第三話 境界を越える足音
「――よし、これで最後だね」
晩秋の澄んだ空気の中、静がそっと手を触れていた結晶体から、淡い銀色の光が静かに引いていく。
ステータスのマップ画面の片隅に、北東ルートの最終接続を告げる小さな文字が浮かび、それから静かに消えた。
数日間にわたって続けてきた、屋敷からの『日帰り遠征』
アリアたちが足で調べ上げた探索ルートをなぞるようにして一つずつコアを解放してきた旅が、ついにこの場所で一つの結末を迎えた。
「マッピング完了、ね。……本当に、全部繋がっちゃったわ」
一行の少し後ろで手帳を小脇に抱えたリーナが、信じられないものを見るような目で静の背中を見つめていた。
彼女が持つ手帳のマップには、空白地帯の北東の境界線――そのすぐ向こう側に位置する独立交易地、『セレニア自治連邦』の街の輪郭が、驚くほど鮮明に、かつ完璧な精度で描き出されている。
外界の国家が何年、何十年とかけても成し遂げられない未踏領域の踏破と、安全な国境経路の確立。
歴史を書き換えるほどの偉業が、いま目の前の青年によって、あまりにも穏やかに完了してしまった。
「うん、綺麗に繋がったよ。これでいつでも買い物に行けるね。遠くなったって感じじゃないな……屋敷に近い商店街が、新しく一つ増えたみたいで便利になりそう」
静がマップを閉じながら、ほっとしたようにのんびりと呟く。
「……はぁ」
リーナは頭を押さえ、本日何度目になるか分からない深い溜息を吐き出した。
(国家間の接続を、お出かけ先の延長で語らないでほしいのだけど……。本当に、この人は……)
呆れと、それを遥かに上回る諦め。けれど、その指先がマルの丸い頭をそっと撫でると、足元のマルは「ぷぅ、ぷぅ」と嬉しそうに短い尾を揺らした。リーナは小さく息を吐き、「……まあ、いいわ」と手帳をそっと閉じた。
「あはは! 商店街って良いね! じゃあ明日からは、あの街のご飯が食べ放題ってこと?」
フィアが落ち葉をがさがさと踏み鳴らしながら嬉しそうに笑う。その肩の上で、緑毛のハルが「ひゅるぅ!」とフィアの頬に頭を擦り付けるようにして鳴いた。数日間の遠足のような遠征がこれで終わってしまうことを察したのか、ハルの声には少しだけ名残惜しそうな響きが混ざっている。
「フィア、気が早いわよ。まずは明日、お忍びで様子を見てからでしょう?」
アリアが剣の柄からそっと手を離し、肩の力を抜きながら呆れたように笑った。足元では、夕日の色をしたあかねが「きゅ!」とアリアを見上げて短く鳴く。アリアは「あんたもお腹が空いたの?」と、あかねを慣れた手つきでひょいと抱き上げた。あかねはアリアの腕の中で満足そうに目を細めている。
「でも、本当に不思議なくらい静かな旅だったわね。一度も魔物の気配を感じないまま、境界まで辿り着いてしまうなんて」
ミレイアが周囲の穏やかな森を見渡しながら、感嘆混じりに呟いた。その腕の中では、ロップイヤーの耳をパタパタと動かしたルゥが「くぅ」と静かに喉を鳴らしている。
神獣や守護竜の幼体たちが五匹も揃って歩く道。
屋敷の神気を受け続けてきた彼らの穏やかな気配に、冬を前にした魔物たちは近づくことすらできず、静かに道を譲っていた。上級冒険者であるアリアたちですら、結局最後まで一度も武器を抜くことはなかった。
「みんなが怪我なく、のんびり歩けて良かったよ。……セリナ、寒さは大丈夫だった?」
静が隣を歩くセリナへと顔を向けると、彼女は薄い栗色のストールをそっと押さえながら、どこまでも穏やかな微笑みを返した。
「はい、静様。ハルちゃんがいつも温かい風を送ってくれましたし、何より、こうして静様の隣を歩いていると、少しも寒さを感じませんでした」
「それは良かった。……じゃあ、今日の仕事も終わったし、少し早いけど屋敷に帰ろうか。今日はお鍋にしよう。セレニアに行く前に、まずは屋敷の冬の定番で温まろう」
「ふふ、お鍋ですね。大根をたくさん入れましょう。アリアさん、またお手伝いをお願いしてもいいですか?」
