第5話 第1部完
最初に動いたのは、殿下だった。
コレット様の肩から、手を離す。火に触れたように、ぱっと。
「……私を、騙したのか」
「殿下」
「聖女だと言ったな。私のそばにいると力が満ちると言ったな。私に、こんな大勢の前で――」
「殿下だって!」
コレット様が叫んだ。桃色の髪を振り乱して、殿下につかみかかる。
「殿下だって、あの石ころを捨てたいって言ったじゃない! 魔力のない女を王妃にしたら笑いものだって、あなたが言ったのよ! だから、手伝ってあげたんじゃない!」
広間の人々が、今度は殿下を見た。
殿下は、真っ青になった。
「衛兵! この女を連れて行け!」
コレット様は衛兵に両腕を取られ、ギルベルトと並んで引き立てられていった。わめき声が大扉の向こうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
聖女を騙るのは、この国では神殿への重い罪である。王族を欺いたとなれば、なおのこと重い。あの方がどうなるかは、わたくしが決めることではない。けれど、たぶん、あの桃色の髪を大広間で見ることは二度とないだろう。
広間には、殿下とわたくしが残された。
正確には、殿下と、わたくしと、わたくしたちを遠巻きにして息をひそめている大勢の人々が。
殿下が、わたくしのほうを向いた。
額に前髪を張りつけて、目の縁を赤くして、ひどい顔をしておられる。けれど声だけは、急にやさしくなった。
「エリシア」
殿下は、わたくしの手を取った。
「すまなかった。あの女に、たぶらかされていた。……破棄は、取り消す。そなたは、今も私の婚約者だ」
わたくしは、自分の手に重ねられた殿下の手を見下ろした。
それから、見上げる。
頭の上の砂時計。
10年、見上げてきた砂時計。
上の玉に残っているのは、もう、指でつまめるほど。夜半の鐘は、すぐそこだ。
あと少しで、わたくしは死ぬ。
死ぬとしたら、この方の婚約者として死ぬのだろうか、とわたくしは考える。
たぶらかされていた、とこの方はおっしゃった。けれど、魔法は前髪にしかかかっていなかった。わたくしを捨てたいとおっしゃったのは、この方ご自身だ。コレット様が嘘つきだとわかったとたんに肩から手を離したのも、この方ご自身。今わたくしの手を取っておられるのは、広間じゅうの目が、こちらを向いているからだ。
10年の最後の砂を、この方の婚約者として迎えるのは、嫌だった。
はっきりと、嫌だ。
「殿下」
わたくしは、そっと手を引き抜いた。
「誓約の婚約は、申し出た方が、相手の同意なしに言葉を引っこめることはできません。取り消しも、わたくしが承って、はじめて成るのでしたわね」
「……そうだ。だから、承ってくれ」
「殿下のお言葉は、今、宙にふたつ浮いております。破棄と、取り消しと。どちらを拾うかは、わたくしが決めてよいのでしたわね」
殿下の顔が、こわばった。
わたくしはスカートをつまみ、深く膝を折った。10年の王妃教育で、いちばん上手になった礼である。
「婚約破棄、謹んで承ります」
頭の上が、ふっと軽くなった。
見上げる。
砂時計が、ない。
落ちきったのではない。最後のひとつまみを上の玉に残したまま、硝子も、金の枠も、砂も、まるごと消えていた。10年そこにあったものが、何もない。
わたくしは、立ったまま待った。
死ぬのを、待った。
殿下が、何か言っている。「待て」とか、「取り消したと言っただろう」とか、そういうことだった気がする。耳には入らない。わたくしは自分の手を見て、胸に手を当てて、それから天井の燭台を見上げた。燭台の小さな砂時計は、相変わらずさらさらと落ちている。
大時計が、夜半の鐘を打ちはじめた。
ひとつ。ふたつ。
わたくしは、生きていた。
みっつ。よっつ。
鐘を数えるうちに、大扉が開いた。
真っ白な祈りの衣のまま、陛下が入ってこられる。お供の神官たちが、息を切らしてあとに続いていた。
広間の者が、いっせいに膝を折る。
