第6話
目を覚ますと、天井があった。
王都の屋敷の、わたくしの寝室の天井である。死ぬつもりで出かけた晩の翌朝に、いつもの天井を見上げている。妙な気分だった。
首をそらして、頭の上を確かめる。
何もない。
10年ぶりの、何もない朝。
◇
まず片づけるべきは、手紙だった。
身支度もそこそこに、侍女のミーナを連れて街の飛脚屋へ走る。弟宛ての手紙は、まだ棚の上にあった。学院行きの便は昼に出るのだという。封を切らずに取り返し、胸に抱いて、ようやく息がつけた。
「北の領地宛てのものは」
飛脚屋の主人は、気の毒そうに首を振った。
「北へは早馬便でございましてな。夜明け前に出ております」
父のほうは、間に合わない。
早馬なら、北の領地まで3日。父があれを読むのは、3日後の朝になる。中身は、娘の遺書である。
わたくしは店先で、しばらく天を仰いだ。
「お嬢さま」
帰り道、ミーナが言った。
「あの紹介状でしたら、ゆうべのうちに破いておきました」
「……なぜ」
「お嬢さまのお顔が、死ぬ人のお顔ではございませんでしたので」
わたくしは、10年ぶりに声を立てて笑った。
◇
昼前、王宮から迎えの馬車が来た。
陛下に「望み」を申し上げる刻限である。明日の分から考えたいと申し上げて、一晩。考えはまとまっていない。北へ帰って、父と弟と静かに暮らす。浮かぶのは、せいぜいそのくらいのもの。
馬車の中で、ミーナが言った。
「望みでしたら、いくらでも思いつきますけれど」
「たとえば」
「お嬢さまを石ころと呼んだ方々のお名前を全部書き出して、陛下にお渡しするとか」
「名簿が長くなりすぎるわ」
「では、北の領地に温室を建てていただくとか。お嬢さまは、花がお好きでしたでしょう」
好きだったかしら、とわたくしは考える。庭の花を眺めるのは好きだった。ただ、眺めるたびに花の命の短さを思って、頭の上の砂時計を見上げてしまう。そういう10年でもあった。
「明日の分から考えると申し上げたのに、明日の分すら、思いつかないのね」
「死ぬおつもりでいらしたんですもの。無理もございません」
ミーナは、あっさりと言った。この子には、昔から遠慮というものがない。
王宮の回廊は、ゆうべとは別の場所のように静かだった。
すれ違う侍女も、文官も、わたくしを見ると足を緩める。ゆうべの大広間にいた方々なのだろう。目に浮かんでいるのは、哀れみでも嘲りでもない。どう扱えばいいのか決めかねている、という顔である。10年、石ころと呼んでいた娘が、一晩で王冠をひとつ動かしてしまったのだから。
神殿へ続く渡り廊下の手前で、低い話し声が聞こえた。
「――謹慎とは、あまりに軽い。陛下は、ユリウス殿下を見限るおつもりか」
「声が高い。まだ終わったわけではない」
「しかし、王冠はもう」
「誓いというものは、守り通すより、破らせるほうがたやすい。ゆうべ、それを見たばかりだろう」
柱の陰から、二人の貴族が出てきた。わたくしに気づくと、ぴたりと口を閉じ、型どおりの礼をして去っていく。どちらの胸にも、第一王子派の印である銀の鷲の留め金が光っていた。
破らせるほうがたやすい。
その言葉が、妙に耳に残った。
通されたのは謁見の間ではなく、神殿だった。
祭壇の前に、ルートヴィヒ殿下が立っておられる。ゆうべ椅子の上で足をぶらつかせていた12歳の少年が、今朝は白い礼服を着せられて、ひどく居心地が悪そうだ。
立太子の儀である。
本来なら何か月もかけて支度する儀を、今朝、最小限の形で済ませるのだという。王冠の行き先を一日でも宙に浮かせておくのは、国にとって毒になる。陛下らしいご判断だった。
参列者は、ひと握り。魔術院長のベルンハルト師と、数人の重臣。その中に、見慣れない壮年の貴族がいる。銀の口ひげを整えた、背の高い方。わたくしと目が合うと、口元だけで笑った。
神官が、祭壇の灯に手をかざす。
小さな炎が、ひとつ、ともった。
その瞬間、頭の上が重くなった。
覚えのある重さである。10年、毎日感じていた重さ。ゆうべ消えて、今朝はなかった重さ。
わたくしは、ゆっくりと見上げる。
砂時計があった。
金の枠に、硝子の胴。ゆうべ消えたものとよく似ているが、少しだけ小ぶりで、枠の金が新しい。上の玉に白い砂がたっぷり詰まって、糸のように細く落ちはじめている。
落ちる速さは、わからない。
前のものは、10年かけて速さを覚えた。だから残りが読めた。今度のものは、今、落ちはじめたばかりだ。いつ尽きるのか、何が終わるのか、見当もつかない。
祭壇の前で、ルートヴィヒ殿下がこちらを振り返った。
目が合う。
殿下は、なぜか真っ赤になって、ぷいと前を向いてしまわれた。
わたくしは、頭の上の重さを感じながら、天を仰いだ。今朝、二度目である。
――また、乗った。
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