セリナが弾んだ声で尋ねると、アリアは腕の中のあかねをあやしながら、「いいわよ、大根刻むの、結構集中できて楽しかったしね」と、少し照れくさそうに口角を上げた。
静が右手を軽くかざすと、空間がふわりと柔らかな光の粒子に包まれる。
一瞬ののち、晩秋の冷たい森の気配は消え去り、一行を迎え入れたのは、世界で一番安全で、どこまでも温かい、屋敷のリビングに漂う薪の匂いだった。
◆◆◆
帰宅してすぐ、台所には温かい湯気と賑やかな気配が満ちていた。
「アリアさん、大根はこの大きさで切ってもらえますか? このくらいの厚さだと、出汁がよく染みるんですよ」
「……こう?」
「はい、とても上手です。あとは面取りを少し――」
「面取り?」
「角をこう、少しだけ削ると、煮崩れしにくくなるんです」
セリナが手際よく説明しながら隣に立つと、アリアは真剣な顔で包丁を動かした。普段、剣を握るその手が、今は慣れない手つきで大根の角を丁寧に削っている。
「……なるほど。料理も一種の技術ね」
「ふふ、アリアさんはすごく筋がいいですよ」
「そ、そう?」
アリアが少し照れたように視線を逸らした、その時だった。
「きゅ!」
カウンターの縁に前足をかけて背伸びしていたあかねが、ちょうど静が出汁を確認するために鍋の蓋を開けた瞬間に、ふわりと立ち上る湯気を鼻先いっぱいに吸い込んだ。
「きゅぅ……!」
その目がキラキラと輝く。
「あかね、まだ早いよ」
静が苦笑しながら、小さなお皿に出汁をほんの少しだけ掬って床に置いてやると、あかねは「きゅ、きゅ!」と嬉しそうに鳴いてぺろぺろと舐めた。
「……ちゃっかりしてるわね」
アリアが呆れたように言いながら、自分の手元の大根を見下ろす。その口元は、隠しきれずにほんのわずかに緩んでいた。
静が丁寧に整えた出汁に、アリアが切った大根と根菜が入っていく。セリナが火加減を確かめながら鍋を整え、台所全体に優しく濃厚な冬の香りが広がっていった。
◆◆◆
その夜の食卓には、大きな土鍋から白い湯気が勢いよく立ち上り、出汁の優しい香りが部屋いっぱいに広がっていた。
「はぁ、生き返るわね……。遠征の後のこれを楽しみに歩いていたと言っても過言じゃないわ」
アリアがふうふうと息を吹きかけながら、出汁の染みた大根を口に運び、満足げに目を細める。その足元では、あかねが「きゅ」と短く鳴いて、アリアの膝にそっと顎を乗せていた。先ほど台所で試食した分など、もうとっくに忘れたような顔をしている。
「これ、お肉もすっごく柔らかい! 静、おかわり!」
「はいはい、たくさんあるから落ち着いて食べてね」
フィアが勢いよくお皿を差し出すのを、静は苦笑しながら鍋から具材を掬って分けてやる。フィアの隣では、ハルが「ひゅるぅ」とおねだりするように短い羽を動かしていた。
ツキは静の椅子のすぐ側で、浅いお皿に分けてもらった温かいお肉を「にゃむ、にゃむ」と美味しそうに食べており、マルは自分の取り分をきちんと平らげた後、リーナの足元の毛布の上で完全にお餅のように丸くなりながら「ぷぷぅー」と満足げな寝息を立て始めていた。
「明日はいよいよ、セレニアの街ですね」
セリナが静の隣で、温かいお茶のカップを両手で包み込みながら、穏やかに微笑んだ。
「うん。どんな市場があるのか、今からすごく楽しみだよ。変わった野菜や、美味しい調味料があるといいな」
静がのんびりと答えると、リーナが鍋のスープを静かに口に運び、ふっと小さく笑った。
「国家の境界線を繋いでおいて、最初の目的が『珍しい調味料の買い出し』だなんて。……だから、こうして皆ついて来るのよ」
「え? 何か言った、リーナ?」
「……何でもないわ。明日は私も同行するから、しっかりその手帳に新しい『記録』を書き留めさせてもらうわよ」
リーナが少しだけ悪戯っぽく微笑んでお茶をすすると、ミレイアも「私も、あちらの冬の生地を見るのが楽しみだわ」と優しく言葉を重ねた。
窓の外では、晩秋の木枯らしが激しく屋根を揺らし、次の季節の訪れを告げていたが、お鍋の湯気に包まれた屋敷の内側には、明日からの新しい出会いを静かに楽しみに待つ、どこまでもポカポカとした優しい時間が流れていた。




