閑話 中央監察局の困惑
王都ルミエールから実直な早馬を飛ばして数日。初雪の白さをうっすらと残す辺境の街フォルツの門前に、異様なほど張り詰めた空気の一団が到着した。
『教会中央監察局』が正式に派遣した調査団。その先頭を行く監察官レナードは、厳格な法衣の襟元を正し、馬の綱を引く手元にわずかに力を込めていた。
「各自、警戒を怠るな。この街を覆っているとされる、大規模な精神洗脳魔術の痕跡をいささかも見落としてはならん」
レナードの低く硬い声に、背後の部下たちが表情を引き締めて深く頷く。彼らは決して悪意に突き動かされているわけではない。教会の秩序を守り、国家の安全を真面目に維持しようとする、極めて誠実で実直な人間たちだった。だからこそ、報告された「冬の伝染病の流行が皆無」「領民の情緒が異常なほど安定している」というあまりにも完璧すぎる数字に、最悪の陰謀――国家規模の幻惑魔法や領域洗脳――が仕掛けられていると本気で警戒していた。
しかし、石造りの立派な門をくぐり、フォルツの街へと一歩足を踏み入れた瞬間、レナードは馬上でわずかに目を見開いた。
(……何だ、この感覚は)
肌を刺す冬の冷気は確かに厳しい。だが、門をくぐる前まで彼らを包んでいた、長旅の重苦しい疲労や頭の芯の重みが、驚くほどすうっと霧散していくのを感じたのだ。冷え込んでいるはずなのに、不思議なほどに呼吸がしやすい。体内の魔力の巡りが、かつてないほど滑らかに整っていくような奇妙な心地よさがあった。
「……団長、気のせいでしょうか」
すぐ後ろを歩いていた部下の魔術監察官が、困惑したように声を潜めてきた。
「フォルツ領に入ったあたりから、ずっと体が軽いというか……。道中でも、どこか似たような、深く澄んだ心地よい気配をかすかに感じていたのですが」
「油断するな」
レナードは鋭い声で部下の言葉を遮った。
「それこそが洗脳魔術の最たる罠だ。対象の警戒心を奪い、自ら進んで領域に馴染ませるための『幻惑』かもしれん。心を強く持て」
「は、はい!」
レナードは必死に表情を強張らせながら、上級宿屋へと続く大通りを進んだ。
道すがら、彼は洗脳された哀れな領民たちの「虚ろな笑顔」や「強制された日常」を探そうと、油断なく周囲に視線を走らせる。
――だが、そこに広がっていたのは、彼らの想定とは根本から異なる、圧倒的に健やかでポカポカとした日常の風景だった。
市場の店先では、領民たちが肌艶の良い顔で笑い合い、凍える寒さの中でも寒がることなく「これ、お裾分けだよ」「いつも悪いねぇ」と、ごく自然に大ぶりの白菜や根菜を融通し合っている。石畳の路地の隅や宿屋の窓辺には、淡い銀色の光を僅かに滲ませた星霞草の鉢植えがそっと並んでおり、その周囲だけ雪が優しく溶けていた。
どこを見渡しても、誰一人として無理をしていない。ただただ『圧倒的に健康で幸せな生活』が、そこには当たり前のように流れていた。
張り詰めた緊張の拠り所を見つけられぬまま、調査団の一行は、静たちが時折待ち合わせや相談に利用する街の上級宿屋へと到着した。
レナードは馬を降りると、すぐに従者へ向けて公式な面会を求める書簡を手渡した。
「領主館へ先触れを出しなさい。明日、正式な挨拶と会談を申し入れると」
貴族的な常識として、到着当日にいきなり領主館へ突撃するのは非礼にあたる。まずはこの宿で一晩、長旅の疲れを癒やし、明日からの厳しい検分に備えて英気を養うべきだ――そう判断したレナードだったが、これが彼らの最初の「敗北」の始まりだった。
その日の夕食時。宿の食堂の静かな一角に、給仕が温かいスープと焼きたての厚切りパンを運んできた。
フォルツ特産の根菜をじっくりと煮込んだ、この街ではごく一般的な家庭料理のスープ。しかし、テーブルに置かれた瞬間に立ち上った湯気の香りに、レナードたちの鼻先がぴくりと動いた。
「……毒や魅了の術式は、検知されていないな?」
レナードが小声で確認すると、魔術監察官は手元の探知魔道具を見つめたまま、何度も首を振った。
「はい。いかなる害意の術式も白です。……ただの、非常に滋味深い料理の反応しか出ていません」
「ふん。ならばいただく。教会の監査官が食事を遺しては不名誉だからな」
警戒を崩さぬまま、レナードはスプーンでスープを掬い、口へと運んだ。
その瞬間、彼の身体がピタリと硬直した。
(……っ! 何だ、この深みは……!?)
