第8話
父は、旅の埃にまみれていた。
北の領地から、馬を乗り継いで駆け通してきたのだという。髪は乱れ、外套は泥だらけで、片手にくしゃくしゃの手紙を握りしめている。わたくしの字の手紙を。
控えの間に父を押しこみ、扉を閉める。ルートヴィヒ殿下には、自習をお願いしてきた。
「……生きて、おるな」
「はい」
「足もあるな」
「ございます」
父は、椅子に崩れるように座った。それから、握っていた手紙を広げる。
「『お父さま。今夜、わたくしは天に召されます。理由は申し上げられませんが、悲しまないでくださいませ』」
「読み上げないでくださいまし」
「『10年、わたくしは幸せでした』」
「お父さま」
「幸せだったはずがあるか」
父の声が、低くなった。
「石ころと呼ばれて、10年だ。王命だからと、わしは一度も断らなかった。おまえが泣いて帰ってきた日も、宮中の噂を耳にした日も。王命に逆らえば家が傾く。そう言い訳をして、何もしなかった」
わたくしは、黙っていた。
泣いて帰った日のことは、覚えている。7歳の冬。父は、何も言わずに頭を撫でてくれた。それだけ。それだけで、あのころのわたくしには足りていた。
「この手紙を読んで、馬に乗るまで、わしはおまえが本当に死ぬのだと思っていた。3日、ろくに眠らずに走った。走りながら、10年分を悔いた」
父は、手紙を丁寧に畳んだ。
「帰ろう、エリシア。北へ。もう誰にも、石ころなどと呼ばせん」
わたくしは、頭の上の重さを思った。
帰りたい。それは本当だった。6日前の朝までは、それだけを考えていたのだから。
けれど、帰れば何が起きるのか、わたくしにはわからない。
「お父さま。少し、時間をくださいませ」
「なぜだ。何を待つ」
砂時計のことは言えない。誓いのことも、中身を知らない以上、言いようがない。
「殿下の教育係を、お引き受けしたばかりですの。投げ出すわけにはまいりません」
父は長いこと、わたくしの顔を見ていた。
それから、深くため息をつく。
「……おまえは、昔から言い出したら聞かん」
◇
噂が回りはじめたのは、その2日後のことだ。
出どころは、たどるまでもない。第一王子派の貴婦人がたのお茶会から、宮中の隅々へ。
――ヴァルデンの石ころは、聖女の光が消える刻を知っていた。
――陛下の御前で「知っておったのか」と問われて、知らぬと答えたそうな。知らぬ者が、あれほど落ち着いていられるものか。
――石ころなどではない。魔力を隠しているのだ。
宮中には古い定めがある。魔力の有無を偽って仕える者は、宮中から追う。魔力が貴族の格を決めるこの国では、偽りの判定は家柄の詐称と同じ扱いになる。
噂は、目に見える形でわたくしの周りに降りてきた。
回廊ですれ違う貴婦人がたが、扇の陰で道をあける。避けているのだと、わかるように避ける。10年で慣れたはずの目つきだが、今度のものは少し違う。石ころを見下ろす目ではなく、得体の知れないものを見る目。
教育の間へ行くと、机の上の本が半分なくなっていた。
「侍従長のご指示でございます」
若い侍従が、目を合わせずに言った。
「噂が収まるまで、ご講義は控えるようにと。殿下のお身の回りに、疑いのある方を近づけるわけにはまいりませんので」
控える。収まるまで。追い出すとは、誰も言わない。ただ、わたくしの居場所を、一冊ずつ机の上から片づけていく。
「姉上」
奥の扉から、ルートヴィヒ殿下が顔を出した。なくなったはずの本を、3冊抱えている。
「書庫から取ってきた。侍従長には、私が読みたいと言っておいた」
「殿下、それでは殿下まで――」
「私の教育係は、姉上だ」
殿下は本を机に積むと、いつもの席に座った。耳が、少し赤い。
その日の講義は、条約の続き。殿下はいつもより熱心に聞き、いつもより多く質問をなさる。わたくしは答えながら、窓の外で回廊を行き来する人影を、何度も目の端で数えていた。
あの夜、陛下はたしかにお尋ねになった。わたくしは、知らないとお答えしている。嘘ではない。刻を知っていたのではなく、砂を見ていたのだ。けれどそれを説明すれば、隠し事がひとつ増えるだけだった。
翌朝、リーベルト公爵が陛下に願い出た。
ヴァルデン嬢の魔力を、公の場で測り直されたい、と。
「測ればいい」
父は、鼻で笑った。
「7歳で測って、水晶は光らなんだ。何度測っても同じことよ。恐れることは何もない」
「ええ」
わたくしは、うなずいた。うなずきながら、別のことを考えている。
リーベルト公爵は、勝ち目のない勝負を申し出る方には見えない。測ればゼロと出る娘を、わざわざ公の場で測らせたがる理由がない。
ゼロと出ない手立てを、持っているのでなければ。
「再判定は3日後、大広間にて」
陛下の侍従が、そう告げに来た。
頭の上で、砂は変わらず落ちている。この6年分の砂は、まだ落ちはじめたばかりだ。それを、3日後に誰かが止めようとしている。




