第八話 風の迷子とお裾分けの匂い
屋敷の朝はいつも通り静かだった。
けれど窓を開けた瞬間――違いはすぐに分かった。
風がひと筋、台所を駆け抜けたのだ。
乾燥棚の香草がふわりと揺れ、吊るした葉がさらりと擦れる。
布巾が一枚、机の端でふわっと跳ねて落ちる手前で止まった。
その風はどこか落ち着いていて――そして、ふわりと暖かかった
(春の風って感じかな)
静はそう思いながら、窯の前でパンの様子を見た。
石窯の中で焼き色がゆっくり濃くなっていく。
鍋の中では香草を利かせたスープが小さく呼吸していた。
足元で三匹が反応する。
ツキが鼻先をひくひくさせて、窓の方を見た。
「にゃ」
落ち着いた声
でも『何かいる』と教える時の短さだった。
あかねが慌ててツキの真似をして空を見上げる。
「きゅ」
意味は分かっていない。
でも、ツキが見る方向を見るのがいちばん正しいと知っている。
ルゥは風に煽られて、ちょん、と尻もちをついた。
「くぅ?」
首を傾げるその顔は状況より先に『面白さ』を拾っている。
セリナがふわりと笑って、ルゥの背をそっと撫でた。
「大丈夫ですよ、ルゥ。……やさしい風が届いただけですよ」
静も頷く
「うん。今日は風がやさしく流れているね」
窓の外、空白地帯の木々がやわらかく揺れている。
その揺れ方がいつもより少しだけ優しい感じがした。
◆◆◆
時は少し戻り――
空白地帯のさらに奥、風が集まる谷のような場所
人の足が向くことのない細い道の先
休止中のコアのそばで小さな命が目を覚ました。
眠りは長かった。
目覚めは軽かった。
しかしお腹の空きだけは正直だった。
鼻腔をくすぐるのは、遠くから漂う『温かくて美味しそうな匂い』
その背を柔らかな追い風がそっと押す。
(……匂いのする方へ、行っておいで)
押しつけでも命令でもない
ただ背中を押す程度の囁き
命は理由を知らない。
温かい匂いがある方へ――風に乗るように駆けた。
◆◆◆
朝食の片付けが落ち着いた頃、静は薬草の手入れに庭へ出ていた。
土はやわらかく、湿りすぎず、乾きすぎず。
指で軽く整えるだけで形が素直に戻る。
セリナが籠を抱えてついてきて、摘み取った葉を受け取る。
「ここは、いつ来ても落ち着きますね」
「うん……落ち着くね」
その会話の途中
生垣が、がさがさと大きく揺れた
「ひゅん!」
風の音に似ているのに、ちゃんと『声』として聞こえた。
静は手を止めて生垣へ近づく。
枝をかき分けると――そこにいたのは、小さな子狼だった。
細身で脚が長い。
ふさふさの大きな尻尾に淡い青緑の風紋
その尻尾が蔓に引っかかって、逆さまになっている。
必死に抜け出そうともがいているのに、目だけは台所の窓の方を見ていた。
スープの匂いがそこから流れている。
「……あ」
静は思わず声の温度を落とす
「昨日の影の子かも」
子狼は逆さまのまま、もがいて――
「ひゅん!」
怒っているわけでも、威嚇でもない。
ただ『困った』と『お腹すいた』が混ざった声だった。
セリナが思わず口元を押さえる。
「……可愛いです」
「うん……」
静も同意しながら、そっと蔓を持ち上げた。
「動かないで。尻尾、引っ張ると痛いから」
子狼は一瞬だけ止まり、静の手をじっと見た。
それから小さく
「ひゅん」
まるで『わかった』と言うみたいに。
静は指先で蔓をほどき、絡まった枝を外していく。
急ぐと余計に絡まるのを知っているから慌てない。
最後の一本が外れた瞬間――子狼はふわりと宙に浮いた。
空気が抱えたという感じだった。
「……浮いています」
セリナが目を瞬かせる。
子狼は地面に着く前に姿勢を整え、静の周りを風みたいに三周した。
速いのに乱暴じゃない。
すれ違うたび空気がひんやりして、でも心地いい。
最後に静の手にそっと近づいて――ぺろり、と舐めた。
(お礼、かな)
静が小さく笑うと、子狼は尻尾をぶん、と振った。
◆◆◆
騒ぎを聞きつけて《ルミナ・ヴェール》が自然に集まってきた。
アリアは距離を取りながら全体を見て、リーナは周辺の気配を拾う。
フィアは静の近くへ、目立たない形で寄っていた。
ミレイアは子狼の淡い青緑の紋様を、じっと見つめた。
毛の上に薄く刻まれた、風のしるしのようなもの。
「……昔話に出てくる、風を纏うように駆ける『風狼の子狼』かしら?」
確信ではなく『思い当たる』程度の柔らかさだった。
セリナが感嘆する。
「風狼ですか。こんな近くまで来るなんて、珍しいですね」
