第二話 リシェルの種、未知なる鼓動
秋の朝は、夜の間に降りた露が陽光に弾け、庭全体が淡い光の粒子に包まれているようだった。
台所からは静が淹れる茶の香りが漂っている。
縁側に腰を下ろしてひと息つこうとした静の隣で、ツキが品定めするような目で庭を見渡し、「にゃ」と短く鳴いた。
「今日も良い天気だね」
静が呟いた、その時
「ぷぷぅー!」
庭の奥から元気な鳴き声が響いた。
短い足を一生懸命に動かして駆け寄ってきたマルが、静の裾を軽く引っ張り、また庭の隅へと戻っていく。
「どうしたの、マル。何か見つけた?」
静が立ち上がると、傍らにいたセリナも「何かお手伝いしましょうか」と自然に寄り添った。
マルが立ち止まったのは、先日フォルティナから『珍しい種』として託されたものを植えた場所だった。
「あ……」
セリナが小さく声を上げる。
昨日まではただのふかふかした土だった場所に、親指ほどの大きさがある
透き通るような白銀色の芽が顔を出していた。
「ぷぷぅー!」
マルは「自分が育てたんだよ」と言わんばかりに、丸い胸を張って得意げに鳴いている。
その足元の土は昨日よりもさらにふかふかとして、黒々と豊かな色をしていた。
「すごいね、もう芽が出たんだ」
静が屈み込んで芽をじっと見つめる。
白銀色の芽は他の植物とは明らかに異なる輝きを持っていた。
単に光を反射しているというより、内側から微かな光を帯びているようにも見え
葉の輪郭がくっきりとしていて、朝露をまとった姿が宝石のように見えた。
「届けてくれた人も、きっと喜んでくれるね」
静がそっと指先を芽に触れさせた。
その瞬間、秋の朝の暖かな日差しの中にいるはずなのに、指先からツンと澄んだ冷気が伝わってきた。不快な寒さではなく、どこか遠い冬の静寂を予感させるような、心地よい涼やかさだった。
(……なんだろう。初めて見るのに、すごく懐かしい感じがする)
理由のない郷愁に包まれながら、静はしばらくその芽を見つめていた。
「静様、少し顔色が変わりましたね。大丈夫ですか?」
セリナが心配そうに覗き込む。
「うん、大丈夫。なんか不思議な感じがしてね。……セリナも触ってみる?」
「はい」
セリナがそっと芽に指先を触れさせた。
次の瞬間、彼女の表情がふっと柔らかくなった。
「……あ。なんだか……懐かしい」
静と同じ言葉が、自然にこぼれた。
何の懐かしさなのか、言葉にはならない。
胸の奥が温かくなるような、確かな感覚だけがそこにあった。
「ぷぷぅー」
マルが二人の足元で満足そうに鳴いた。
◆◆◆
朝のトレーニングから戻ってきた《ルミナ・ヴェール》の面々も、マルの鳴き声に釣られるように庭へと集まってきた。
「あら、もう芽吹いたの? 早いわね」
アリアが驚いたように目を細める。
傍らでは、あかねが芽の周りをくんくんと慎重に嗅いでいた。
「きゅ?」
不思議そうに首を傾げるあかね。
指先を伸ばして芽をちょんと触れようとしたところで、アリアがさりげなくあかねの小さな体をひょいと持ち上げた。
「……まだ触らない方が良さそうよ」
「きゅ」
あかねはアリアの腕の中で大人しくなり、上から芽を観察するような顔になった。
ルゥは芽のすぐ傍に「くぅ」と鳴いて静かに座り込んだ。
まるでその成長を見守る番人のように落ち着いた様子で、芽から視線を離さない。
「ハル、見て見て! 芽が出てるよ!」
フィアが空を見上げて呼ぶと、上空からハルがひゅんと一旋回して降りてきた。フィアの肩のあたりで羽ばたき、「ひゅん!」と短く鳴く。その羽ばたきが、秋の空気を心地よく揺らす。
「なんか、周りだけ空気が違う気がする」
フィアが芽の周囲をぐるりと歩いてみながら、率直に言った。
「そうね。涼しい……というより、澄んでいる感じかしら」
ミレイアが穏やかに頷いた。
エルフとしての感性が、芽の周囲の空気が僅かに変質していることを静かに告げていた。
(この芽が呼吸するたびに、周囲の空気が澄んでいく。……この庭の環境が、この植物に何かをしているのかしら?)
ミレイアは口には出さず、ただ芽を優しく見つめた。
◆◆◆
「……ちょっと、見せて」
リーナが手帳を片手に歩み寄り、瞳を鋭くさせた。
彼女は芽に触れることはせず、じっとその構造を観察し、時折空中に指先で小さな術式を描いては消す。
(魔力の回路密度が……異常だわ。通常の植物の数十倍。いや、それ以上かもしれない)
リーナは内心で計算を重ねながら、観察を続けた。
(この屋敷の神気や魔力の影響がなければ、こんな速さで育つはずがない。本来なら芽吹くだけで数十年単位……いいえ、条件次第では百年近くかかるとされている個体。それが……)
手帳にメモを走らせる手が、微かに止まる。
(ただの伝承だと思っていた。まさか、本当に存在するとは……)
リーナの土晶のペンダントが、ほんのわずかに揺れた。
「リーナさん、どうですか? 何か分かりますか?」
セリナが尋ねると、リーナはふぅと深く溜息をつき、観察用のペンを収めた。
「……そうね。もしかすると、古い伝承に出てきそうな……そんな類のものかもしれないわ。本来なら育てるのが極めて難しい種類なのは間違いないけれど」
それ以上は言わない。
この場で詳細を語ったところで、混乱を招くだけだとリーナは判断していた。
「この庭の土と空気が、よほど合っていたんでしょうね」
「へぇ、そうなんだ。美味しいといいな。みんなで食べられるくらい、たくさん実ると嬉しいね」
静がのんびりと笑って答えると、リーナは再び深く、今度は少し呆れたような溜息を漏らした。
「……あなたって、本当に」
「どうかしたの、リーナ?」
「……いいえ。楽しみにしておくわ。それだけよ」
リーナはそう言って、手帳を胸に押しつけるように抱えた。
土晶のペンダントをそっと握りながら、今しがた観察した内容を脳裏に刻み込む。
(覚えておく。この植物が何になるのか、この庭の環境が何を育てているのか)
それが今の自分にできる、最善のことだった。
◆◆◆
「ぷぅ」
マルが静の足元で短く鳴き、また芽の前に戻っていった。
そのまま芽のすぐ傍らに「どすん」と座り込む。
「マル、お気に入りなんだね」
静が苦笑すると、マルは「ぷぷぅー」と鳴いて、芽から目を離さなかった。
「番をしてくれるの?」
「ぷぅ」
短く答えてマルはまったく動こうとしなかった。
その傍らにルゥも「くぅ」と鳴いてそっと寄り添う。
マルとルゥが並んで芽を見守る姿を眺めて、ミレイアが穏やかに微笑んだ。
「……二人で守ってあげるつもりなのかしら」
「ひゅん」
上空からハルが涼しい風を送った。
あかねはアリアの腕から降り、芽の少し手前で「きゅ」と鳴いて座った。
全員が揃って芽を見守っている。
静は立ち上がり、その光景を見渡した。
幼体たちが、新しく仲間になった命を囲んでいる。
(……なんか、いい光景だな)
静の肩の上で、ツキが「にゃ」と短く鳴いた。
秋の風に吹かれながら、小さな白銀の芽は屋敷の住人たちの穏やかな視線を浴びて、静かに、その鼓動を重ねていた。
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