第十話 春の終わりに
春の終わりの夕暮れが、ゆっくりと庭を包み込んでいた。
やわらかな風が吹き抜け、花々が静かに揺れる。
色とりどりの花の中に混じって、透き通るような瑠璃色の花――瑠璃星草が咲いていた。
その数は、昨日よりもほんの少しだけ増えている。
花壇の隅で丸くなって眠るマルのそばだけ、土がひときわふかふかとしていた。
誰かが気づくほどではない。
けれど、確かに。
この庭は日々、静かに豊かになっていた。
「……うん、良い春だね」
縁側に腰を下ろし、静は湯呑みを傾けながら小さく呟いた。
肩の上では、ツキが同じように庭を見つめている。
「にゃ」
短く鳴くその声は、どこか満足げだった。
足元では、花びらの上に転がるようにしてマルが丸くなっている。
「ぷぅ……」
眠たそうに鳴きながら、マルがゆっくりと目を閉じていく。
少し離れた場所では、ハルが風の流れに乗るように軽く舞い上がり、あかねが静の足元へとそっと寄り添うように座り込んだ。
「きゅ」
小さな鳴き声に、静はふっと笑みをこぼす。
ルゥは少し離れた花の陰で丸くなり、この穏やかな時間を見守るようにじっとしていた。
――いつもの光景だった。
何も変わらない。何もかもが少しずつ積み重なっている。
そんな、かけがえのない時間。
◆◆◆
庭の奥ではセリナが花の手入れをしていた。
東側の花壇。
先日の茶会でみんなと植えた星霞草が、魔法銀の遮光布の下で、夏に向けて青々とした葉を広げ始めている。
慣れた手つきで土を整え、水を与える。
その動きには、もう迷いがない。
ここで過ごす時間が、彼女の中にしっかりと根付いている証だった。
隣では、瑠璃星草が夕暮れの光を受けて揺れている。
春の終わりを告げるように、その透き通るような青が、少しだけ深みを増していた。
セリナはその花をしばらく眺めてから、また手を動かし始めた。
土を整える。水を与える。
ただそれだけの、静かな時間。
◆◆◆
ふと、静の手元で連絡板が淡く光った。
セリナは手を止めずに、その気配を視界の端で感じる。
【フォルティナ:教会への報告、無事に終わりました】
静が視線を落とし、指先でさらさらと返答をなぞる。
【静:お疲れさまでした。ありがとうございます】
少しの間があって、次の文字が浮かび上がった。
【フォルティナ:……また、伺ってもいいですか】
静は、ほんのわずかな間を置いて、迷いなく答えた。
【静:いつでも】
――そのやり取りが、セリナの視界に入った。
(いつでも、か)
胸の奥が、ちりりとする。
セリナは無意識のうちに、自分の髪に飾られた黒晶の花に触れた。
フォルティナもまた、今、同じ花を髪に飾っているはずだ。
彼女がどれほど静を大切に思い、そしてこの場所を守るために、遠い街で独り戦ってくれているのか。
それは、もう十分すぎるほど分かっていた。
(あの人がいるから、ここは守られている)
不思議と、その事実は苦しくなかった。
むしろ、共にこの場所を愛する者がいるという、静かな安心感があった。
けれど――
(……私も)
言葉にならない想いが、胸の奥で揺れる。
誰かを押しのけるのではなく、否定するのでもなく。
同じように、隣に。
セリナはその想いを静かに受け止めた。
否定することなく、押し込めることもなく。
ただ、そこにあるものとして。
そっと抱きしめるように。
◆◆◆
ふと、自分の手が止まっていたことに気づく。
「……いけませんね」
小さく呟き、セリナはもう一度花へと向き直った。
先ほどよりも、少しだけ丁寧に
土を整え、水を与える。その時――
「にゃ」
足元にツキがやってきた。
見上げるように鳴くその姿に、セリナは自然と表情を緩める。
「どうしましたか、ツキ」
そっと撫でると、ツキは気持ちよさそうに目を細めた。
すぐ近くでは、あかねが袖をちょんと引く。
「きゅ」
「ふふ……あなたもですか」
その頭を優しく撫でると、あかねは満足そうに鳴いた。
幼体たちの温もりが、胸の奥にそっと触れた。
セリナは、小さく息を吐いた。
「……うん」
それだけで、今は十分だった。
◆◆◆
顔を上げる。
視線の先には、縁側に座る静の姿。
変わらず、穏やかに庭を眺めている。
その隣に――行きたいと思う。