言葉が出なかった。ただ深い。スープに含まれた根菜の旨みと、じんわりと身体の芯を温める栄養価が、一口ごとに五臓六腑へ染み渡っていく。王都の最高級宮廷料理のような華やかさはない。だが、素材そのものが持つ圧倒的な生命力の調和が、疲れ切った身体の隅々まで解きほぐしていくような感覚に襲われる。
「くっ……毒ではない……。だが、なぜこれほど美味いのだ。身体の緊張が、勝手に……」
部下たちも、すでに言葉を失って無我夢中でスープを口に運んでいた。結局、一行は皿の底まで完璧に平らげ、深く息を吐き出した。
さらに恐ろしいことは、その後に起きた。
王都での激務と今回の異常な数字への警戒により、レナードをはじめとする監察官たちは、全員が慢性的な不眠症気味だった。しかし、宿の窓辺に飾られた星霞草が放つ極上の安らぎの波動と、街全体に満ちる『精霊の道』の柔らかな神気の中に身を置いた瞬間、彼らのガチガチに張っていた精神の防壁が、根底から心地よく決壊してしまった。
部屋に戻り、ふかふかのベッドに横たわった次の瞬間には、レナードは人生で一度も経験したことのないような、深く清らかな眠りの泥へと沈み込んでいた。
「――はっ!?!?」
翌朝、レナードがガバッと跳ね起きたとき、窓の外からはすでに眩しい太陽の光が燦々と差し込んでいた。時計を確認した彼の顔から、サッと血の気が引いていく。
「朝日の、こんなに高くなるまで……この私が、一度も目を覚まさずに眠っていただと……!?」
慌てて部屋を飛び出すと、隣の部屋の部下たちも、今しがた目を覚ましたばかりのような放心した顔で廊下に出てきていた。レナードは冷や汗を流しながら、己の額を押さえた。
「おののくがいい、皆。これこそが、この街に潜む恐るべき精神弛緩魔術の真髄だ……! 私の強固な精神障壁を、ただ眠るだけで完璧に無力化してみせるとは……なんという底知れぬ悪辣さだ……!」
街のただの「居心地の良さ」を、全て敵の高位魔術の攻撃だと真面目に勘違いしたレナードは、かつてないほどの恐怖と緊張感をもって、領主館への訪問の身仕度を急ぐのだった。
◆◆◆
――調査団が到着した当日の夜。
領主館の執務室で先触れの書簡を受け取ったフォルティナは、王都からの真面目な調査団がもたらすであろう波紋を懸念し、すぐに引き出しから静へと繋がる連絡板を取り出していた。
屋敷の平穏に余計な石を投げ込まぬよう、言葉を慎重に選びながら、優しく文字を刻んでいく。
【フォルティナ:静さん、セリナさん。例の王都からの調査団が本日街に到着しました。明日から数日間は領主館も街もかなり慌ただしくなりそうです】
そのメッセージが屋敷のリビングのテーブルの上で淡く光ったとき、静たちは暖炉の前で、どこまでもポカポカとした平和な時間を過ごしていた。
「ん? フォルティナさんからだ」
「フォルティナはさんからですか、もしかして調査団の皆さまが来られたんでしょうか?」
「そうみたいだよ。王都からの調査団が、今日フォルツに着いたんだって。明日から数日忙しいみたいだから、その間はセレニアの方へ買い出しに行こうか。」
静とセリナの話を聞いていたフィアがアリアに言う。
「アリア、屋台巡り一緒にこうよ!甘い物もたくさんあると思うよ。」
「はいはい。しょうがないわね、一緒に着いて行ってあげるわ」
とまんざらでもない感じで答えるアリア。
「きゅ」「ひゅん」と鳴きながら二人の足元で嬉しそうにじゃれて来る、あかねとハル。
「それなら私たちは職人通りでもいきましょうか?」
とミレイアがウトウトと眠そうにしているルゥを撫でながら、リーナに提案する。
「いいわね、珍しい魔道具とか色々と見て回りましょうか」
と同意するリーナ。そんなリーナの足元を「ぽむ」と自分も一緒に行くとアピールするマル。
「期待してるわよ」とマルを撫でるリーナ。
皆のやり取りを見ながら静はフォルティナへ返信する。