陛下は、殿下を見た。前髪の張りついた、ひどい顔の殿下を。広間に残る、ざわめきの名残りを。
それから、わたくしを見た。
「……ほどけたか」
陛下は、低くおっしゃった。
「回廊で、神官が追いついてきてな。誓いの灯が消えたと。……間に合わなんだな」
「父上、何を――」
「ユリウス。そなたの婚約は、ただの縁組ではない」
陛下は、静かにおっしゃった。
「王家に生まれた者は、みな知らされぬまま、ひとつ誓いを負う。幼いうちに立てた誓いを、成人の日まで守り通せるかどうか。守り通した者の頭にしか、王冠は載らぬ。わしも負うた。わしの父も負うた」
鐘が、最後のひとつを打ち終えた。
「そなたの誓いは、この娘との婚約であった。申し出ただけならば、まだ破ったことにはならぬ。ほどけたときに、破れる。夜半の鐘まで守り通せば、そなたは王太子として立った。誓いの印はこの娘に置き、神殿に灯をともして見守らせておった」
陛下は、殿下を見下ろした。
「……あと、少しであったな」
殿下が、その場に膝をついた。
「王冠は、ルートヴィヒに回す」
上座の脇で、第二王子殿下が椅子から転げ落ちそうになっている。
「父上!」
「そなたは、ひとつ誓いを守れなんだ。王冠は、それを見逃すようにはできておらぬ」
殿下は、前髪の下で、口を何度も開いたり閉じたりした。声は出ない。
わたくしは、ようやくわかった。
10年、見上げてきたもの。わたくしの寿命だと思っていたもの。
あれは、殿下の砂時計だったのだ。
殿下が誓いを守り通せるかどうか。その期限を、わたくしの頭の上に乗せて、誰にも知らせずに、10年、落としつづけていたのだ。
陛下が、わたくしに向き直った。
「ヴァルデンの娘。そなたにも、すまぬことをした」
「……もったいのうございます」
「魔力のない娘を選んだのは、ユリウスが必ず不満を持つと思うたからだ。不満を持ってなお守り通せるか、見たかった。そなたは、そのための問いであった」
「わたくしは、殿下の試しの問いでございましたのね」
「そうだ」
陛下は、否定なさらない。そういう方である。
「そなた、知っておったのか。今の刻を。承ったのは、それを知ってのことか」
わたくしは、少し考えた。
砂時計のことは、言えない。言っても、信じてはいただけないだろう。
「いいえ。存じませんでした」
わたくしは、正直に申し上げた。それから、もうひとつ、正直に付け加える。
「存じておりましても、承りましたけれど」
陛下は、目を丸くなさった。
それから、祈りの衣の袖で口元を覆い、肩を震わせてお笑いになる。王の笑い声が大広間に響くのを、わたくしははじめて聞いた。
「……そうか。そうであろうな」
陛下は笑いをおさめて、おっしゃった。
「望みを申せ。10年の償いだ。たいていのことは聞いてやる」
わたくしは、また少し考えた。
困ったことに、何も思いつかない。
「恐れながら、陛下」
「うむ」
「わたくし、今夜までの予定しか立てておりませんでしたの。明日の分から、考えさせていただけますでしょうか」
陛下は、今度は声を立てずに、ただうなずかれた。
◇
大広間を出ると、夜風が冷たい。
回廊の燭台に、小さな砂時計がいくつも乗っている。門番の槍の穂先にも、ひとつ。夜空を横切っていく伝令の鳩の足にも、ひとつ。この国は相変わらず、わたくしの目には砂時計だらけだ。
そういえば、父と弟への手紙を、明日の朝いちばんの便で出すよう頼んであった。取り返さなければならない。遺書を受け取った弟が、学院の寮で泣き出す前に。侍女に持たせた紹介状も、取り返さなければ。あの子は、もう次の奉公先を決めてしまっているかもしれない。
押し花は――明日、考えることにした。
わたくしは首をそらして、自分の頭の上を見上げた。
何もない。
星が、見えた。
10年ぶりに、わたくしは自分の明日を知らなかった。
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