第四話 リシェルの観察日誌
セレニア自治連邦の市場で、あの『奇妙な一団』と遭遇してから数日。フォルツの御用商人であるリシェルは、すぐに帰路には就かず、セレニアに滞在して追加の仕入れと情報収集を続けていた。商人ネットワークをそっと手繰り、あの底知れない黒髪の青年たちの情報を集めるためだ。
「穏やかな雰囲気の、黒髪の青年かい? ああ、うちにも来るよ」
懇意にしている食材店の店主が、荷台に木箱を積み込みながら口を開いた。
「珍しい品を買い付けに来るんだが、本当に嬉しそうに選ぶんだ。面白いのが連れの黒猫でね。あの子猫が店先に来るたびに、なぜか店の雰囲気が良くなって、商売が繁盛する気がするんだよ」
「……へえ」
リシェルは表情を変えず、手帳に『黒猫:周囲の雰囲気に好影響?』とだけ書き留めた。
さらに確信を求めて、先日青年が立ち寄っていた醤の老職人の工房へと足を運んだ。買い付けの用件を終えた後、それとなく青年のことを尋ねると、職人は途端に苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……客のことは言わん。とっととけえれ」
完全な拒絶だった。職人はそれ以上、リシェルと視線を合わせようともしなかった。
強制されているわけではない。規律も義理もない。ただ、その頑なな横顔を見た瞬間、リシェルは商人の直感で理解してしまった。
(――ああ、そうか。この職人は、あの青年とのやり取りを、余計な詮索に巻き込みたくないだけなのね)
それは権力や金では決して動かせない、人間としての極めて純粋な保護欲だった。リシェルはそれ以上追及するのをやめ、静かに手帳を閉じた。『深入りはしない』という自らのスタンスを、胸の中で今一度確かめるように。
◆◆◆
それから数日後、リシェル率いる商団はセレニアを発ち、長い帰路に就いていた。複数の商団が合流する街道沿いの広大な野営地でのことだ。
パチパチと巨大な篝火が揺れる夜、旅慣れた商人たちが酒杯を片手に雑談を交わしていた。
「――そういやさ、セレニアの風巡神殿の周りでも、相変わらず妙な噂が流れてるな」
隣の商団の長が声を潜めた。リシェルは帳簿をめくる手を止めず、ただ耳を傾ける。
「噂ですか?」
「ああ。教会に所属してない『自由聖女』の話さ。詠唱も儀式もなく、触れるだけで病人を癒やしちまうらしい。神殿の連中がひっくり返って探してるが、精霊がその足跡を隠しちまってるんだとか。お伽噺みたいな話だがね」
「……」
リシェルの羽ペンが、ほんのわずかに止まった。
その噂自体は、以前にもフォルティナへ伝えたことがある、聞き慣れたものだった。けれど、数日前にセレニアの市場で目撃した、あの金髪の少女の姿が脳裏に重なる。詠唱も儀式もない、ごく自然な手つきでの治療。
(……やっぱり、あの人だったのね)
確信は驚きよりも、静かな納得として降りてきた。あの一団の正体が分かったわけではない。ただ、世界が探している『自由聖女』が、あのとても穏やかな一団の中にいる――そのことだけが、リシェルの中で一つに繋がった。
これ以上は深入りしない。情報収集の結果分かったのは「誰も正体を知らない。けれど皆が自然に彼らを慕っていて、誰も他人に教えたくない」という、温かく、同時に底知れない事実だけだった。
◆◆◆
同じ頃、空白地帯の屋敷では、いつもと変わらない静かな一日が過ぎていた。
「今日は雪が少し落ち着いたね。庭の様子、見てこようかな」
静が縁側から外を眺めて呟くと、肩の上のツキが「にゃ」と短く同意するように鳴いた。
庭に出ると、雪の積もった木々の間を、ハルが軽やかに飛び回っている。「ひゅるぅ!」という鳴き声と共に、枝先に積もった雪がさらりと舞い落ちた。フィアがその下で「わー、雪だるまみたいになっちゃう!」と笑いながら雪を受け止めている。
リーナとマルは庭の隅で、雪の下の土の様子を確かめていた。「……ここはまだ少し硬いわね」とリーナが手帳に書き込み、マルが「ぽむ」と前足で叩いて応える。
「みんな元気だなあ」
静がのんびりと呟きながら、雪を踏んで歩いた跡が、屋敷の庭にいくつもの足跡を描いていた。
◆◆◆
それからさらに数日間の旅程を経て、リシェルは辺境の街フォルツへと辿り着いた。市場でもそれとなく噂を確かめてみたが、商人たちの反応は一様だった。
「あの治療師の娘さん? さあねえ、どこの誰だかは知らないよ。でも、本当に良い人だよ。うちの婆さんの往診にも来てくれてさ」
やはり、誰も教えない。強制されているのではない。街の人々が皆、自発的に彼女たちを守ろうとしているのだ。
◆◆◆
「――以上が、今回の交易路における詳細、およびセレニアから当街に及ぶ情報収集の成果にございます、フォルティナ様」
フォルツ領主館の執務室。リシェルから提出された定期報告書を、フォルティナは机の上に広げ、同席していたフレイアと共に静かに目を通していた。リシェルが退出した後、執務室には静かな沈黙が降りる。
フォルティナはふぅ、と小さな溜息を漏らした。
「……やっぱり、静さんたちのことでしょうね」
「間違いないわね。黒髪の青年、雰囲気の変わる黒猫、そして街の人々が自然と庇う治療師の少女……どこからどう見ても、あのお屋敷の住人たちだわ」
フレイアが腕を組み、呆れたように、けれどどこか楽しげに唇を綻ばせた。しかし、次の瞬間。フレイアの目がニヤリと悪戯っぽく細められる。
「そういえばティナ。あなた、先日リシェルからの『一日で隣国まで往復した黒髪青年がいる』っていう通信を読んだ時、一時間くらい書類の前で完全にフリーズしていたわよね?」
「……っ」
フォルティナの手元がぴくりと跳ねた。彼女はあからさまに眉を寄せ、ほんのりと頬を染めながら視線を逸らす。
「……フレイ。そのお話を、今ここで持ち出す必要はありますか?」
「あるわよ。だってあの時のあなたの顔、傑作だったもの。普通なら何週間もかかるような距離なのに……あの人たち、ただの夕食の買い出し気分で行ってきたんでしょう?」
「それは……そうですけれど」
フォルティナは額を押さえた。前章から引き継がれた、世界の常識を心地よく揺さぶられたことによる幸せな頭痛の余韻が、まだ完全には引ききっていない。
けれど、窓の外から流れてくる、不思議と温かな冬の風を感じて、フォルティナはそっと肩の力を抜いた。
「でも、誰も教えない。……リシェルがどれだけ調べても、街の人たちが、自分たちの意志で静さんたちを守っているのですね」
フォルティナは静かに、そして誇らしげに微笑んだ。
国家や教会がどれだけその全貌を解き明かそうと躍起になろうとも、この地には、ただ生活を愛する者たちが紡ぐ、決して破れない無言の防波堤が張り巡らされている。その優しさの盾の存在が、領主であるフォルティナの心を、何よりも温かく満たしていくのだった。
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