第五話 雪待つ風と和らぐ街
空を覆う灰色の雲から、ひらひらと白い欠片が舞い降りてきた。
初雪だった。
フォルツの街を行き交う人々は、冷たい空気に身を縮めながらも、その表情に例年のような険しさはなかった。石畳の路地の隅、宿屋の窓辺、店先に飾られた鉢植え。あちこちに静かに根づいた星霞草が、雪を払う冬の風に吹かれて淡い銀色の光を僅かに滲ませている。
「あ、雪だ。……セリナ、寒くない?」
馴染みの市場へ向かう道すがら、静がふと足を止めて隣を見つめた。その足元では、ツキが長い黒尾を小さく揺らし、雪の冷たさを確かめるように「にゃ」と短く鳴いた。
「はい、静様。新しいストールもありますから、とても温かいです」
セリナはミレイアが選んでくれた栗色のストールをそっと押さえ、穏やかに微笑んだ。静たちの数歩後ろでは、アリア、リーナ、ミレイア、フィアの四人が自然な距離を保って歩いている。
フィアの肩のハルが「ひゅるぅ」と風を優しく逃がすように羽ばたき、アリアの腕の中のあかねは「きゅ」と鳴いて静の持つ大きな買い物籠をじっと見つめていた。
ミレイアの胸元では、ルゥが降る雪を不思議そうに見上げながら、長い耳をぱたぱたと揺らしていた。
リーナの足元では、マルがぽてぽてとついてきていた。石畳の隙間から顔を出した星霞草の苗の前で立ち止まっては、短い前足で「ぽむ」と土を叩き、また歩き出す。その繰り返しだった。
不思議なことに、今年の冬のフォルツは、いつもと『空気』が違っていた。凍てつくような冷気は確かに肌を刺す。けれど、例年なら街を満たしているはずの、寒さゆえの乾燥や、人々のピリピリとした焦燥感がどこにもない。井戸の水は底まで澄み渡り、なぜか凍りつきにくい。寒風が吹いても、どこか呼吸がしやすい。
『精霊の道』が通じたことで、屋敷の庭に満ちていた穏やかな空気が、空白地帯を越えて街へゆっくりと滲み出している。そんな目には見えない流れを、誰もまだ言葉にはできていなかった。静は自分が「お裾分け」した花や、幼体たちの歩みがそんな奇跡を起こしているとは露ほども思わず、ただ「今年は過ごしやすそうな冬だな」とのんびり感じているだけだった。
◆◆◆
「おや、静さんに、セリナさんじゃないか」
通りに面した果物店の前を通りかかったとき、店先で木箱を運んでいた恰幅の良いおじいさんが、顔をほころばせて声をかけてきた。先日、市場の片隅で腰を押さえて辛そうにしていたところを、セリナが自然に手を差し伸べたお年寄りだった。
「こんにちは。腰の具合はもう大丈夫ですか?」
セリナが優しく声をかけると、おじいさんは「ああ!」と元気よく背筋を伸ばしてみせた。
「おかげさまでねぇ。あれからすっかり体の調子が良くなって、今年の冬は一度も痛まないんだ。それどころか、ここのところ毎日ぐっすり眠れてね。なんだか体まで軽いくらいさ」
「それは良かったです」
静が微笑むと、今度は果物店の奥から、小さな女の子がトコトコと走ってきた。セリナが転んだ膝の傷をそっと癒してあげた子供だった。
「あ、優しいお姉ちゃん! これ、あげる!」
女の子が小さな手で差し出してきたのは、冬の果実である真っ赤なリンゴだった。
「まぁ……ありがとうございます。嬉しいわ」
セリナが屈み込んでそれを受け取ると、女の子の母親が奥から嬉しそうに頭を下げた。
「本当にありがとうございました。あの子、あれからすっかり元気で……。それに不思議なんです、最近は街全体がなんだか優しくて、夜泣きもしなくなりましたの」
お礼を言う人々の視線には、痛みへの驚きを越えた、どこか敬虔で温かな慕情が混ざり合っていた。教会のシンボルを持たないセリナの穏やかな微笑みに、人々は本人の知らないところで、おとぎ話の聖女のような在り方を見出している。
教会の正式な聖女ではない。それでも、困っている人へ自然に手を差し伸べる金紗のような金髪の女性の噂は、少しずつ街に広がり始めていた。
『自由聖女』――そんな呼び名が、人々の間で静かに囁かれ始めていることを、当の本人はまだ知らない。
「皆さん、本当に嬉しそうですね。……静様が整えてくださったお花が、街を健やかにしてくれているからでしょうか」
セリナは貰ったリンゴを愛おしそうに抱えながら、すべての起点を静への深い感謝として胸の奥にそっとしまい込むのだった。
「俺は何もしてないよ。みんなが元気なのが一番だからね。……あ、あそこだ」
静がのんびりと笑いながら指差したのは、いつも冬の保存食や香草を仕入れている馴染みの商店だった。
◆◆◆
