第一話 最初の芽吹きと街の空気
冬の寒さが和らぎ、フォルツの街に春を告げる湿った風が吹き始めた頃
領主館の執務室ではフォルティナが王都から定期連絡と視察を兼ねて訪れていたフレイアと共に、山積みの書類を片付けていた。
「……ふぅ、これで急ぎの分は終わりかしら。ティナ、お疲れ様」
フレイアがペンを置き、肩を回す。
王都での激務を思えば、同じ量の書類でも今日は不思議と頭が冴えていた。
髪留めが蝋燭の灯りをそっと受けて光る。
気のせいかもしれない。
でも、悪くない気分だった。
「ありがとうございます、フレイ
……少し、庭に出てきてもいいですか? 気になることがあって」
「ええ、いいわよ。私も少し風に当たりたいわ」
二人は連れ立って、領主館の裏手に広がる庭園へと向かった。
フォルティナの視線は庭の一角、先日自らの手で植えた瑠璃星草の種のある場所に固定されていた。
「――あ」
思わず、小さな声が漏れた。
まだ冷たさの残る土を割って、指先ほどの小さな双葉が顔を出していたのだ。
それは静の庭で見たものと同じ、透き通るような瑠璃色の芽だった。
「芽吹いたのね。……見て、ティナ。光っているわけじゃないのに、不思議と目が離せないわ」
フレイアが感嘆の声を漏らす。
その芽は派手な輝きを放っているわけではない。
けれど、その芽の周囲だけ、まるで空気そのものが浄化されたかのように、驚くほど澄み渡っていた。
フレイアはしばらくその芽を見つめてから、静かに言った。
「……ギルドマスターとして、いろんな土地を見てきたけれど」
ふと、髪留めが春風に揺れた。
頭の中が澄んでいる。
王都では常に抱えている重さが、今日はどこかへ消えていた。
「こんなに穏やかな空気の街はそうそうないわ。
ティナが頑張っているのはもちろんだけど……
これは、それだけじゃない気がする」
フレイアは答えを求めているわけではなかった。
ただ、長年培ってきた経験が、この変化を『普通ではない』と告げていた。
「……最近、街の様子が少し変わった気がしませんか?」
フォルティナが問いかけると、フレイアは深く頷いた。
「ええ、王都から来たギルドの職員たちも言っていたわ。フォルツに入ると、なんだか体が軽くなるって。
市場でのトラブルも減っているし、何より、みんなの顔色がとてもいいの」
どれも数値化できるような変化ではない。
街全体を包む『空気』がより穏やかで、より健やかなものへと静かに書き換わっている。
(静さんの善意が、この街にも根を張り始めている……)
フォルティナは懐から連絡板を取り出した。
指先で大切に文字をなぞっていく。
【フォルティナ:領主館の庭に、瑠璃星草の芽が出ていました】
ほどなくして、慣れ親しんだ淡い光と共に静からの返信が届く。
【静:もう出たんですね。早いな】
【フォルティナ:街の空気が少し変わった気がします。気のせいかもしれませんが】
静の返信は少しの間を置いてから届いた。
【静:……そうですか。良かった】
ただそれだけの、短い言葉。
そこには手柄を誇るような気配も、自分の渡したものが何を引き起こしているのかを
分析しようとする無粋な欲もなかった。
友人が『空気が良い』と言ったことに対して、心から安堵しているような、そんな響きがあった。
「ふふ……本当に、静さんらしいです」
フォルティナは空を見上げた。
フレイアが隣で静かに微笑んでいた。
「ティナ」
「はい」
「あなたが守ろうとしているもの、ちゃんと見えているわよ」
それ以上は言わない。
フレイアはそういう人だった。
フォルティナは小さく頷いて、髪飾りにそっと触れた。
静からいただいた黒晶の花。
日の光を受けるたび、静かに輝く。
「……静さんの平穏は、私が必ず守り抜きます」
声には出さなかった。
ただ、その光を少しの間だけ見つめて、フォルティナは静かに前を向いた。
街のあちこちで芽吹き始めた、小さな善意
それはまだ、誰にも気づかれないほど微かな変化に過ぎない。
けれどフォルツの春は、確かに始まっていた。
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