第九話 教会からの問い合わせと静かな着地
春の陽気が、穏やかに領主館の窓辺を照らしていた。
柔らかな光の中、執務室の空気は静かに整えられている。
その静寂をわずかに揺らしたのは、控えめなノックの音だった。
「フォルティナ様、教会より書簡が届いております」
侍従の声はいつもと変わらぬ落ち着きを保っている。
だが、その手にある封書を見た瞬間――フォルティナはわずかに視線を細めた。
白地に刻まれた紋章。
そして、封蝋。
「……中央監察局」
小さく呟き、封書を受け取る。
通常の連絡ではない。
形式としても、内容としても――これは『正式な問い合わせ』だった。
「ありがとう。下がっていいわ」
侍従が一礼して退室するのを見届け、フォルティナは封蝋を静かに解いた。
紙の擦れる音が、やけに鮮明に響く。
視線を走らせる。
一行、一行。
その内容を読み進めながら、表情は変わらない。
思考だけが静かに深まっていく。
書簡の内容は二点に絞られていた。
ひとつは空白地帯の支配者の現況報告。定期的な確認であり、これ自体は通常の手続きの範疇だ。
だがもうひとつは――違った。
空白地帯周辺において、継続的かつ規則性を伴う高エネルギー反応が観測されている。魔力と神気が混在している可能性があり、フォルツ領との関連性について情報提供を求める、という内容だった。
(……神気、ね)
断定はしていない。
それでも『自然現象ではない可能性を疑っている』という意図は行間から滲み出ていた。
フォルティナはしばらく書簡を手にしたまま、視線を窓の外へ向けた。
穏やかな春の街並み。
変わらず、静かに続く日常。
それから、隣室へ向けて声をかける。
「フレイ、少しいいかしら」
◆◆◆
「呼ばれたかしら」
自由聖女の件で昨日からフォルツに来ていたフレイアが、軽く肩の力を抜いた様子のまま扉を開けた。
しかし視線はフォルティナの手にある封書へと鋭く向けられる。
「ええ。こちらを」
フォルティナは書簡を差し出す。
フレイアはそれを受け取り、ざっと目を通した。
そして――小さく息を吐く。
「……なるほどね」
紙を机に置き、指先で軽く整えながら呟く。
「『神気反応』ね」
フォルティナも頷く。
「ええ。そう表現しています」
フレイアは書簡をもう一度眺め、静かに続ける。
「ただ、『神気』と断定しているわけではない。あくまで観測上の表現に留めている」
「はい。ですが――」
フォルティナはわずかに間を置く。
「ただの自然現象とも、思っていないようです」
フレイアは小さく笑った。
「ええ。そこは同意見ね。……規則性があるという点が、特に気になるところだわ」
フォルティナも頷く。
「偶発ではない、という認識。それが彼らにとっての判断材料になっているのでしょう」
沈黙が一瞬だけ落ちた。
二人とも、書簡の裏にある意図を正確に読んでいる。
教会中央監察局は、事を荒立てるつもりではない。
ただ――把握したい。
記録に残したい。
それだけのことだ。
それでも『把握されること』が何を引き起こすかは、また別の話だった。
◆◆◆
「……あの子たち、関係していると思う?」
フレイアが問いかけた。
問いは簡潔だった。
その『あの子たち』が何を指しているか、フォルティナには即座に分かった。
ハルが風を読んで飛ぶ姿。
マルが土の上をとことこ歩き、植物が伸びていく光景。
あかねが足元に寄り添い、ルゥが穏やかに誰かの隣で丸くなっている、あの日常。
フォルティナはすぐには答えず、ほんの一瞬だけ考えた。
「可能性はあります」
「ただ――」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「一般的な魔物とも異なりますし、かといって既存の分類に当てはめられる存在でもありません。私が見た限りでは……空白地帯の環境に根ざした、特異な個体たちだと思います」
フレイアは小さく肩をすくめた。
「確かにね。『何か特別なもの』ではあるけれど――それ以上でも、それ以下でもない、という感じかしら」
「はい」
フォルティナは静かに頷く。
「少なくとも、害を及ぼす存在ではありません。それだけは、間違いなく」
その言葉には、迷いがなかった。
実際に屋敷で過ごした時間がある。
あの場所の空気を、自分の肌で感じている。
だからこそ言い切れる。
フレイアはその様子を見て、ふっと息を緩めた。
「……それだけ分かっていれば、今は十分ね」
◆◆◆
やがてフォルティナは連絡板を手に取った。
指先でゆっくりと文字をなぞる。
【フォルティナ:教会から書簡が届きました。空白地帯周辺の高エネルギー反応について、情報提供を求められています】
しばらくして、返答が届く。
【静:……うーん。何が原因なんでしょうね】
フォルティナは一瞬だけ視線を落とした。
