第一話 風に混ざる秋と、お裾分けのその後
夏の終わりの陽光はまだ肌に熱さを残していたが、フォルツの街を吹き抜ける風には、どこか乾いた秋の気配が混じり始めていた。
石畳の道を静はいつものように穏やかな足取りで歩いていた。その隣にはセリナが寄り添い、足元では小さな家族たちが思い思いに街の風景を楽しんでいる。
《ルミナ・ヴェール》の四人も、自然な間隔で周囲に散らばっていた。
「……随分と、風が涼しくなりましたね」
静が目を細めて呟くと、肩に乗ったツキが「にゃ」と短く同意するように鳴いた。
今日の静は小さな籠をいくつか手にしている。
その中に入っているのは、屋敷の庭で増えすぎた星霞草の苗。
屋敷の周りの土が良いせいか、あそこで育つものは驚くほど瑞々しく、夕暮れ時には柔らかな光を放つ。
その中でも今日持ってきたのは、少し離れた場所で自然に増えた、比較的「普通」に見える株だった。
(屋敷のすぐ近くのはちょっと元気すぎるみたいだから。街の人たちには、これくらいの方が馴染みやすいよね)
静の中にあるのは、そんな控えめな判断だった。自分が無自覚に注いでいる魔力や、幼体たちが庭を駆け回ることで起きている変化への自覚は、相変わらず薄いままだ。
「あ、静さん! いらっしゃい」
声をかけてきたのは、市場の入り口で果実を並べている馴染みの店主だった。
「こんにちは。……これ、家の庭で少し増えすぎちゃったので、もしよければ飾ってください」
静が籠を差し出すと、店主は中を覗き込んで目を丸くした。
「ほう、これはまた綺麗な花だね。何ていう名前なんだい?」
「『星霞草』って言うんですよ。夕暮れになると、少しだけ霞みたいに光るんです」
「へぇ、『星霞草』か。王都の温室にしかないなんて噂を聞いたことがあるが……実物は初めて見たよ。こんなに瑞々しいのは、きっと育て方が上手なんだろうな」
店主は感心しながら、「ありがたく頂戴するよ」と気軽に苗を受け取った。
「にゃ」
ツキが店主の足元を一度だけ回る。
それを見た店主が笑いながら、売り物の果実の端切れをツキの前にそっと置いた。
◆◆◆
星霞草を渡し終えた静が次の露店へ向かう間、それぞれが自然な形で街に溶け込んでいた。
その中心にいたのは、あかねだった。
「わあ、可愛い! 撫でてもいい?」
「きゅ!」
子供たちに囲まれたあかねが嬉しそうに鳴き、小さな体を預ける。
「……やれやれ」
少し離れた場所でアリアが腕を組んで見守っていた。呆れているようで、その目は柔らかい。
「アリアも撫でたいの?」
フィアが笑いながら聞くと、アリアはわずかに目を逸らした。
「……別に」
「きゅ!」
あかねがアリアの足元に駆け寄り、ブーツの先に鼻先を押しつけた。アリアは小さく息を吐いて、無言でその頭をそっと撫でた。
フィアはハルと一緒に子供たちの輪に加わっていた。
「ハル、こっちこっち!」
「ひゅん!」
ハルが上空をひゅんと旋回しては、子供たちの頭上に心地よい風を送る。フィアが「すごいでしょ!」と得意げに言うと、子供たちが歓声を上げた。
ルゥはセリナの足元で「くぅ」と鳴いて、集まった人々の心を無自覚に解きほぐしていた。ミレイアがルゥをそっと抱き上げ、「良い子ね」と穏やかに微笑んだ。
少し離れた石畳の隙間で、マルが立ち止まる。
「ぷぷぅー!」
得意げに鳴いて、石の継ぎ目から顔を出した小さな草を前足でトントンと叩く。まるで「ここもいい土になるよ」と伝えているかのようだった。
その光景をリーナが少し離れた場所から静かに観察していた。
市場全体を見渡す目が、街の空気の変化を丁寧に拾い上げている。
(……以前と比べて、人の動きが柔らかい。行き交う人の肩が、あまり張っていない)
口には出さずに手帳に小さなメモを書き留めた。
◆◆◆
先日から静が「お裾分け」として渡してきた星霞草は、市場の露店の隅や、宿屋の窓辺など、街のあちこちに静かに根付いていた。
人々はそれがただの美しい花だと思っている。
その花が放つ微かな調和の気配が、街に穏やかな変化を広げていることには
誰も気づいていない。
「……なあ、最近ぐっすり眠れるようになったと思わないか? 夜中に目が覚めることがなくなったんだ」
「ああ、うちもだよ。窓辺にあれを置いてから、不思議と心が落ち着くんだ。夜泣きしてた末っ子も、あの日からぴたりと泣き止んでね」
「それだけじゃないよ。向かいのおじさんとこ、ずっと仲の悪かった隣人と最近は挨拶を交わすようになったって言うんだ。なんか、街全体がちょっと変わった気がするな」
行き交う人々の表情が以前よりも柔らかくなっているのを、セリナは肌で感じていた。以前のような、どこか刺々しい焦燥感や重い疲れが、今のフォルツからは消えつつある。
(……静様が蒔いた種が、静かに街の呼吸になっているんですね)
それは誰かに感謝されるための奇跡ではない。
そこにあるのが当たり前だと思えるような、穏やかな変化。
セリナは隣を歩く静の横顔を、慈しむような眼差しで見つめた。
静本人はというと、「今日は夕飯に何を作ろうか」と、並んでいる食材を眺めることに没頭している。
「静様、あちらの香草も良さそうですよ」
「そうだね。……あ、セリナ。あそこの花壇にも星霞草が植えられてる。大切にしてくれてるみたいで嬉しいな」
静が指差した先では、広場の片隅に置かれた鉢植えが、秋の柔らかな日差しを浴びて瑞々しく輝いていた。
◆◆◆
屋敷に戻り、夕食を終えた後の穏やかなひと時。
午後に庭の隅を整えていたマルが「ぷぷぅー!」と鳴いて、植えてあったリシェルの種の前で立ち止まった場面があった。
種に何か変化があるのかと静が近づいてみると、土が昨日よりもふかふかになっていて、種のあたりだけ微かに温もりを帯びているように感じた。
(……マルが整えてくれたのかな。なんか、種も居心地が良さそうだ)
それだけ確認してから、静は縁側に腰を下ろし、手元の連絡板に文字をなぞった。
【静:こんばんは。今日フォルツに行ってきたのですが、なんだか街の空気が少しだけ、柔らかくなった気がします】
しばらくして、板が淡い光を宿す。
【フォルティナ:こんばんは。……実は私も同じことを感じていました。街の人たちが以前より穏やかに笑っているんです。静さんのおかげですね】
静は少しだけ首を傾げて、返信を打ち込む。
【静:そうですか。お裾分けした花が気に入ってもらえたのなら、良かったです。いい秋になるといいですね】
ただそれだけの、短いやり取り。
静の手元から離れた善意は、彼の手を離れた瞬間に、彼自身の功績ではなく「街の風景」へと変わっていく。
「にゃ」
ツキが静の膝に飛び乗り、丸くなる。
庭の奥では、マルが整えた土の中で、リシェルの種が夜の静寂の中で微かな拍動を刻んでいた。
秋の風が屋敷の廊下を静かに通り抜けていく。
何気なく重ねた日々が、誰にも気づかれないまま静かに広がっていた。
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