第六話 広がる『自由聖女』の波紋
寒さの厳しい冬の到来を前に、王都ルミエールの中央教会の一角にある『教会中央監察局』の執務室は、異様な緊張感に包まれていた。机の上に並べられているのは、辺境の街フォルツから上がってきた直近の定期報告書と、隣国『セレニア自治連邦』の境界付近から流れてきた不確かな噂の記録である。
「冬期に入ったというのに、フォルツ領における冬の伝染病の兆候がほぼ皆無。夜間の治安維持率にいたっては王都の数倍……領民の情緒が異常なほど安定している、だと?」
厳格な衣服に身を包んだ高位の監察官が、提出された数字を指先で叩き、深く眉をひそめた。彼らは決して悪人ではない。教会の秩序と国家の安全を真面目に守ろうとする、極めて実直な人間たちだ。だからこそ、このあまりにも『完璧すぎる異常な数字』に、強い警戒を抱いていた。
「神殿の正規の奇跡でもなく、王宮のいかなる大規模魔術でもない。教会に所属せぬまま無償で癒やしを行う金髪の女性――《自由聖女》などという不届きな噂が広まっていることと、この数字は無関係ではあるまい。……何らかの未知の精神魔術、あるいは他国による大規模な領域洗脳が仕掛けられている可能性がある。至急、現地へ正式な調査団を派遣せよ」
真面目な警戒から下されたその決定は、静かな波紋となって、冷たい冬の風よりも早く辺境へと伝わっていくことになる。
◆◆◆
ところ変わって、初雪の残るフォルツの領主館。夜の帳が降りた執務室では、領主フォルティナが、王都の冒険者ギルド本部から急報を携えて訪れたフレイアと共に向かい合っていた。
「中央の監察局が、本格的な調査団をこちらへ向かわせたわ。ティナ」
フレイアがいつもの凛とした声音で告げる。公的な立場としての硬さを含んだその表情に、フォルティナは薄紫の髪を僅かに揺らし、山積みにされた領民たちの健やかな生活データを愛おしそうに整理しながら、静かに頷いた。
「ええ、フレイ。大体の動向は掴んでいました。中央の方々は、この街が帝国かどこかの精神支配下にあると本気で疑っているのでしょう?」
「真面目な人たちだからね、あそこは。説明のつかない数字を見ると、最悪の可能性から潰そうとするのよ」
フレイアは呆れたように息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。その拍子に、蝋燭の灯りを受けて、髪留めの瑠璃晶がそっと煌めく。フレイアは窓の外、冷たい冬風が吹き抜けるフォルツの街並みへと視線を向けた。エルフとしての鋭い知覚が、最近のこの街に満ちている、奇妙なほどに清らかな空気の気配を捉えていた。
「……でも、彼らが不審に思うのも無理はないわ。ここ数日、この街を流れている空気――何て言えばいいのかしら。酷く澄んだ、心地よい精霊の気配のようなものが、街の隅々にまでやんわりと染み渡っているのを感じるの。上手く言葉にできないけれど、この感覚……」
一拍置いて、フレイアは胸の奥の記憶を手繰るように呟いた。
「あの空白地帯の、静さんの屋敷の周りに漂っている空気と、どこかとてもよく似ている気がするのよね」
もちろん、フレイアもフォルティナも、それが静たちの手によって確立された『精霊の道』という目に見えぬ環境調律の回路だとは夢にも思っていない。ただ、あの温かな屋敷から滲み出てきた優しい平穏が、この街を包み込んでいることだけを、感覚的に理解していた。
「ええ。あの場所から届いた優しい灯りを、中央の冷たい制度や邪推で汚させるわけにはいきません」
フォルティナの目が、領主としての強い光を帯びる。彼女の髪に飾られた黒銀色の髪飾りが、蝋燭の炎に揺れて深く煌めいた。
「私たちは一切の嘘をつきません。ただ、歪みのない事実だけを提出します。作物がよく育ち、井戸が凍らず、領民たちが健やかに暮らしている――それ以上の詮索は、領主として私がすべて弾きます。あの方たちの穏やかな生活は、何があっても私が守ります」
「安心しなさい、ティナ。ギルド側も、余計な外部因子が街の冒険者たちの平穏を乱さないよう、全力で障壁になるわ」
私的な場面の距離感で、二人は静かに視線を交わし、固い連帯感を結ぶのだった。
◆◆◆
段取りを終えたフォルティナは、執務室の机の引き出しから、静へと繋がる連絡板をそっと取り出した。静たちの平穏を乱さないよう、細心の注意を払いながら、言葉を慎重に選んで文字を刻んでいく。
