第4話
「承れ」
予想どおり。前髪を額に張りつけたまま、殿下はおっしゃった。ご自分の前髪がどうなっているか、ご存じないのである。広間の何人かが、扇の陰で肩を震わせていた。
「罪状のひとつめの証を、まだ伺い終えておりません」
「痣を見ただろう」
「消えてしまいましたので」
「聖女の力で治ったのだ!」
「では、治る前の痣をご覧になった方のお話を、伺いとうございます」
わたくしは、侍女のほうへ向き直った。
「ハンナさん。3日前の夕刻、あなたは大階段のどこにいらしたの」
侍女は、目を伏せたまま答えた。
「階段の下の、踊り場におりました。お嬢さまがおいでになるのを、お待ちしておりました」
「わたくしは、どちらの手で突いたのかしら」
「両手で、背中を」
「わたくしのドレスの色は」
「……紺でございました」
「髪は、結っておりましたか。下ろしておりましたか」
「結っておいででした」
よどみのない答え。こちらも、考えてきた答えなのだろう。
3日前の夕刻、わたくしはたしかに紺のドレスを着ていた。王宮の書庫に、王妃教育で借りた本を返しに行ったのだ。大階段も通っている。そういうことを、あの方々はきちんと調べてある。
わたくしは、侍女の胸の砂時計を見た。
上の玉に、まだ小指の先ほど残っている。
「もう一度、伺ってよろしいかしら。踊り場の右寄りでしたの、左寄りでしたの」
「いい加減にしろ!」
殿下の声が、広間に響いた。
「同じことを何度聞く気だ。時間稼ぎも大概にしろ」
広間の空気が、少し変わる。さっきまで殿下の前髪を笑っていた方々も、今は眉をひそめてわたくしを見ている。石ころが、見苦しく粘っている。そういう目だ。
そう見えるだろう、とわたくしは思った。事実、粘っているのだから。
コレット様が、殿下の腕にそっと手を添えた。
「殿下、もうよろしいじゃありませんか。……ハンナ、あなたはもう下がっていいわ。怖い思いをさせてごめんなさいね」
侍女が、立ち上がりかけた。
「お待ちになって」
わたくしは言った。
「証をなさる方も、裁きが済むまで座をお離れになれませんわ。ハンナさんがお下がりになるなら、罪状のひとつめは、取り下げたものといたします」
侍女は、中腰のまま止まった。
コレット様が、また大時計を見る。
今度は、隠そうともしない。唇が、かすかに動いている。何かを数えているように見えた。
それで、わたくしにはわかった。
この方は、知っている。痣がいつ消え、侍女がいつ侍女でなくなり、光の輪がいつ消えるのか。全部知っていて、大時計と見比べている。
あの砂時計は、全部、この方のための魔法なのだ。
「ハンナさん」
わたくしは、穏やかに言った。
「では、踊り場の右寄りでしたの、左寄りでしたの」
侍女は、答えなかった。
膝をついたまま、両手で胸を押さえている。そこには、わたくしにしか見えない砂時計がある。その上の玉が、空になろうとしていた。
この人も、知っているのだ。
「……右、でございます」
侍女の声が、震えた。
最後の砂が、落ちた。
灰色の服の中で、侍女の輪郭が、陽炎のように揺らぐ。
細い肩が、ぐいと張り出した。結い上げた茶色の髪がほどけて、短く縮れていく。白い頬には、青い無精ひげ。灰色の服の袖から、骨ばった大きな手首が突き出る。
膝をついていたのは、侍女の服を着た、痩せた中年の男だった。
誰も、声を出さない。
いちばん先に悲鳴を上げたのは、男の隣にいた伯爵夫人。それを合図に、広間じゅうが割れるような騒ぎになった。
「ギルベルト・ハース……!」
人垣の中から、白ひげの老人が進み出た。魔術院の長、ベルンハルト師である。
「禁術に手を出して、魔術院を破門された男だ。変じの術か……わしが目の前で、気づかなんだとは」
衛兵が駆けつけ、男の両腕をつかむ。女に化けて、王宮の大広間に入りこんだのである。それだけで、十分に重い罪だった。
「し、知りません!」
コレット様が叫んだ。
「こんな人、知らない! ハンナはどこへ行ったの! ……エリシア様ね。エリシア様が、わたくしに恥をかかせるために、この人を仕込んだのよ!」
なかなかの切り返しだ、とわたくしは思った。痣のときと同じである。この方は、崖っぷちでも足を止めない。
殿下が、コレット様とわたくしを交互に見た。前髪の下で、目が泳いでいる。
それから殿下は、コレット様の肩を抱き直した。
「……聖女が、嘘をつくはずがない」
殿下は、そちらを選んだのだ。
わたくしは、もう何も言わなかった。言う必要がない。
わたくしは、コレット様の頭の上を見ていた。
光の輪の上の砂時計。わたくしのそれと同じように、頭の上に浮かんでいる砂時計。
あと、ひとつまみ。
コレット様が、わたくしの目に気づいた。わたくしの目が、ご自分の顔ではなく、その少し上を見ていることに。
コレット様の顔から、血の気が引いていく。
「……あなた、まさか」
見えてるの、と、唇だけが動いた。
わたくしは、にっこり笑った。
「聖女さまのお言葉が真かどうか、もうすぐわかりますわ」
最後の砂が、落ちた。
淡い金の光の輪が、ふっと消える。
燭台の火を吹き消したように、あっけなく。桃色の髪の上には、何もない。広間いっぱいの人が、それを見ていた。
今度こそ、広間は静まり返る。
衛兵に押さえつけられた男が、声を上げて笑い出した。
「ははっ、切れた、切れちまった!」
男はコレット様を見上げて、黄色い歯を見せた。
「知らない、はねえだろう、お嬢ちゃん。光も痣も、俺の術だ。下町で病人を治したってのも、俺が幻を見せただけだ。代金はまだ半分しかもらってねえ。残りは王妃になってから払うって話だったよな?」
「嘘よ!」
「嘘なもんか。こうなったら、俺ひとり首を括られてたまるか。全部しゃべってやるよ。魔術院長さまにも、陛下にもな」
コレット様は、何か言い返そうとして口を開き、そのまま、何も言わなかった。
言葉が、もう出てこないらしい。
わたくしは、殿下のほうへ向き直った。
「殿下。罪状のふたつめ、聖女さまを偽物と噂した件でございますけれど」
殿下は、答えない。
「わたくしは、噂を流した覚えはございません。けれど、どなたかが流していたのだとしても、それは噂ではなく、事実でしたわね」
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