閑話 白の庭園にて――咲いたものへの静かな祝福
白の庭園には、いつものように静かな光が満ちていた。
どこまでも広がる白。
空とも地ともつかないその空間に、淡く揺れる光が花びらのように漂っている。
地上の「春」という季節の揺らぎが
この絶対的な静寂の領域にも、微かな残響として届いていた。
風の匂いとも花の気配とも違う、もっと淡い何か。
概念に近い温度のような揺れ。
それが今日は少し濃い。
その中心に女神たちはいた。
円を描くように、ゆるやかに集いながら――
その視線はひとつの場所へと向けられている。
地上
薄紅雲の樹が淡い桃色に染まり
六色の輝きを身に纏った者たちが笑い合っている、あの庭へと。
◆◆◆
「あら……」
最初に声を上げたのは、フレアリアだった。
「見て、あの子たち。全員揃っているわ」
その声音には隠しきれない楽しげな響きが混じっている。
身を乗り出すようにして覗き込みながら、くすりと笑った。
「みんないい顔してるわね。……あのお菓子、美味しそう」
視線の先では、セリナとフィアが春野菜のサンドイッチを頬張り
アリアが呆れ顔で苺のロールケーキを切り分けている。
花びらが舞う中、笑い声が弾けていた。
「……あの花見、楽しそうだわ。私も混ざって甘いお菓子を食べてみたい」
ぽつりと零れたその言葉に、すぐ隣から穏やかな声が重なる。
「それは駄目よ、フレアリア」
ミラシアが、柔らかく、しかしはっきりとした調子で言った。
「……あの子たちの時間だもの」
「分かってるわよ。ちょっと言ってみただけ」
フレアリアは一瞬だけ口を尖らせたが、すぐに小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
そう言いながらも、視線は離さない。
「……でも本当に、美味しそう」
「フレアリア」
「言うだけよ。言うだけ」
ミラシアは小さく苦笑した。
地上では、ちょうどフィアがマルに向かって
「花びら食べたら駄目だよ!」と叫びながら追いかけ回していた。
マルは「ぷぷぅー!」と得意げに逃げ回り、花びらをひらひらと巻き上げている。
「……あの小さいの、楽しそうね」
フレアリアの声から、羨ましさの色が少しだけ薄れた。
代わりにもっと柔らかい何かが宿る。
「ええ」
ミラシアが静かに頷いた。
「……本当に、いい光景ね」
◆◆◆
「風、届いているみたいね」
ウィスティアが楽しそうに目を細めながら呟く。
「少しだけ春を強めておいたのだけれど」
その言葉にミラシアが小さく肩をすくめた。
「『少しだけ』ね」
「本当に少しよ? ほら、あの子たち気づいていないでしょう?」
視線の先では風に舞う花びらを追いかけて、幼体たちが無邪気に転がっている。
ハルだけがほんのわずか、耳をぴくりと動かしたが――それだけだった。
「あの子は少し分かっているかもしれないわ」
ウィスティアが目を細める。
風の守護竜として生まれた幼体が、風の意味を本能で感じ取ったとしても不思議ではない。
「問わないのね」
「問わなくていいもの。あの子はまだ、あのままでいい」
誰もその風の出処を問わない。
ただ「心地よい春の訪れ」として受け止めていた。
「……それでいいのよ」
ミラシアが静かに言った。
「気づかなくていいの。あの子たちは、あのままで」
その言葉は否定ではなく、やさしい肯定だった。
干渉しすぎないこと。
それがこの場にいる者たちの、暗黙の了解でもある。
◆◆◆
しばし、誰も言葉を発しなかった。
地上の光景を見守る。
穏やかな時間が静かに流れていく。
花びらが一枚、また一枚と舞い落ち
それを眺める者たちの顔が、春の光の中で柔らかく和らいでいた。
静とフォルティナが植えたばかりの花壇の前に並んで立っている。
言葉は少ない。
ただ同じものを見ている。
「……ふふ。あの二人」
フレアリアが声を落とした。
「仲がいいわね。会うたびに距離が縮まっている気がするわ」
「……そうね」
ミラシアは静かに笑った。
その少し離れた場所から、セリナがその光景を見ている。
髪飾りにそっと触れながら、小さく微笑んで。
フレアリアはその様子を見て、少し首を傾げた。
「セリナのあの顔……なんだか複雑な感じね。痛そうなのに、嬉しそう。
どっちなのかしら」
「両方よ」
ミラシアが静かに答えた。
「人の感情はそういうものだもの。どちらかだけ、なんてことはあまりないわ」
「……そういうものかしら」
「そういうものなの」
フレアリアはしばらく考えるように黙ってから
「ふぅん」
と小さく呟いた。
「……なんか、複雑ね。でも」
地上ではセリナの口元が静かに綻んでいる。
痛みをそれごと抱きしめるように。
「……きれいね。あの子」
フレアリアの声はいつになく静かだった。
◆◆◆
やがて――
「……咲いた」
小さな声がぽつりと落ちた。
ルートミアだった。
それだけ。
それ以上は何も言わなかった。
けれどその一言に込められた意味を、ここにいる全員が理解していた。
薄紅雲の樹が咲いたこと。
新しく植えられた星霞草が、その地に根付いたこと。
マルが土を整え、ハルが風を読み
それぞれの守護がこの庭に静かに根ざし始めていること。
そして――
セリナの胸の奥で、痛みさえも慈しみとして受け入れる感情が
確かに芽吹いたこと。
「……ええ」
誰かが小さく応じる。
それで十分だった。
言葉を重ねる必要はない。
白の庭園に、再び静寂が戻る。
◆◆◆
その少し外れた場所で――
ルーナフィリスは一人立っていた。
他の女神たちの輪から、わずかに距離を置いて。
ただ静かに地上を見つめている。
その瞳には何も映していないようでいて、すべてを見通しているようでもあった。
花びらが舞い、風が流れ、
小さな笑い声が確かにそこにある。
星の守り、六色の光。
静が皆のために作ったものが、静かに皆を守っている。
静本人はそれを「便利になった」と言うだろう。
でもそれは――
(……あなたは本当に、そのままでいてくれる)
言葉にはならない。
ただ、その視線がわずかにやわらいだ。
地上ではマルがまだ花びらの中を逃げ回っていた。
フィアが「待ちなさいよ!」と叫ぶ声。
アリアの呆れた溜息。
リーナが口元を押さえて肩を震わせている。
そのすべてが、ひとつの調和の中にあった。
ルーナフィリスはそれを、ただ見ている。
干渉も、言葉もない。
けれど――ほんのわずかに、その口元がやわらいだ。
甘いものでも食べたいという気持ちも
少しだけあったかもしれない。
それは誰にも言わない。
◆◆◆
やがて白の庭園にも静かな風が吹いた。
地上と同じように。
誰かが小さく息を吐く。
「……いい春ね」
その言葉はどこへともなく溶けていく。
応える声もまた、穏やかだった。
「ええ、本当に」
白の光がやわらかく揺れる。
その中で女神たちはただ静かに見守っていた。
咲いたものが、これからも続いていくことを――
疑うことなく。
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