第55話
朝の戸口で、陛下は足を止めた。
いつものように、わたくしの頭の上を見上げる。婚礼の朝から続いてきた、ふたりの朝の始まり。
けれど、陛下の口から出たのは、いつもの言葉ではなかった。
「……そなたは、誰だ」
わたくしは、髪を結いかけた手を止める。
陛下は、戸口に立ったまま、わたくしを見ていた。知らない女が寝室にいる、という顔で。
冗談を仰る方ではない。7年と少し、この方が朝の言葉を間違えたことは、一度もない。
わたくしは、陛下の頭の上を見上げた。
撫でつけた髪の上に、整髪の術の小さな砂時計。
その隣に、もうひとつ。
ゆうべまでは、なかった砂時計である。両手に載るほどの大きさで、金の枠の中を、白い砂が細く落ちつづけていた。
◇
ゆうべは、冬の謁見があった。
諸侯が王都に集まり、王が冠を戴いて、ひとりひとりの挨拶を受ける。わたくしは、ロッテが熱を出したので、途中で下がらせていただいた。
陛下が寝室に戻られたのは、夜半を過ぎてから。わたくしは、もう眠っていた。
その間のどこかで、砂時計が乗ったのだ。
「侍従長を呼べ」
陛下が、戸口の外に声をかける。
「待って」
思わず、袖をつかんでいた。
陛下は、つかまれた袖を見下ろして、眉を寄せる。ロッテとそっくりの眉。
「……ご無礼を。陛下、わたくしは、エリシアでございます。陛下の妃の」
「妃」
陛下は、ゆっくりと繰り返した。
「私に、妃がいるのか」
戸口の外で、湯桶を抱えたミーナが、凍りついたように立っている。
陛下は、ミーナの顔を見て、ほっとしたように息をついた。
「ミーナ。この方は」
ミーナのことは、覚えておられるのだ。ヴァルデン家から、わたくしについてきた女中だということも、きっと。わたくしのことだけが、抜け落ちている。
ミーナは、湯桶を床に置く。
「陛下のお妃さまで、ございます」
いつもより、ずっと低い声だった。
「7年前、陛下が、ご自分で選ばれたお方でございます」
◇
侍医は、陛下の脈をとって、首をかしげた。
どこもお悪くない、と言う。名を尋ねれば答え、国の名も、諸侯の名も、ゆうべの謁見の段取りも、すらすらと仰る。
ロッテのことも、覚えておられた。
「娘だ。7つの祝いを、この秋にした」
「その子の母親は、どなたでございますか」
侍医が尋ねると、陛下は、口を開きかけて、黙りこんだ。
「……わからない」
長い沈黙のあとで、陛下はそう言った。
「いたはずだ。いなければ、娘はいない。……だが、思い出そうとすると、そこだけ、霧がかかる」
寝台の脇で、ロッテが、わたくしの手を握りしめている。
「おとうさま」
ロッテが言った。
「わたしの、おかあさまです」
陛下は、娘の顔と、わたくしの顔を見比べる。
「……眉は、私に似ているな」
「目は、おかあさまに似ているのです」
陛下には、その意味がわからない。娘が見えることを打ち明けた朝のことも、わたくしと一緒に、霧の向こうへ行ってしまったのだろう。
娘も、父親の頭の上を見上げていた。娘にも、見えているのだ。
◇
アルノーは、陛下の頭の上に手をかざして、長いこと目を閉じていた。
わたくしが砂時計の場所を指さすまで、そこに術があることさえ、わからなかったという。目立たぬように、念入りに組まれた術だった。
やがて、アルノーは、青い顔で目を開けた。
「忘却の術でございます」
「忘却」
「ひとりの人のことだけを、忘れさせる術です。魔術院では、禁じられております」
アルノーは、わたくしの顔を見られずにいる。
「解けるの」
「かけた者にしか、解けません。……でなければ、砂が落ちきるのを待つしか」
「落ちきれば、思い出すのね」
アルノーは、答えなかった。
答えないまま、膝の上で、両手を握りしめている。
「アルノー」
「……落ちきれば」
アルノーは、絞り出すように言った。
「陛下は、王妃陛下のことを、二度と思い出されません」
◇
その夜、わたくしは、ひとりで寝台に座っていた。
隣は、空いている。
7歳の秋から、わたくしは、人の頭の上ばかり見て生きてきた。誰の術が、いつ切れるのか。わたくしにわかるのは、それだけだ。
17の夜、わたくしの頭の上の砂が落ちきろうとしていた大広間に、あの方は、12の子どもの顔で座っていた。
あの方が、わたくしを覚えていてくれる限り、わたくしは、ひとりではなかった。
燭台の砂時計が、さらさらと砂を落としている。
今夜は、それが、少しだけ怖い。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