特別なことではない。
いつものように、同じ時間を過ごすために……
ほんの少しだけ、足を踏み出す。
そのまま自然な流れで、庭の手入れを続けながら静のいる方へと歩み寄っていく。
「セリナ、そっちはもう終わった?」
静が振り返りもせず、穏やかに声をかけてきた。
「はい。星霞草も、だいぶ根付いてきたみたいです」
「そっか。夏が楽しみだね」
「ええ」
セリナは静の少し隣に腰を下ろした。
肩の上のツキが、二人を見比べるように視線を動かしてから、満足げに目を細める。
「にゃ」
「……なんか、ツキに見守られてる気がする」
静が苦笑すると、セリナも小さく笑った。
夕暮れの光の中、二人は並んで庭を眺めた。
言葉はなくていい。
ただ、同じ景色を見ている。それだけで。
◆◆◆
しばらく、そのままでいた。
湯呑みから立ち上る湯気が、夕風にゆっくりと溶けていく。
マルは相変わらず花びらの上で眠り、ハルはいつの間にか静の膝のそばに降りてきて、小さな翼を畳んでいた。
あかねは二人の間のちょうど真ん中あたりに座り、庭を眺めている。
穏やかな時間だった。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
夕暮れの色が少し深まったころ、セリナがふと口を開いた。
「あの……静様」
「うん?」
静が視線をこちらへ向ける。
その穏やかな目を見て、セリナはほんの少しだけ迷った。
けれど、迷いは長く続かなかった。
「……また今度、フォルツのお店を見に行きませんか。二人で」
言ってしまってから、少しだけ頬が熱くなる。
「転移でぱっと行けるようになりましたし……季節の変わり目ですから、市場に珍しいものが出ているかもしれないなと思って」
言葉を補うように続けてから、セリナはそっと視線を庭に落とした。
静は少しの間、何も言わなかった。
(……余計なことを言ってしまったかな)
そう思い始めたころ――
「そうだね」
穏やかな声が返ってきた。
「季節の変わり目って、市場が面白いんだよね。夏前の野菜とか、珍しい食材とか」
静が軽く考えるように続ける。
「フォルツ、最近あまりゆっくり見て回れていなかったし。……行ってみようか、セリナ」
「……はい」
思ったより素直に返事が出てきて、セリナは自分でも少し驚いた。
「じゃあ、天気の良い日に。みんなにも声をかけようか」
「そうですね。フィアさん、きっと喜びます」
「絶対に喜ぶね」
静が小さく笑う。
セリナも、つられるように笑った。
肩の上のツキが「にゃ」と短く鳴いた。
まるで、いいね、と言っているみたいに。
あかねが「きゅ」と鳴いて、セリナの膝にちょんと前足を乗せた。
「……あかねも来たいの?」
「きゅ!」
元気よく鳴き返す声に、二人は顔を見合わせて笑った。
「みんなで行こうか」
静がそう言うと、どこからともなくマルが目を覚まして「ぷぅ」と鳴き、ハルが翼をひらりと広げた。
「……全員参加ね」
セリナが苦笑する。
「まあ、それがこの屋敷らしいかな」
静が穏やかに言った。
その言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
(この屋敷らしい)
そう、ここはそういう場所。
誰かだけの場所ではなく、みんなの大切な場所。
セリナはそれを温かいものとして受け取った。
◆◆◆
風がもう一度そっと吹いた。
庭の花々が揺れる。
瑠璃星草も、成長を待つ星霞草も、夕暮れの光を受けて静かに揺れていた。
その数は、昨日よりもほんの少しだけ多い。
誰にも気づかれないほどの変化。
けれど、確かにそこにある。
春の終わりの穏やかな夕暮れだった。
イメージソングを作成してみました。
もし興味を持って頂けましたら、曲を聴きながら読んでくれたら嬉しいです。
物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
https://suno.com/@10monoshin8
カクコムでも先行掲載しています。
もし続きが気になって読んでいただける方が居たら下記のページでお願いします。
https://kakuyomu.jp/works/822139842423376578