【静:フォルティナさん、お疲れ様です。大変ですね。それなら、明日から数日はちょうどいいのでみんなでセレニアの街に行ってきますね。ゆっくりお買い物してきます】
ぽん、と送信の操作を終えると、文字はすっと光に変わって消えていった。
一方、その文字を自室の連絡板で受け取ったフォルティナは、椅子の上で完全にフリーズしていた。
「……せ、セレニア……?」
文字を二度、三度と見返しても、そこには確かに『セレニアの街に行ってきます』と書かれている。
「数日で、隣国までお買い物に……? そんな、行ける距離ではないですよね……? どこか、領内の近くにある似たような名前の街と勘違いされているのでしょうか……?」
静たちがわずか数日の「日帰り遠足」で国家間ルートを完璧に繋げてしまったことなど夢にも知らないフォルティナは、あまりにもスケールの大きすぎるお出かけの文字に激しく困惑した。しかし、深く追及するのも野暮と思い、何より彼らの絶対的な平穏がそこにあることに安堵しながら、
【フォルティナ:……承知しました。どこか別の場所(?)であっても、どうぞお気をつけて、良いお買い物を】
と、不思議そうに首を傾げながら返信するのだった。
◆◆◆
翌朝。屋敷のメンバーは静の転移を用い、一瞬でセレニア自治連邦の境界へと足を踏み入れていた。
活気に満ちた、異国情緒あふれる大通りの前で、一行は以前のフォルツでのお忍びのように、自然と二人ずつ+幼体の三組に分かれて自由行動を開始した。
「じゃあ、お昼にあの大きな煙突の食堂で合流しようか」
静の言葉を合図に、それぞれの遠足が始まる。
静とセリナの組では、セリナはミレイアに選んでもらった薄い栗色のストールをそっと肩に巻き、静の少し隣を穏やかな歩調で歩いていた。
今回は、静の肩から降りたツキが、まるで二人をエスコートする先導役のように、長い黒尾をぴんと立ててトコトコと前を歩いていく。
「にゃ!」
ツキが小さな前足で一軒の食材店の敷居を「ぱふっ」と叩いた。そこには、冬特有の木の実や、他国の珍しい乾燥香草がずらりと並んでいる。
「お、ツキ、今度はそこかい? ……あ、セリナ、この乾燥キノコ、見たことない形をしてる。スープに入れたら美味しそうだね」
「まあ、本当ですね、静様。ツキちゃん、本当に良いお店を見つけるのが上手です」
「にゃん」
ツキはどこか誇らしげに胸を張り、店主の女性から「まあ、綺麗な黒猫ちゃんねぇ」と優しく撫でられている。
セリナはそんなツキの姿を優しい内心で見つめながら、新しい食材を手にとって子供のように目を輝かせて『はしゃぐ』静の横顔を、どうしようもない愛おしさと共に眺めていた。静様のこんなに楽しそうな姿を隣で見られるなんて、お出かけに来て良かった、と胸の奥の灯りを優しく揺らすのだった。
別の通りでは、アリアとフィアの組が、賑やかなお祭りのような騒ぎになっていた。
「アリア、見て見て! あのあまーい匂いのする焼き菓子、絶対に美味しいよ!」
「こらフィア、そんなに走ったら危ないわよ。……って、あ、でもあの果実のタルトは少し美味しそうね」
「ひゅるぅ!」
フィアの肩の上でハルが楽しそうに羽を揺らし、アリアの腕の中では、あかねが「きゅ、きゅ!」と甘い匂いにおねだりするように短い前足をパタパタと動かしている。結局、アリアもフィアと一緒に両手いっぱいにスイーツを抱え、「美味しいわね」「でしょー!」と完全に遠足を楽しんでいた。
そして、ミレイアとリーナの組は、重厚な職人通りの一角を歩いていた。
ミレイアは寒冷地特有の、しっかりとした冬物の生地や織物を丁寧に吟味し、その腕の中ではロップイヤーの耳を揺らしたルゥが「くぅ」と静かに満足げに喉を鳴らしている。
隣のリーナは、ドワーフの魔道具店や古い伝承の残る本屋の棚を覗き、熱心に手帳にペンを走らせていた。
「……この街、本当に危険だわ。興味深いものが多すぎる」
珍しく本気で困ったような顔をしながら呟く。足元では、マルがぽてぽてと短い足で歩き、珍しい鉱石の並ぶ店先で立ち止まっては、前足で石の縁を「ぽむ」と叩いて「ぷぅ」と一鳴きする。リーナはそのたびに「……ええ、それも記録しておくわ」と小さく笑って頭を撫でるのだった。
