第八話 自由聖女の噂
春の陽気が緩やかに街を包み込む頃――
セレニア自治連邦の一角、商人たちの集まる宿では、いつものように軽い情報交換が行われていた。
「フォルツの方、最近妙に穏やからしいな。流行病も長引かないとかなんとか」
「教会の聖女が入ったのか?」
「いや、それが違うらしい。教会所属じゃないって話だ」
「は? じゃあなんだよ、それ」
少しだけ興味を引かれたように、別の男が口を挟む。
「『自由聖女』って呼ばれてるとか」
酒を片手に、気楽な調子で交わされる言葉。
「……なんだそれ」
笑い混じりの声が上がる。
「さあな。噂なんてそんなもんだ」
誰も深く追及しない。
それでも、その言葉は確かにその場に残った。
――自由聖女
曖昧で、けれど耳に残る響き。
その会話を少し離れた席で静かに聞いていた者がいた。
リシェルは手元の帳簿に視線を落としたまま、何も言わない。
リシェルはフォルツとの取引を長く続けてきた商人だ。感情を表に出さず、必要な情報だけを的確に届ける。それがフォルティナとの信頼の形だった。
驚きも、興味も、表には出さない。
ただ――覚えておく。
(……教会未所属の聖女、ですか。もし本当なら、その周辺では質の良い薬草や、特異な需要が生まれるはず。覚えておいて損はありませんね)
噂としては珍しくない。
だが、『広がり始めている』気配があった。
リシェルは感情を排した目で、宿屋の喧騒を一つの「市場の動向」として記録した。彼女は帳簿を閉じると、静かに立ち上がる。
必要以上に関わらない。
必要な分だけ持ち帰る。
それが彼女のやり方だった。
◆◆◆
フォルツ領主館。
フォルティナは執務机の上で淡く光る通信具に気づき、軽く視線を向けた。
懇意にしている商人、リシェルからの短文通信だ。
――《仕入順調、他要望可》
――《珍苗・種希望》
――《了承、自由聖女噂あり》
ペン先が、ほんのわずかに止まる。
――《詳細乞う》
――《未所属。フォルツと合致》
フォルティナは一拍置いてから、淡々と返す。
――《了解、情報収集願う》
通信が途切れた。
フォルティナはゆっくりとペンを置き、小さく息を吐いた。
「……やはり来たわね。少し早いわね」
視線を窓の外へ向ける。穏やかな街並み。
だからこそ、その裏で動き始めた波紋は無視できない。
フォルティナは迷うことなく、連絡板を取り出しフレイアへ伝える。
【フォルティナ:セレニア方面で、『自由聖女』という噂が広がっているみたい。多分セリナさんの事だと思うけど……】
◆◆◆
王都の冒険者ギルド《ルミエール》本部。
人の気配が行き交う中、フレイアは一人静かな一室にいた。
連絡板に映る文字を読み終え、わずかに目を細める。
「……そう」
短く息を吐く。
驚きはない。
確認するように一度目を閉じてから、連絡板に返信を書く。
【フレイア:静さんへ伝えておいた方がいいわね。私の方も動くわ】
フォルティナもすぐに返信し
【フォルティナ:そうします。そちらもお願いしますね】
短い言葉。
理由は言わない。
その必要がないと、二人とも分かっているから。
◆◆◆
屋敷。
穏やかな空気の中、連絡板が淡く光る。
静はそれに気づき、手を止めた。
表示された内容を読み、少しだけ首を傾げる。
【フォルティナ:セレニア方面で、『自由聖女』という噂が広がっています】
「……自由聖女?」
小さく呟く。
【フォルティナ:セリナさんのことを指している可能性が高いです】
静は一瞬だけ考えた。
ほんのわずかな間。
そして――
【静:……そうですか】
それ以上、感情は動かない。
ただ、静かに続ける。
【静:セリナはここで自分らしく、楽しく生活しているので。そういう時間が壊れるのは、ちょっと……困りますね】
【フォルティナ:そうならないよう、上手く動きます】
迷いのない返答。
静はその文字を見て、わずかに息を緩める。
【静:……お願いします。セリナには、まだ言わないでおいてもらえますか】
少しだけ間を置いて、もう一言。
【静:余計な心配は、させたくないので】
連絡板を閉じる。
静は困ったように眉を下げて庭を見た。
そのやり取りを、少し離れた場所で見ていたミレイアが、静かに呟く。
「……静もちゃんと分かっているのね」
それだけだった。
説明はいらない。
外の世界が、少しずつ近づいていること。
そして、それがどういう意味を持つのか。
ミレイアは小さく息を吐いてから、穏やかに視線を庭へ向けた。
◆◆◆
庭では、セリナが花の世話をしていた。
春の花が柔らかく揺れ、瑠璃星草の周囲の空気がほんの少し澄んでいる。
「こちらも、元気に育っていますね」
セリナが優しく微笑む。
足元ではツキが花びらを追い、あかねが楽しそうにその後を追う。
マルは少し離れた場所で丸くなり、ハルはその周囲をそよぐ風のように静かに寄り添っていた。
何も知らない。
ただ、いつものように。
穏やかで、やさしい時間。
その様子を静は縁側から眺めながら、セリナへ声を掛ける。
「セリナ、そっち手伝うよ」
「あ、はい。ありがとうございます、静様」
変わらない声。
変わらない距離。
静は庭へ足を向けながら、小さく呟いた。
「……まあ、大丈夫かな」
その中で、世界はほんの少しだけ動き始めている。
誰にも気づかれないまま――静かに。
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