(……静さんらしい)
驚きも、焦りも、そこにはない。
ただ純粋に、首を傾げているだけの言葉。
続けて問いかける。
【フォルティナ:……何か心当たりはありますか?】
少しの間があって――
【静:庭が豊かになってきたのと、関係あるのかな】
【静:特別なことはしていないと思うんですけど】
フォルティナは、小さく息を吐いた。
(……やはり)
予想通りの答えだった。
それを笑うことも、否定することも、フォルティナにはできなかった。
なぜなら――間違っていないからだ。
庭が豊かになったこと。
あの場所の空気が変わっていること。
幼体たちが根付き、環境そのものが変質しつつあること。
原因は一つではない。
静の存在。幼体たちの影響。積み重なってきた時間。
それらがゆっくりと、けれど確実に絡み合っている。
静本人はそれを『庭が豊かになった』という一言で片付けてしまう。
そしてそれは、ある意味で何よりも正確な表現だった。
(本当に……あなたは)
フォルティナは小さく目を閉じ、それからまた連絡板に向き直った。
【フォルティナ:……分かりました。こちらで対応します】
【フォルティナ:静さんは、これまで通りでいてください】
少しだけ間を置いてから、もう一文添える。
【フォルティナ:庭のこと、大切にしてあげてください】
静からの返信は、いつもと変わらない穏やかさだった。
【静:ありがとうございます。お願いします】
【静:……庭、もっと良くなるよう頑張りますね】
その一言に、フォルティナは思わず口元を緩めた。
連絡板を静かに置く。
隣でやり取りを見ていたフレイアが、小さく噴き出した。
「……あの人、本当に」
「ええ」
フォルティナも、小さく笑う。
「でも、それが静さんですから」
◆◆◆
机の上に広げられた報告書用紙。
ペン先が滑らかに紙を走る。
一文一文、無駄なく、曖昧さを残さず。
それでいて、核心には触れない。
空白地帯の支配者は、現在も安定した状態を維持している。
周辺で観測される魔力反応については、環境変化および生態系の活性化に伴う自然増幅の可能性が高い。
当該領域において、特異な生物群の存在は確認されているが、いずれも外部に対する敵対性は示していない。
現時点で、教会の介入を要する事象は確認されていない。
ペンが止まる。
しばしの沈黙。
最後にもう一度だけ全体を読み返す。
嘘は一つもない。
ただ――伝える必要のないことは、伝えない。
それだけだった。
「……これで問題ありません」
フレイアが書面を覗き込む。
目を通し、数秒。
やがて小さく笑った。
「……上手いわ、ティナ」
紙から視線を外さずに続ける。
「全部本当なのに、核心には一切触れていない」
フォルティナは穏やかに答える。
「嘘をつく必要はありません。ただ、伝える必要がないことは、伝えなくていいだけです」
フレイアは肩をすくめた。
「そういうことにしておくわ」
それだけ言って、フレイアはそのまま静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が、執務室に小さく響く。
◆◆◆
静寂が戻った。
フォルティナは完成した報告書を机に置き、ゆっくりと息を吐いた。
窓の外では、春の光が変わらずフォルツの街を照らしている。
ふと、手が髪へと伸びた。
指先が触れたのは、黒晶の花の髪飾り。
淡く、光を受けて輝いている。
――その瞬間
ほんのわずかに、温もりのようなものを感じた気がした。
「……」
理由は分からない。
髪飾りが温かいわけでも、不思議な光を放っているわけでもない。
ただ――指先に触れるその感触が、どこか確かなもののように思えた。
(原因は、きっと一つじゃない)
庭が豊かになってきた、という静の言葉。
あの場所で過ごした時間。
幼体たちの存在。
それらすべてが、ゆっくりと積み重なって、今のあの場所を作っている。
そして自分は――その場所を守る側にいる。
(静さんの日常は……)
胸の内で、静かに言葉を紡ぐ。
(私が守ります)
声には出さない。
ただ、その想いだけを確かに抱いて。
フォルティナは静かに立ち上がった。
報告書を丁寧に折り、封筒へと収める。
教会中央監察局へ。
正式な経路で、正式な書面として。
春の陽射しは、変わらずやさしく。
その下で、すべては――
何事もなかったかのように、穏やかに続いていく。
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物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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