お昼時、約束の食堂で全員が合流した。
大ぶりの肉と根菜を地元の麦酒で煮込んだ豪快なドワーフ風の煮込み料理と、焼きたての厚切りパンを全員で囲む。
「やっぱり、フォルツの味付けとは出汁の取り方が違って新鮮だね。屋敷の台所でも試してみたいよ」
「静様、この香辛料の組み合わせ、すごく温まりますね」
「この織物、お屋敷の椅子のクッションにぴったりだと思うのよ」
アリアが出汁の染みた大根をハフハフと食べ、フィアがパンを頬張り、ハルが「ひゅるぅ」と鳴く。外の世界の喧騒など完全にシャットアウトされたテーブルの上には、ただただ日常的な楽しみと感想を言い合う、どこまでも温かでポカポカとした優しい時間が流れていた。
◆◆◆
同じ頃、初雪の残るフォルツの領主館では、重々しい公式会談が行われていた。
机を挟んで対峙するのは、領主フォルティナと、冒険者ギルドマスターのフレイア。そして、寝坊の失態を精神弛緩魔術のせいにすることでどうにかプライドを保った、監察官レナード率いる調査団である。
「――以上が、我が領における冬期の定期報告のすべてです」
フォルティナは一切の嘘をつかず、歪みのない事実の数字(作物の豊作、領民の健康維持率、夜間の治安維持データ)だけを淡々と提出した。
横に座るフレイアも、エルフとしての凛とした態度を崩さぬまま、ギルドマスターとして「周辺の魔物の定常的な間引きと境界の安全管理の結果である」と、完璧に筋の通った公式の書類を差し出す。
レナードは提出された書類を精査し、その内容に一切の不正や矛盾がないことに歯噛みした。二人の態度には非の打ち所がない。だが、だからこそ、この完璧すぎる平穏が恐ろしかった。
「……書類上の不備がないことは認めよう。だが、私は自身の目で確かめるまでは納得せん。街の内部、および診療所や市場の直接検分を行わせてもらう」
「ええ、どうぞご自由に。我が領は何も隠すことなどありませんから」
フォルティナは優雅に微笑み、彼らの街頭調査を許可した。
レナードたちはすぐに、ギチギチの警戒体制のままフォルツの市場や仮設の診療所へと繰り出した。行き交う領民たちを捕まえては、鋭い視線で問い詰める。
「聞きなさい。最近、この街で教会に所属せぬまま奇跡の治療を行うという、未所属の聖女の噂がある。その正体は誰だ。どこに隠れている」
しかし、問い詰められた領民たちは、誰一人として怯えることはなかった。それどころか、静や優しい治療師であるセリナを、教会の面倒な組織のいざこざに巻き込みたくないという強い思いから、誰も個人を特定するような特徴(名前や屋敷の場所)は口にしなかった。
「聖女様? いやいや、私たちはただの優しい治療師さんとしてお世話になってるだけだよ」
「そうさ。怪我を診てくれたり、温かいスープを分けてくれたり。あの人が来てくれるだけで、不思議と冬の寒さも和らぐ気がするんだ」
領民たちの口から語られるのは、既存の教会への義務的な信仰ではなく、セリナという一人の少女への、圧倒的な感謝と純粋な慕情の言葉だけだった。
そんな中、レナードが一軒の果物店の前で、小さな女の子に声をかけた。以前、転んで膝をすりむいたところを、セリナにそっと癒してもらった子供だった。
「小さな迷子よ、私に真実を教えなさい。お前を癒やしたと言う、金髪の女性は、お前にどんな言葉をかけた?」
女の子は、厳めしい法衣を着たレナードを怖がることもなく、純粋な憧れをその大きな瞳に満たして、きらきらとした笑顔で監察官を見上げた。
「えっとね、とっても綺麗で優しいお姉ちゃんだったの! 困ってる人をね、ぱっと一瞬で治してくれて……まるでおとぎ話に出てくる『始まりの聖女』様みたいだったよ!」
子どもの、その一切の汚れのない、純粋無垢な憧れの言葉。
それが、レナードの胸の奥を激しく揺さぶった。
(『始まりの聖女』……だと……!?)