【フォルティナ:静さん、セリナさん。近々、王都の教会から少し堅苦しい服を着た調査団が街にやってきます。領主としての定期的なお役所の監査のようなものですので、お二人は何もお気になさらず。ただ、街の市場が少しだけ騒がしくなるかもしれませんので、お買い物などの際は少しだけお気をつけくださいね】
◆◆◆
その頃、空白地帯の屋敷のリビングでは、暖炉の薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜ、どこまでもポカポカとした平和な時間が流れていた。
「あはは! アリア、それじゃ面取りじゃなくて大根が丸くなっちゃってるよ!」
フィアが長椅子の上で足をぶらぶらさせながら大笑いし、その肩の上でハルが「ひゅるぅ!」とフィアの笑い声を真似るように楽しそうに羽を揺らしている。
「うるさいわね、これくらい大胆に削った方が煮崩れしないのよ」
アリアが少し頬を膨らませながら、あかねを膝に乗せて不器用そうに包丁の手つきを練習していた。あかねは「きゅ」と鳴いて、アリアの手元を不思議そうに見つめている。長椅子の隅では、ミレイアがルゥの長い耳を優しく梳るように撫でており、ルゥは「くぅ」と満足げに目を細めていた。リーナの足元では、マルが完全にお餅のように丸くなって「ぷぷぅー」と微かな寝息を立てている。
暖炉の前でお茶を飲んでいた静が、テーブルの上の連絡板に気づいてのんびりと手を伸ばした。横からセリナが温かいお茶を注ぎ足しながら、静の手元をそっと覗き込む。
「フォルティナさんからですね。……何かありましたか、静様?」
「あ、いや。近々、フォルツの街に王都からお役所の視察が来るんだって。街が少し賑やかになるから、買い物に行くときは邪魔にならないように少しだけ気をつけようかって。定期的な立ち入り調査みたいなものかな」
静が連絡板を見ながら、困ったように首を傾げて笑う。
「そうですか。お役所の方たちもお仕事で大変ですね。それなら、今週の往診や買い出しは、皆さんの邪魔にならないように少し時間をずらして、静かに移動しましょうか」
「うん、そうだね。それが良さそうだ。……それにさ」
静がお茶を一口すすってから、ふと思いついたように顔を上げた。
「フォルツが少し騒がしくなるなら、その間はセレニアの方へ買い出しに行くのもいいかなって。先日あの醤を見つけた職人通り、まだ他にも面白そうなお店があったし。みんな、どうかな?」
リビングの空気が、ふわりと明るくなった。
「それ、いいね!屋台巡りもしたいかも」
フィアが長椅子から勢いよく身を乗り出す。ハルが「ひゅるぅ!」と同調するように羽を動かした。
「……セレニアの職人通りは、まだ観察したい工房が残っているわ」
リーナが手帳から顔を上げ、少しだけ目を輝かせた。足元のマルが「ぷぷぅー」と寝息の途中で鳴いてから、また丸くなった。
「冬物の生地も、もう少し見てみたいわ。セレニアの市場は品揃えが違うから」
ミレイアが穏やかに微笑むと、ルゥが「くぅ」と同意するように鳴いた。
アリアは包丁の手を止め、あかねを一瞥してから静を見た。
「……そうね。フォルツが落ち着くまでの間は、あちらへ足を伸ばす方が双方にとって丁寧ね」
「きゅ!」
あかねがアリアの膝の上でタイミングよく鳴いた。アリアは「あんたも行きたいの」と言いながら、その小さな頭をそっと撫でた。
「決まりだね。フォルティナさんから連絡が来たら、街が落ち着いたとこで戻ろうか」
静がのんびりと笑いながら連絡板に文字をなぞった。
【静:フォルティナさん、連絡ありがとうございます。立ち入り調査の邪魔をしないようにします。その間は別の場所への買い出しに行くので、街が落ち着いたらまた伺いますね】
連絡板の文字がすっと光に変わって消えていく。静の膝の上に器用に飛び乗ってきたツキが、「にゃ」と短く同意するように鳴いて前足を預けた。
暖炉の前で大根を丸くし続けるアリアと、それを笑い続けるフィアと、ルゥの耳を撫でるミレイアと、手帳に何かを書き留めるリーナと、その足元で寝ているマルと。セリナが静かに次のお茶を淹れる音だけが、穏やかに響いている。
世界の外側でどれほどの緊張感が高まろうとも、屋敷の内側にある『ただの丁寧な生活』という絶対的な平穏は、一歩も揺らぐことのないまま、静かに、優しく、次の季節のスープの湯気の中に溶け込んでいくのだった。
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