その少し後ろでは、リーナが手帳を片手に街の様子を静かに観察していた。
軒先の鉢植えに根づいた星霞草の前で、マルがまた立ち止まる。短い前足で土を「ぽむ」と叩いて、リーナを見上げた。
「……ええ、分かってるわ」
リーナが小さく答え、マルの丸い頭をそっと撫でる。マルは「ぷぷぅー」と得意げに鳴いて、また歩き出した。
(……本当に、劇的な変化は何一つ起きていないわ。病人が一瞬で全員完治したわけでもない。ただ、病気になりにくく、回復が早い。冬の寒さの棘が、街全体からやんわりと削ぎ落とされている……)
高位の術式による結界ではなく、ただの生活の調和がもたらす『精霊の道』の絶対的な安定。リーナは手帳に短い記録を書き留め、そっと胸の奥に溜息を閉じた。
マルがまた別の星霞草の株元で立ち止まり、「ぽむ」と土を叩く。どの鉢の土も、ふかふかとして豊かな色をしていた。
(マルが街を歩くたびに、土が整えられていく。無自覚に、ただ楽しそうに……)
リーナは手帳のページを静かにめくり、また書き留めた。
◆◆◆
「いらっしゃい、静さん。今日は一段と賑やかだねぇ」
馴染みの商店の店主の女性が笑いながら、静の手元の買い物籠を見つめた。籠の中には、先日セレニアの『ドワーフの職人通り』で手に入れたばかりの、深い褐色をした『セレニア産の醤』の小さな陶器壺が覗いている。
「ええ、新しい調味料が手に入ったので、それに合う冬のお野菜や乾物を見にきました」
「へぇ、見たことのない壺だね。静さんの作る冬の料理はいつも美味しそうだから、こっちまで楽しみになっちゃうよ。ほら、今日の白菜は一段と出来が良いから、多めに持っていきな」
「ありがとうございます」
静が嬉しそうに野菜を選んでいる間、セリナが受け取ったリンゴを籠に大切にしまいながら「帰ったらデザートにしましょうね」と静に声をかけた。
「明日はお肉も買いに行こうか。セレニアの醤を隠し味にしたお鍋、アリアたちも気に入ってくれたしね」
静が大きな白菜を籠に収めながら言うと、アリアが「そうね、あの大根の面取り、明日も手伝ってあげるわよ」と、少し得意げに口角を上げた。
「きゅ!」
アリアの腕の中で、あかねが「私も手伝う」と言いたげに短く鳴いた。フィアが「あかねはつまみ食いでしょー?」と笑うと、ハルが「ひゅるぅ!」と楽しそうに羽を揺らす。ミレイアの腕の中では、ルゥが「くぅ」と静かに喉を鳴らしていた。
「じゃあ、必要なものは揃ったし、そろそろお家に帰ろうか」
静が空から降る白い雪を見上げて微笑んだ。足元のマルが「ぷぅ」と短く鳴いて、リーナの隣でぽてぽてと歩き出す。
◆◆◆
屋敷に戻ると、暖炉の前にはすでに温かな空気が満ちていた。
静がいつものようにお茶を淹れ、セリナが市場で貰ったリンゴを薄く切って小皿に並べる。冬の果実らしい鮮やかな赤が、暖炉の光に照らされて艶やかに光っていた。
「今日のデザートはこれだよ、みんな」
静がのんびりと笑うと、フィアが「わあ!」と身を乗り出し、ハルが「ひゅるぅ!」と嬉しそうに羽を動かした。アリアも何も言わずにお皿に手を伸ばし、あかねが「きゅ」と見上げると、小さな一切れをそっとあかねの前に置いてやった。
「ぷぅ……ぷぷぅー!」
マルがリーナの足元から小皿をじっと見上げる。リーナは「あなたも食べるの?」と言いながら、ほんの小さなひとかけらをマルの前に置いてやった。マルは嬉しそうに目を細めて、「にゃむ、にゃむ」ならぬ「ぷぅ、ぷぅ」と音を立てて食べ始めた。
「今日のフォルツ、なんか良かったね。みんなの顔が柔らかくて」
静がお茶を両手で包み込みながらぽつりと言った。
「ええ、本当に」
セリナが穏やかに頷く。
「……そうね」
リーナも静かにカップを傾けた。
「街全体の流れが、少しずつ安定してきている気がするわ」
「流れ?」
「何でもないわ。魔術師の勘みたいなものよ」
リーナはそう言って話を打ち切ったが、その視線は窓の向こうの雪景色へと向けられていた。
ミレイアがルゥをそっと膝の上に乗せながら、「これからの冬が、少し楽しみになってきたわ」と優しく微笑んだ。
窓の外では、初雪がまだ静かに降り続けていた。フォルツの街のあちこちで、星霞草が雪の中で淡い光を揺らしながら、人々の足元を穏やかに照らしている。
誰も世界を変えようとはしていない。ただ、明日もこの場所で、変わらずに丁寧に暮らしていくという確かな気持ちだけが、街の灯りと共に、静かに揺れていた。
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