レナードは衝撃のあまり、その場に立ち尽くした。
教会の権威も、厳格な典礼も、政治的な制度もそこにはない。ただ、目の前の困っている人にスープを混ぜるように手を差し伸べる、原始的で、剥き出しの、圧倒的な「隣人への愛」。それを受け取った領民たちが、自発的に彼女を慕い、誰に命令されたわけでもなく彼女の平穏を守ろうと固く口を閉ざしている。
これこそが、人間の作った「制度(教会)」では決して管理しきれない、本物の聖性ではないのか。
夕暮れ時、街の検分を終えて宿へと戻る道すがら、レナードは深く、深く息を吐き出した。
初雪の残るフォルツの街並みには、あちこちで星霞草が淡い銀色の光を揺らし、家々の窓からは温かな料理の匂いが優しく漂っている。
「……精神洗脳などという、安っぽい魔術ではなかったな」
レナードはぽつりと呟いた。
「ここにあるのは、教会のいかなる管理対象でもない、剥き出しの純粋な聖性そのものだ。あの治療師を無理に組織に所属させ、道具として縛ろうとすれば、それこそこの地の剥き出しの信仰が崩壊し、王国そのものの調和が失われる……」
レナードは立ち止まり、改めて今日一日の調査結果を頭の中で整理した。
不正な魔術の痕跡は見つからなかった。
他国勢力の介入も確認できない。
領主館の書類にも矛盾はない。
あるのはただ、人々が互いを思いやり、自然に助け合っているという事実だけだった。
(少なくとも、今の段階で中央が強引に介入する理由は見当たらん)
生真面目で実直な善人だからこそ、レナードは独自の畏敬と深い誤解を完成させていた。
「……王都への報告書は、慎重に書かねばならん。『フォルツ領における異常な数値は、地域固有の精霊の調和と領民の篤い自治によるものであり、いかなる他国の陰謀も存在しない。また、噂の治療師は特定の権力を持たぬ放浪の徒であり、監視の必要なし』……と。それが、世界の至宝の在り方を汚さぬための、我らの誠実さだ」
完璧に対応を隠蔽(保護)する方向へと、監察官の心が完全に固まった瞬間だった。
◆◆◆
その頃、世界の外側で高位の監察官たちが勝手に畏敬を深めて自滅していることなど露ほども知らないお屋敷では、今夜もまた、大きな土鍋から白い湯気が勢いよく立ち上っていた。
「はぁ、やっぱり我が家のお鍋が一番落ち着くわね」
アリアがふうふうと息を吹きかけながら、出汁の染みた、完全に丸くなった大根を口に運び、嬉しそうに目を細める。その足元では、あかねが「きゅ」と短く鳴いて、アリアの膝にそっと顎を乗せていた。
「静、おかわり! セレニアの市場、すっごく楽しかったから、明日もまた行こうね!」
「はいはい、明日も急ぐ旅じゃないし、のんびり行こうか。セリナ、明日あそこの市場の奥で見つけた、新しいお野菜も試してみよう」
「はい、静様。本当に楽しみですね」
静がのんびりと笑いながらフィアのお皿に具材を分けてやると、その膝の上で、ツキが「にゃ」と満足そうに喉を鳴らした。リーナの足元の毛布の上では、マルが「ぷぷぅー」とお餅のように丸くなって心地よさそうな寝息を立てている。
外の世界がどれほどピリピリとした波紋を広げようとも、彼らを完璧に守るアウターシェル(領主館)の向こう側、この屋敷の内側にある『ただの丁寧な生活』という絶対的な平穏の防波堤は、今夜も一歩も揺らぐことのないまま、ただ優しく、温かなスープの湯気の中に、その幸せな日常の温度を溶かし続けていくのだった。
イメージソングを作成してみました。
もし興味を持って頂けましたら、曲を聴きながら読んでくれたら嬉しいです。
物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
https://suno.com/@10monoshin8
カクコムでも先行掲載しています。
もし続きが気になって読んでいただける方が居たら下記のページでお願いします。
https://kakuyomu.jp/works/822139842423376578




