第七話 灯りが当たり前になる頃
朝の庭にやわらかな光が落ちていた。
夜露を残した芝生の向こうで、瑠璃色の小さな花が風に揺れている。
静は縁側から庭へ降りると、花の前にしゃがみ込んだ。
「……増えてるな」
昨日まで数株だったはずの瑠璃星草は
いつの間にか群生するようにその範囲を広げていた。
水晶のように透き通った葉が、朝陽を浴びてきらきらと輝いている。
「昨日より、確実に増えていますね」
朝食の準備を終えたセリナが後ろから顔を出した。
続いてアリアが腕を組んだまま近づき、眉を寄せて庭を眺める。
「……植えたの、つい数日前じゃなかったかしら?」
「ええ」
リーナが短く答え、土の表面に指先をそっと近づけた。
「魔力が細い根の先まで淀みなく流れてる。
この庭の土が、完全に空白地帯の純度になじんだ証拠ね」
アリアがふっと息を吐き、視線を足元に落とす。
「つまり――また、あの子の仕業?」
芝生の上では、その当人がごろんと仰向けに転がっていた。
「ぷぅ」
マルだ。
丸い体を揺らし、頬袋を満足げに膨らませている。
「マル、やりすぎ。もうすぐお庭が花で埋まっちゃうよ」
フィアが笑いながらマルの柔らかなお腹を突つくと
マルは誇らしげに胸を張り「ぷぷぅー!」と力強く鳴いた。
誰も深くは突っ込まない。
不思議なことが起きても、「マルなら仕方ない」「この屋敷ならあり得る」と
自然に受け入れられるようになっていた。
ミレイアが穏やかに微笑む。
「元気に育っているのなら、それでいいじゃない。綺麗ですもの」
「そうだね」
静も微笑み、瑞々しい瑠璃色の花びらにそっと触れた。
そんな中、花の陰から小さな気配が近づいてきた。
あかねだ。
淡い夕日色の体を低くして、瑠璃星草の群生をそろりそろりと覗き込んでいる。
小さな角が朝の光を受けて、ちかりと光った。
「きゅ?」
首を傾げ、花びらに鼻先を近づける。
透き通った花びらが、あかねの鼻息でかすかに揺れた。
「きゅ」
今度は少し低い声で鳴いて、前足で花の根元の土をちょん、と叩く。
マルがそれを見て「ぷぅ」と鳴いた。
何かを確認し合うような、短いやり取り。
静がその様子を見て、小さく笑った。
「あかねも、気になるんだな」
セリナも隣でそっと微笑む。
「ツキの真似をしながら、でも自分でちゃんと確かめているんですね」
朝の光の中で、瑠璃色の花とあかねの夕日色が並んで揺れていた。
◆◆◆
少しして、屋敷の門の方から元気な声が響いた。
「ツキー、こっちだよー!」
フィアが門を飛び出し、塀の上を軽やかに走るツキを追いかける。
「にゃ」
朝の見回りだ。
屋敷の外周を軽く一周する、毎朝のルーティン。
二人の後ろを、ハルが小さな翼を広げてゆっくりと旋回する。
「ひゅん」
そして、その後ろから
「きゅ!」
あかねが一生懸命にツキの後を追って駆け出した。
まだ足元が少しおぼつかない走り方で、それでも懸命についていく。
フィアが振り返って「あ、あかねも来た!」と笑う。
ツキは一度だけ振り返り、「にゃ」と鳴いた。
それから少しだけ速度を落として、あかねが追いつくのを待った。
三つ半の影が、朝の外周路をゆっくりと進んでいく。
やがて門の前へ戻ってきたフィアが、元気よく手を振った。
「ただいまー! 今日も異常なし!」
アリアが軽く顎を上げる。
「ご苦労さん」
「あかねも頑張りました」
セリナが静かに付け加えると、あかねが誇らしげに「きゅ」と鳴いた。
ツキが隣で「にゃ」と短く鳴いて、あかねの頭をそっと舐めた。
この屋敷が自然に守られていることが、穏やかな朝の空気に溶けていた。
◆◆◆
昼下がり、縁側で一息ついていた静の手元が淡く光った。
連絡板だ。
静は指先で板をなぞる。
指が通った跡に淡い光の線が残り、ゆっくりと文字へと定着していく。
【フォルティナ:瑠璃星草はその後いかがですか】
静は思わず少し笑った。
ちょうど花のことを考えていたところだった。
指先でさらさらと文字を綴る。
【静:増えてました。マルのおかげかな】
少し間を置いて返信が届く。
