事実を、純粋に嬉しく思っているだけだった。
◆◆◆
一行は雪の積もった広場を抜けながら、それぞれの目的地へと向かっていく。
「私は武具屋に寄ってくるわ。この前頼んだ手入れが終わってるはずだから」
アリアが先に進んでいくと、その腕の中のあかねが「きゅ」と短く鳴いて、楽しそうに周囲を見回した。
「私たちは織物屋さんね。冬のうちに、新しい敷布も見ておきたいわ」
ミレイアがルゥを抱いたまま、フィアと一緒に通りの先へと歩いていく。ルゥが「くぅ」と満足げに鳴き、ミレイアの腕の中で温かそうに身を寄せていた。フィアの肩の上では、ハルが「ひゅるぅ!」と元気よく羽を揺らす。
「あとで広場で合流しましょう」
リーナは足元のマルと共に、診療所の方へと向かっていく。土晶のペンダントに触れながら、診療所付近の人の流れを観察するのも、彼女のいつもの役目だった。
静は顔見知りの食材店の店主たちの元へ立ち寄ると、持ってきた小さな包みを「お裾分けです」と言って手渡していった。
「これ、セレニアの老職人さんから貰った新しい調味料で作ってみた煮込みなんです。良かったら皆さんで食べてみてください」
「お、いつもすまないねぇ、静さん! ……ん? うわ、何だこれ、めちゃくちゃ美味い!」
店主たちがその場で一口含んだ瞬間、一斉に目を丸くした。醤の深いコクが冬野菜の甘みを極限まで引き出している。その驚く顔を見て、静は嬉しそうに口元を緩めた。さらに、近くの広場でツキを「可愛いなぁ」と囲んで遊んでくれていた子供たちには、別の小さな袋を手渡す。
「こっちは新作のお菓子。醤キャラメルの焼き菓子と、特製のプリンだよ。みんなで分けてね」
「わぁ、ありがとう静お兄ちゃん!」
「にゃあ」
子供たちに撫でられていたツキが、満足そうに目を細めて鳴いた。
◆◆◆
市場の一角に設けられた、仮設の診療所。セリナはいつものように『静の専属治療師』として、木椅子に腰掛けながら、訪れる街の人々の体を優しく診ていた。
その入り口で今日の警備担当として立っていたリーナの袖を、小さな女の子が涙目で引っ張ったのは、お昼過ぎのことだった。
「あの……おねえちゃん、おねがい。この子を、たすけて……」
女の子の腕の中には、元気がなくぐったりとした、小さな茶色い子犬が抱えられていた。
「……えっと」
リーナは差し出された子犬を見つめ、珍しく困惑したように眉を寄せた。胸元の土晶のペンダントに手を触れ、魔術師としての高い知見で容態を察することはできても、ここはあくまで人のための診療所だ。周囲の大人たちも「獣医のところへ行った方が……」「でも、この雪じゃ遠くの診療所は閉まってるぞ」と困り顔で囁き合っている。
「どうしました?」
奥からセリナが静かに歩み寄ってきた。リーナが小さく息を吐く。
「セリナ。この子が飼っている犬を診てほしいそうなの。けれど、ここは人間の……」
「大丈夫ですよ」
セリナは遮るような強さではなく、羽毛のように優しい声音で女の子の前に膝をついた。そして、診療所の待合で順番を待っていた街の人々を、サッと静かに見回す。幸い、冬の寒さが和らいでいるおかげで、急を要する重病人は一人もいなかった。
「皆さん、申し訳ありません。この小さな患者さんを、先に診てあげてもよろしいでしょうか?」
セリナが丁寧に頭を下げると、並んでいたお年寄りや荷物持ちの男たちが、みんな一斉に相好を崩した。
「気にするな、治療師の娘さん! 俺たちのほうは急ぎやしないさ」
「そうだよ、その子を先に診てやっておくれ。なぁ、みんな?」
「ああ、もちろんさ!」
そこに広がったのは、強制された規律ではない。静たちの持ってきた善意のお裾分けが、街の人々の心にも自然と伝播し、優しさの循環となって返ってきた瞬間だった。
「ありがとうございます」
セリナはもう一度深く一礼し、女の子の手から優しく子犬を預かった。診療台の上にそっと横たわらせ、その小さな体に、詠唱も儀式もない、柔らかな手を差し伸べる。セリナがただ「良くなりますように」と願ってその背を撫でると、彼女の手のひらから、淡く澄んだ光の粒子が、ほんのわずかに、けれど確かに溢れ出た。
下位の精霊たちがその光の温もりに喜び、周囲の星霞草がちいさく瞬く。
「……くぅん」
数拍の後。ぐったりしていた子犬が、まるで今目覚めたかのように小さく鳴いて、むくりと起き上がった。そして、自分の身体を包む痛みが消えたことに気づいたように、セリナの手のひらをペロペロと嬉しそうに舐め始めた。
「あ……! 動いた! ありがとう、お姉ちゃん……っ!」
女の子がパッと顔を輝かせて涙を拭う。セリナは「また困ったことがあったら来てくださいね」と言って優しく微笑み、子犬を女の子の腕の中へと戻してあげた。
「ぽむ」
いつの間にか台の下にいたマルが、安心したように前足で床を叩き、リーナが「手際が良いのね、相変わらず」と手帳を閉じながら、少しだけ誇らしげに口元を緩めていた。
◆◆◆
その様子を見ていた静が、籠の中から小さな包みを一つ取り出し、女の子の前にしゃがみ込んだ。
「よかったね。これ、さっき作ったお菓子なんだけど、よかったら食べて」
差し出されたのは、醤キャラメルの焼き菓子が小さく包まれたものだった。
「わあ……! いいの?」
「うん。元気になったお祝いだよ。その子にも、少しだけなら……あ、でも犬には味が濃いから、人間の分だけね」
静が苦笑しながら言うと、女の子は「ありがとう、おにいちゃん!」と満面の笑みで包みを受け取った。腕の中の子犬も、女の子の笑顔に応えるように「くぅん」と一声鳴いて尻尾を振っている。
その光景を診療所の外で待っていたアリアたちが戻ってきて目にしていた。
「あら、また何か配ってるの?」
アリアが苦笑しながらあかねを抱き直す。あかねが「きゅ」と鳴いて女の子の方を見ると、女の子は「わんちゃんとお揃いだ!」とあかねの腹巻きを見て嬉しそうに笑った。
「ふふ、また街に新しい笑顔が増えましたね」
ミレイアが穏やかに言うと、ルゥが「くぅ」と満足げに喉を鳴らした。
◆◆◆
診療所の外では、静がツキを肩に乗せ、戻ってきたリーナたちをのんびりとした笑顔で迎えていた。
「みんな、用事は終わった? そろそろお昼にしようか」
「ええ。良い記録もできたし、ちょうど良いタイミングね」
リーナが手帳を閉じながら答えると、フィアが「お腹空いた! あったかいスープが食べたい!」と声を上げ、ハルが「ひゅるぅ!」と同調する。
特別な奇跡を起こして世界を驚かせたいわけじゃない。ただ、目の前の誰かが笑って、その笑顔がまた次の誰かへと繋がっていく。雪に覆われたフォルツの街には、冬の寒さを完全に忘れさせるほどの、温かで確かな足音が今日も優しく響き渡っていた。
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物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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