第56話
王都の外れの庭で、ベルンハルト師は、薔薇の垣根の前に座っておられた。
冬の薔薇にも、ひとつずつ、小さな砂時計が乗っている。
話を聞き終えると、師は、長いこと黙っていた。
「忘却の術は、思い出を消すのではない」
やがて、師が口を開く。
「移すのだ。忘れさせたい者についての思い出を、ひとつ残らず抜き出して、器に封じる。器は、術をかける相手が身につけておるか、大事にしておる品でなければならん」
「器」
「封じておけるのは、器の砂が落ちきるまで。落ちきれば、器の中の思い出は、戻る先を失って消える。……器を割れば、思い出は、持ち主のもとへ帰る」
師は、杖の先で、地面に小さな丸をふたつ描いた。
「相手の頭の上の砂と、器の上の砂は、同じときにかけた術だ。同じ速さで落ちる。王妃には、ふたつとも見えるはずだ」
「器は、どこに」
「それは、かけた者にしかわからん。だが、かけた者の手で、かけたその場で、器に封じねばならん術だ」
ゆうべ、陛下が身につけていた品。陛下が大事にしておられる品。かけた者が、その場で手に取れた品。
わたくしは、立ち上がった。
◇
その夜、わたくしは、眠った陛下の枕もとに座っていた。
今は、わたくしの寝室ではない。陛下は、ゆうべから、ご自分の寝所でお休みになっている。知らない女と同じ寝台では眠れない、と仰って。
もっともなことだと思う。
それでも、眠っている陛下の枕もとに座ることだけは、お許しをいただいた。
「なぜ、そこまでする」
「陛下の頭の上の砂を、見ていなければなりませんので」
「砂など、私には見えない」
「存じております。ずっと前から」
陛下は、しばらく黙ってから、背を向けて横になった。
「好きにしろ」
その声が、7年前の陛下と、少しも変わらない。
燭台の灯りを落として、陛下の頭の上の砂時計を見る。新しい砂時計の速さは、ひと晩見なければわからない。
夜が明けるころ、砂の山は、目に見えて低くなっていた。
……落ちきるのは、冬の大祭の日。
冬の大祭は、王が冠を戴いて神殿に祈る、年に一度の祭りである。
ゆうべの謁見から、大祭まで。砂時計は、その日の祈りが終わるころに、ちょうど落ちきるように組まれていた。
偶然ではない。かけた者は、大祭の日を、知っていて選んだのだ。
◇
陛下が大事にしておられる品を、ひとつずつ見て回った。
腰の剣には、何も乗っていない。印章の指輪にも。ロッテが7つの祝いに贈った、木彫りの小さな馬にも。
居間の卓に、もうひとつ、陛下が大事にしておられる品があった。
わたくしが婚礼の朝に差し上げた、銀の栞である。
何も、乗っていない。
それを、陛下は不思議そうに手に取った。
「これは、誰にもらったのだったか」
「……どなたでしょうね」
残るのは、ひとつ。
ゆうべの謁見で、陛下が戴いておられた王冠。
王冠は、ふだんは宝物庫に納められている。宝物庫の鍵を預かるのは、侍従長のブラント伯である。
「王冠を、拝見したいのです」
わたくしが申し上げると、ブラント伯は、慇懃に頭を下げた。
「王冠は、戴冠と大祭の日のほかは、宝物庫から出さぬ習いでございます。陛下のお許しがなければ」
陛下のお許しは、出なかった。
「王冠を見せろ、と言う理由は」
「陛下の思い出が、封じられているかもしれません」
陛下は、しばらくわたくしを見つめてから、首を振る。
「覚えてもいない女の言葉で、王冠を出すことはできない」
◇
その日の午後から、宮中に、ひとつの噂が流れはじめた。
陛下は、王妃の術から醒められたのだ、と。
「王妃陛下は、見えるお方です。術に通じておられる。陛下が12のころから、そばにおられた」
評定の間で、ブラント伯は、穏やかにそう言った。
「長い年月、陛下のお心を、何かで縛っておられたのやもしれません。それが、ゆうべ、ほどけた。……陛下が王妃陛下を覚えておられないのは、そもそも、覚えておくべき本当の思い出が、なかったからではございませんか」
評定の間が、静まりかえった。
ブラント伯の後ろの席で、若い娘が、つつましく目を伏せている。伯の娘のヘレーネ様だ。この冬から、王宮に出仕するようになった。陛下にお茶を運ぶ係に、いつのまにか収まっている。
陛下は、何も仰らない。
ブラント伯は、さらに続けた。
「冬の大祭で、陛下が冠を戴いて、お心をお示しになればよろしい。妃をこのまま置かれるのか、それとも」
それとも、の先を、誰も口にしなかった。
大祭の日に、わたくしは、妃でなくなるかもしれない。
同じ日に、陛下は、わたくしを永久に忘れる。
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