【フォルティナ:……マル、ですか】
「そっか、まだ会ったことないんだった」
静は独り言のように呟き続きを書いた。
【静:丸いハムスターみたいな子です。
庭が好きみたいで、よくお手伝いをしてくれるんですよ】
板の向こうで少し考えているのか、返事までわずかに間が空く。
【フォルティナ:……いつか、会ってみたいですね】
【静:いつでも来てください。花も喜ぶと思います】
静にとっては、友人を招くようなごく自然な一言だった。
連絡板の向こうでフォルティナがどんな表情でこの文字を見つめているか
今の彼にはまだ知る由もない。
しばらく間が空いた。
やがて届いた返事。
【フォルティナ:……ありがとうございます】
静は連絡板を閉じ軽く伸びをした。
少し離れた場所でお茶を運んできたセリナがその様子を見ていた。
連絡板の光に照らされた静の横顔は、どこか柔らかい。
(……)
胸の奥に、ちりりとした熱が走る。
でも今日は淹れたてのお茶の香りを深く一度だけ吸い込んで
その熱を静かに沈めた。
以前より、少しだけ早く。
それだけで自分の足元がほんの少し、確かなものになった気がした。
縁側の端では、あかねがちょこんと座って静の方を見ていた。
「きゅ」
静が「なに?」と振り返ると、あかねはそっと静の膝元に体を寄せた。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
静がその小さな背中を指先で撫でると
あかねは目を細めて「きゅ……」と小さく鳴いた。
◆◆◆
夕暮れ
庭は濃い橙色の光に包まれていた。
縁側に腰掛け、静は瑠璃色の灯火がぽつぽつと灯り始める様子を眺めていた。
「ひゅん」
ハルが降りてきて風を運んでくると、瑠璃星草がさわさわとさざめく。
その足元で、ルゥが琥珀色の瞳を細めて丸くなった。
「くぅ」
マルが花の間をとことこ歩き、満足そうに「ぷぅ」と鳴く。
そして、あかねが瑠璃星草の株のそばに静かに座っていた。
小さな翼を畳んで、花の灯りをじっと見つめている。
その夕日色の体に、瑠璃色の光がやわらかく反射して、きれいだった。
静はその光景をぼんやり眺めてから、ふと呟いた。
「フォルティナさんに見せてあげたいな」
誰に言うでもない、独り言。
ツキが縁側に跳び乗る。
「にゃ」
あかねが花の側でそれを聞いて、ちらりと静を見た。
「きゅ」
短く鳴いて、また花に視線を戻す。
少し離れた場所で、開いた窓の近くにいたセリナがその言葉を聞いていた。
また、小さな「もやっと」がやってくる。
けれど今度は、それを追い払おうとはしなかった。
(……そうですね。本当に綺麗ですから)
心の中でそう答えて、その感覚をそっと抱きしめる。
否定するのではなく、今の自分の一部として受け止める。
夕暮れの庭には、気づけば昨日よりも多くの瑠璃色の灯りが揺れていた。
◆◆◆
夜
礼拝堂には静かな蝋燭の火が揺れていた。
セリナはいつもの場所で、一人祈りを捧げている。
今日感じたすべてのこと。
静の笑顔、連絡板の光、そして自分の中に生まれた小さな痛みのようなもの。
彼女はそれらを一つずつ、心の中で静かに整理していく。
今日も『もやっと』は来た。
完全には消えていない。
けれど前より少しだけ、逃げずに向き合えた気がする。
窓の外には庭で揺れる無数の瑠璃色の灯りが見える。
昨日よりも確実にその数は増えていた。
(あの花みたいに……)
声には出さない。
(少しずつでいい。この気持ちも、私のままで)
セリナは祈りを終え、ゆっくりと立ち上がった。
そして、目の前の蝋燭をそっと吹き消す。
暗くなった礼拝堂の向こう側
夜の闇に浮かぶ瑠璃色の灯火は、昨日よりも少しだけ明るく、力強く揺れていた。
その灯りのそばで、あかねが小さく丸くなって眠っている。
その小さな翼を畳んで花に寄り添うように。
まるで、大切なものを静かに守るように。
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