誰もこれが世界を支える守護竜の一翼だとは思わなかった。
一般的な感覚で思い浮かぶ『竜種』は、物語の中のドラゴン。
巨大で空を裂くように飛び、炎や雷を吐く――そういう存在。
足元の三匹も、目の前の子狼もそこには繋がらない。
可愛く、小さく、軽い
どう見ても、お腹を空かせてドジを踏んだ迷子だった。
ツキがいちばん早く近づいた。
「にゃ」
落ち着いた声
『慌てなくていい』とでも言うように
それから子狼の額をくん、と嗅いで――毛繕いを始めた。
子狼はびっくりしたように目を丸くし、でも嫌がらない。
むしろ、少しだけ姿勢が落ち着いた。
あかねはツキの真似をして、子狼の横に並ぶ
「きゅ」
キリッとした顔で『私も見守れる』と言いたいらしい。
ルゥは首を傾げて子狼を見上げる。
「くぅ?」
『この子、だれ?』と聞いている顔
子狼はルゥに近づいて、鼻先をちょん、と当てた。
「ひゅん」
ルゥは一瞬固まり――すぐに、ちょっと嬉しそうに尻尾を振った。
「くぅ」
◆◆◆
静は生垣のそばにしゃがみ直す。
「……迷子かな」
フィアが口を尖らせる。
「迷子っていうか、匂いに釣られた顔してるよ」
ちょうどその時、台所からスープの匂いがもう一度流れてきて
子狼の耳がぴくりと動く
「ひゅん」
声が少しだけ弾む。
恥ずかしそうに、でも『行きたい』が隠せない。
セリナが小さく笑う。
「静様……ほんの少しだけ、味見を」
「うん。いきなりたくさんはだめだけど……ひと口くらいなら」
台所へ連れていく途中、子狼は地面を蹴らない。
風に押されるみたいに、軽く進む。
居間のテーブルのそばで、静は小さな木皿にパンをひと欠片置いた。
子狼はまず匂いを確かめ、慎重に口をつける。
「……」
無言で咀嚼して、次に静を見る。
「ひゅん」
――もう少し、の顔
セリナがスープを冷まして、指先で温度を確かめてから差し出すと
子狼が舐める程度に口をつける。
一度、二度
それから目を細めた。
「……ひゅるぅ」
甘えるような、安心した声
フィアが小声で「やば……」と呟く
アリアは肩をすくめた
「落ちたわね」
「落ちた、って何」
静が苦笑する。
「心が、って意味よ」
リーナが短く付け足す
「匂い、食、安心、最短ルート」
◆◆◆
食べ終えた子狼は静の近くで座り込んだ。
尻尾だけがゆっくり揺れている。
「……名前、いるよね」
セリナが頷く
「そうですね、呼ぶ時に困りますし……」
静は少しだけ考えた。
風の匂い、軽さ、春先の空気みたいな気配
「ハル……でどうかな。春の風みたいだし」
子狼は静を見上げ、少しだけ首を傾げる
「……ひゅん」
『それ?』と確認するような声
静がもう一度、優しく呼ぶ
「ハル」
その瞬間、子狼の表情がふわりと緩んだ
「……ひゅるぅ」
甘える声
それは返事として十分だった。
ルゥがすぐに近づいて、ハルの横腹に鼻先を当てる
「くぅ」
ハルも返す
「ひゅん」
ツキが満足そうに尻尾を揺らす
「にゃ」
あかねも真似して胸を張る
「きゅ」
(……増えたな)
静は小さく笑った。
家族が増える時は、いつも『決める』より先に『馴染む』
◆◆◆
夕暮れ
居間の空気が少しだけ青くなり、窓の外の風が静かになった頃
ハルはルゥとじゃれ合い、スープの残りを舐め切って
満足げに腹を見せて寝転んでいた。
丁度その頃、連絡板が淡く光った。
静は指先を添え、文字を読む。
【フォルティナ:今日は風が穏やかですね】
静は少し笑う。
指で文字をなぞり、最後に軽く押さえて確定する。
【静:うん。新しい家族が風を連れてきたみたい】
返し終えると静はふと庭の隅を見る。
土が少し柔らかい場所
いつもより湿り気があって、匂いが濃い
(……次は土の匂いかな)
足元では四匹がそれぞれの声を落とす。
「にゃ」
「きゅ」
「くぅ」
「ひゅん」
居間には鍋の余韻とパンの匂いと、少しだけ新しい風が混ざっていた。
屋敷の夜は静かで、そして今日も温かかった。
イメージソングを作成してみました。
もし興味を持って頂けましたら、曲を聴きながら読んでくれたら嬉しいです。
物語の方も順調に書き進めていますので宜しくお願い致します。
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カクコムでも先行掲載しています。
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